第壱拾陸章 決闘の果てに
桜花視点に戻ります。
桜花は真っ暗な場所に一人で立っていた。
桜花以外に誰もいない。桜花の他には何も無かった。
『いい……イテェよぉ……顔がイテェよぉ……』
「な、何?」
気持ち悪い『声』が聞こえて、桜花は周りを見るけど『闇』があるばかりだった。
『イテェよぉ……俺の顔がぁ……裂けたぁ……イテェよぉ……』
「な、何なんだよ……」
『声』は段々近づいて来るのに、『姿』はまったく見る事ができないせいで桜花の胸の奥がざわついてきた。
『イテェよぉ……イテェよぉ……顔が石榴みてぇに……割れたぁ……』
怖くて怖くて体が動かない桜花の右肩をナニかが掴んだ。
『イテェんだよ……テメェに斬られて……顔がイテェんだよ……』
桜花の左肩にドンとナニかがのしかかってきた。
「ヒッ……」
桜花は怖くて思わず目を瞑った。
『よぉ? 何、怖がってんだ? 怖くないはずだろぉ……だって、テメェは俺を……』
桜花はその『声』に聞き覚えがあるような気がして、勇気を振り絞って目を開けて左肩を見た。
桜花は斜めに顔を裂かれた男の人と目が合ってしまった。
『だって、テメェは俺を殺したじゃねーか!!』
「ヒィィィィィィィィィィィィィィ?!」
桜花は自分が手にかけた盗賊に抱きつかれていたんだ。
「うわああああああああああああああああああああッ!!」
桜花はもうなにがなんだか解らなくなって、ただ一目散に逃げ出した。
けど桜花の足は変な風にもつれて上手く走ることができなかった。
『つれねーなぁ? 俺の事を殺しておいて、そりゃねーだろ?』
盗賊のからかい声が桜花を追いかけてくる。
「ご、ごめんなさい! 桜花が悪かったから、お願いだから来ないで!!」
恥も外聞もなく涙を零して、洟まで垂らして桜花は必死に逃げ続ける。
けど、もどかしいほど足は動いてくれず、とうとう桜花は盗賊に捕まってしまった。
『ヒヒヒ……俺だけじゃ寂しいからよぉ……テメェにも地獄に付き合って貰うぜぇ?』
「きゃあああああああああああああああああああッ!!」
盗賊が桜花を組み伏せると、彼の顔は腐り溶けて骸骨になってカタカタと笑った。
「へん! 情けねぇなぁ。お前も勇者なら、そんくらい何とかしろよ」
「ほえ?」
聞き覚えのある『声』に桜花は顔を上げた。
「まったく……でも、いい場面で可愛い『妹』を助けるってのも『兄』の特権だよな?」
聞き覚えがあるはずだよ。だって、今のは桜花と同じ『声』だもん。
「取りあえずは、だ……テメェは消えろ!!」
『ギエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!』
もう一人の桜花……ううん、巴が『月影』を振ると盗賊は刀身に吸い込まれるように消えていった。
「大丈夫か?」
仰向けのまま呆然としている桜花の目の前で巴が笑いかけていた。
「あ、ありがと……それと」
「それと?」
桜花は目の前にぶら下がっているモノを思わず凝視しながら続ける。
「巴、何で裸なの?」
「何でって、桜花も同じ格好なんだけど?」
「ええ?!」
桜花は初めて自分が一糸纏わぬ姿をしている事に気が付いた。
「な、何で?!」
桜花は胸を両手で隠しながら巴を睨んだ。
「お前、ほとんど同じ『存在』の俺に対して恥ずかしがるなよ……ついでに俺の知覚したものは即ち、お前が知覚したものなんだぜ?」
云われて桜花は顔が火照ってしまった。
そうだった。桜花が今まで見聞きしてきた事は全て巴も知覚していて『知識』として残るんだった。
つまり脱衣所の姿見で見た桜花の裸は勿論、一人でお風呂に入る時につい出来心でしてしまう、あーんな事やこーんな事も巴には筒抜けだったって事……
「あうううう……」
「何、一人で混乱してるかな? ああ、さっきの質問なんだけどよ。単純にお前が俺達の服を思い浮かべてなかっただけだろ?」
「ほえ?」
「だから、今俺達がこうして話してる段階で察しろよ?」
えぇっとぉ……思い浮かべる? 俺達?
桜花の目の前に巴がいる……
あ?! そうか!
「これって桜花の……『夢』?」
「そうだよ。あんまり魘されてっから、俺の『夢』をお前の『夢』に干渉させてみりゃ案の定って訳さ」
そうだった。桜花は昼間に人を……初めて人を殺めた……
「あの『盗賊』は桜花の恐怖や罪悪感の表れなんだね?」
「そういう事! なんだ、お前も存外頭が悪くないじゃないか?」
桜花と同じ顔が人の悪い表情でキシシシと笑った。
「なんだよ! 同じ『自分』をからかって面白い?」
「わりぃわりぃ、そう拗ねるなって! でも、いくらか“怖い”のが薄らいだろ?」
巴の云う通りだった。
目の前に巴がいる事。そして『盗賊』がいなくなって桜花は少し楽になっていた。
「うん、巴のお陰で少し救われた……ありがと」
「気にすんなって」
巴は更に陽気に笑った。
「それに何も俺だけの力じゃないぜ? 気が付かないか? 体が温かいだろう?」
云われてみて、確かに桜花は何か温かいものに包まれているような安心感を覚えた。
「ははは、起きてみろよ?今、お前は間違いなく“幸せ”の絶頂にいるはずだぜ?」
巴は片目を瞑る……確かウインクってのをして笑った。
すると急激に周りが明るくなって、まるで引っ張られるように桜花の体が上に持ち上げられた。
「そら! お目覚めの時間だ!」
「と、巴?!」
「じゃぁな! 俺はいつでもお前そばにいる。危機に陥ったらいつでも助けてやるから頑張れよ!」
遙か下で巴が手を振っている。
「うん! でも、巴も桜花の事を気にしないで、いつでも『表』に出ておいでね!」
光に包まれながら桜花も負けじと巴に手を振り返した。
目を開けると優しい笑顔の雪子姉様と目が合った。
「目が覚めたようね? 魘されてたから心配してたのよ? もっとも昼間にあんな事を経験しては仕方ないとは思うけどね」
「ほえ? はえ?」
桜花の頭を優しく撫でる雪子姉様にちょっと混乱してしまった。
「ゆ、雪子姉様……添い寝をしてくれてたの?」
桜花の頬が急に熱くなった。
巴の云ってた“幸せ”ってこの事だったんだ。
「私も初めて据え物斬りをした時や初めて凶賊退治をした時も、こうやって兄様が震える私を抱きしめてくれたものよ」
雪子姉様は昔を思い出すような幸せそうな、それでいて辛そうな微笑みをして桜花を抱き寄せた。
その時、桜花の胸に柔らかいものが押しつけられたのを感じた。
「ほえ?」
視線を胸元に持って行くと、名前の通り雪のように白い雪子姉様の胸と桜花の胸が押し合いへし合いしていた。
その事実を理解するのに、桜花は物凄い時間を費やした。
「わわ?! な、何で桜花達、裸なの?!」
「何でって貴女に温もりを与えるためよ? 恐怖に打ち勝つには近しい人の温もりが一番って兄様が教えて下さったから」
ゆ、雪彦兄様……
「だ、だからって裸になったら寒いと思うんだけど……」
「あら? 貴女は寒かった?」
「そ、そんな事ないよ! 凄くあったかくて嬉しかった!」
桜花の言葉に雪子姉様はニッコリと笑った。
「でしょう? 兄様も肌と肌の触れ合いこそが相手に温もりを伝える最良の方法だって仰ってたもの」
「ま、まさか……雪彦兄様も雪子姉様に……?」
「ええ、兄様はご自分の胸に私の胸を当てられて、「よくお聞き? 拙者の心音とお雪の心音が一つになった時、恐怖は消えるでござるよ」とそれは優しく抱きしめてくださって……」
幸せそうに雪彦兄様との想い出を話す雪子姉様はとどまる事を知らなかった。
桜花は月夜姉様が朝食の時間を告げに来るまで雪子姉様の昔語りに付き合わされる事になったんだ……
もしかして雪子姉様から色恋の噂をまったく聞かないのも、雪彦兄様に懸想してたから?
そして雪彦兄様を想うあまり他の男の人に恋をする事が無かったから、手に口づけされたくらいで気を失うほど免疫が無い人になったの?
雪子姉様の最大の不幸は近くに雪彦兄様がいた事なんだね……
だって、雪彦兄様と比べたら大抵の男の人はみんな南瓜に思えちゃうんだから……
「嗚呼、雪彦兄様……「お雪、お雪」と私の頭を撫でてくださった甘美な想い出を胸にお雪は今日も強く生きています!」
誰か助けて……こんな雪子姉様、見たくなかったよぅ……
朝食後、フェイナンさんは従業員達に激励の言葉を受けながら決闘に向けて精神を集中させていた。
この場に雪子姉様と月夜姉様の姿は無かった。
何故なら二人はもう決闘の場へと向かっていたからなんだ。
理由は決闘場に罠が仕掛けられたり伏兵がいないかを調べるためだよ。
もし、それらしい人を見つけたら二人は遅疑なく殺すと云っていた。
生きるか死ぬかの戦いなら伏兵なんて卑怯でもなんでもないけど、こと決闘では許される事じゃない。
だから罠があれば二人は一切容赦をしないだろうね。
「そろそろ出発の時間だ」
決闘の時間と馬車の速度を計算してアランドラ様がフェイナンさんを促した。
「はい……しかし不思議です」
「何がだい?」
フェイナンさんの顔には全く迷いが見えなかった。
昨日、桜花は完全に動揺して無様な戦いをしたのに……
「私と相手の力の差は歴然……なのに恐怖が無いのです。むしろ清々しい気持ちなのです」
「ふむ、昨日の据え物斬りの修行のお陰かな?」
「かも知れません。たとえ今日の決闘がどのような結果になろうとも、私はユキコ様に感謝の気持ちを持って死んでゆけるでしょう」
そう云って笑うフェイナンさんの顔は美しかった。
ううん、元々顔の造作は綺麗だったけど、それとは別の美しさだった。
そう云えば死んだ父様が云ってたっけ、老若男女を問わず決死の覚悟をした者の顔は美しくなるって。
「行きましょう!」
フェイナンさんは剣を携えて宿の外に出る。
「兄さん」
馬車の前で金色の髪を首の後ろで簡単に結わいた女の子が待っていた。
フェイナンさんの妹で、今回の事件の渦中にいるフィーネさんだった。
「フィーネ……行ってくる。今後は父さんの云う事をよく聞いて、皆とアンカー亭を盛り立てていってくれ」
「そんな! そんな遺言みたいな事を云わないで!! あたしの事は良いから決闘なんてやめて!!」
フィーネさんは泣きながらフェイナンさんに縋り付くけど、やんわりと引き離された。
「そうはいかない……確かに私は弱いさ、宿の経営にかまけてろくに鍛錬をした事がない。でも、私も漢なんだよ。逃げるわけにはいかない」
「兄さん……」
「大丈夫! 私はこの世界ではユキコ様の一番弟子! 決して無様な戦い方をしてアンカー亭の名を汚す真似はしないさ」
フェイナンさんはウインクをして気持ちの良い笑顔を見せた。
「行ってくる! アランドラ様、勇者様、行きましょう!」
フェイナンさんは真っ先に馬車に乗り込んだ。
『ボクも行くよ。フェイナン君がどう思っているかは解らないけど、ボクは君の事を友達だと思っている。だからこの決闘を見届けたい』
次に乗り込んだのはネムスさんだった。
この人、時々雪子姉様の事を探るように見てたから油断できないと思ってたけど、今の彼は真摯な顔をしていた。
今、ネムスさんは打算なんて全くなくフェイナンさんの事を応援しているのが判る。
だから桜花も今だけは彼を信じる事にした。
「ネムス様……嬉しいお言葉、感謝の言葉もありません。失礼ながら、私もずっと貴方の事を友のように思っていました」
フェイナンさんとネムスさんは固く握手を交わしていた。
なんか良いなぁ……こういう時、男の人が羨ましく思う。
「では、行こうか」
二人を優しげな目でしばらく見ていたアランドラ様の言葉を合図に馬車が動き出した。
「兄さん! ご武運を!」
徐々に遠ざかっていき、フィーネさんの輪郭がぼやけてきた時、彼女から応援の言葉が聞こえてきた。
「フィーネ! 達者で暮らせ!」
フェイナンさんは拳を握りしめて呟くように云った。
予定より半刻早く決闘場に着いた桜花達は累々と横たわる斬殺死体や黒コゲの死体を呆然と見つめた。
そのそばで雪子姉様と月夜姉様が憤懣やるかたないといった表情で立っていて、それをオーナーさんが宥めている。
その周りを困惑げに牧人達が囲んで、ざわざわと私語が飛び交っていた。
「スエズンはアンカー亭のフェイナン殿とは貴殿か?」
声の方を見ると長身で緑色の髪をした精悍な青年が歩いてきた。
この人が例の貴族なんだろうか?
「は、はい……あの貴方様は?」
フェイナンさんが戸惑い気味に訊ねると、緑色の髪の人は跪いて頭を下げた。
「この度は愚弟が貴殿の妹御に大変な無礼を働き、お詫びのしようもない! まずはあの馬鹿者の前に私が詫びよう! 申し遅れたが、私は聖帝陛下よりこの地のを預かるブレイズフォード家の嫡男、ベルーサ=ハル=ブレイズフォードと云う」
ベルーサ様は数日前まで次期領主としての勉強の為に世界各国を渡り歩いて様々な政略を学び、己の剣技を磨き続けてきたと云う。
ところが屋敷に戻って今回の事件を知って弟の愚行に驚き、更に理不尽な振る舞いをした弟を庇う両親を見て流石に呆れ果てたと云っていた。
その証拠に彼の凛々しい顔に僅かながら羞恥の赤が見え隠れしている。
「ほう、貴殿がブレイズフォード家、期待の星と謳われるベルーサ殿か。私はアランドラ、貴殿の噂はよく耳にしている」
「な、なんと?! 真にアランドラ皇子ではありませぬか! この件に関わりありと聞き及んでおりましたが……いやはや面目も御座いませぬ」
「いや、今は帝位継承権を捨てた只の男。貴殿が礼を尽くすには及びません」
なんと云うか、アランドラ様もベルーサ様も威風堂々としていて、今更ながら桜花とは違う世界の人達だと思い知らされた。
「さて、此度の元凶を引き出す前に、更に詫びねばならぬ事態が出来した……もう察していると思うが、そこな数体の亡骸は愚弟が用意した伏兵だ。あちらに控えしユキコ殿とツキヨ殿が機転を利かさなければ、当家は恥の上塗りをするところであった。お二人にはいくら感謝してもしきれぬ」
ベルーサ様の顔に憤怒の色が浮かんだけど、それは一瞬の事ですぐに元の凛々しい顔に戻った。
「それから、私からアンカー亭に申したい事があるのだが、宜しいか?」
「はい……承ります」
神妙な顔のベルーサ様にフェイナンさんも表情を引き締めて答える。
「まず件のフィーネ殿の事だが、今日の決闘の結果如何を問わず当家に嫁入りさせる事が決定した。いや、私がそうさせた」
ベルーサ様の言葉に周りからどよめきが起こった。
「ただし、決闘だけは予定通り行ってもらう必要がある。貴族から決闘を申し込んでおきながら撤回しては沽券に関わるからだ。勝手な云い分だが宜しいな?」
ベルーサ様が念を押すとフェイナンさんは無言で頷いた。
「では、早速だが決闘を始める。ベルム、出よ!」
ベルーサ様の声に一人の青年がのろのろと前に進み出た。
ベルーサ様と同じ緑の髪を持っているから兄弟なんだろう。
つまり、彼が実の兄から愚弟と呼ばれ、フィーネさんを辱めた張本人!
少し小太り……ううん、相当な肥満体で脂のせいか顔がテカテカと光っている。
そのソバカスとニキビだらけの顔は不貞腐れていた。
「こやつこそ当家の恥晒しにして、貴殿の妹御を辱めた男だ。名をベルムと云う」
ベルーサ様の紹介にフェイナンさんは一瞬、怒りに双眸が燃えたけど、すぐに落ち着きを取り戻した。
「一度ならず誅する事も考えたが、今日の決闘に勝つ事ができたならば勘当だけで済ますと申してある」
「か、勘当?!」
驚きの言葉を発したのはフェイナンさんだった。
それもそのはず、フィーネさんが嫁入りする相手が勘当されては、彼女はいったいはどうすれば良いのだろう?
「ああ、その心配には及ばない。フィーネ殿を娶るのはそこの下衆ではない。フィーネ殿は私の妻とする」
これにはフェイナンさんもアランドラ様も驚いた。
雪子姉様までも感嘆の表情を浮かべている。
「勝たれよ、フェイナン殿。私は妹御の為に命を賭けんとするそなたと義兄弟の契りを交わしたい」
「身に余るお言葉、かたじけなく思います」
まるで古くから見知っているかのように、穏やかに微笑み合うベルーサ様とフェンナンさんをベルムは忌々しげに睨みながら唾を地面に吐き捨てた。
「審判は第三者たる私が務めまする! 双方、異存はござるまいな?」
雪子姉様の凜とした声にベルム以外の全員が頷いた。
確かに雪子姉様は盲目だけど、それでも並の人間よりも遙かに信頼できる審判である事は桜花が一番よく知っている。
「では、双方とも出ませい!!」
雪子姉様の静かだけどよく通る声にフェイナンさんがまず前に進み出た。
「霞流……フェイナン!」
フェイナンさんが霞流を名乗るのは一昨日、半端にかじってた牙狼月光剣を捨てて霞流に入門したからなんだ。
続いて酷薄そうな細い眼を憤怒で吊り上げながら、のそりのそりとベルムが進み出た。
「ヘン! 平民の分際でボクに楯突きやがって! お陰でこんな目に遭ったんだ……手足を斬り落とすだけじゃ許さないならな!」
「ベルム!! 最低限の礼儀ぞ! 貴様も名乗らぬか!!」
ベルーサ様の叱責にベルムは一瞬、首を竦めたけど、すぐに不貞腐れた顔で小さく名乗りを上げた。
フィーネさんだけでなく、今まで少なくない数の女性を手籠めにしておきながら自分が悪いと思ってないのは桜花でもすぐに判った。
ベルムの態度は不当に罰を受けているという気配がありありと見えた。
それが貴族として生まれたせいなのか、単に過保護に育てられたせいなのかは分からない。
「両者、構えられよ」
右手を天へかざしながら発せられた雪子姉様の声にフェイナンさんは大上段に構えて目を瞑り、対してベルムはサーベルの先端を突き出して半身に構えた。
こうして構えを見ると、ベルムが只のスケベデブでない事が判る。
サーベルを盾にするような構えは如何なる斬撃にも素早く対応できるに違いない。
相手の一撃を払いつつ、間髪入れずに一歩踏み込んで突きへと移行するための構えと見た。
しかも、ベルムの巨体は構えと併せてまるで厳に見える。
恐らく幼い頃から血反吐を吐くほどの稽古を続けてきたように察せられる。紛う事なき強敵だ。
ただ、これ程の修練を積んだ人が何故、鬼畜の所業を重ねたのか……
「残念だよ……」
桜花は流派は違えど同じ剣の道を歩んだ者として、それだけが哀しかった。
「いざ! 始めぃ!!」
雪子姉様の合図が春の青空に轟いたけど、両者はまったく動かなかった。
フェイナンさんは大上段に構えたまま必殺の気勢を見せずに動かず、ベルムも後の先を取る構えの為か自分から動こうとはしない。
「持久戦になりますな」
アランドラ様の言葉に桜花は頷いた。
「でも不思議……いくら雪子姉様にシゴかれたからと云っても、一朝一夕であんな構えができるようになるのかな?」
「確かにフェイナンからは一分の隙も見出せませぬな。あの構えの前では私とて攻撃を躊躇います」
フェイナンさんはただ剣を振り上げているだけなのに、ベルムは攻めあぐねている。
闘志も殺気もまるで感じられない。それが却って不気味で……
ううん、違うね。とても厳かで清浄な気配は一流の剣客と対峙しているようだった。
「ぐ……」
ベルムが呻き声を上げて、額から脂汗を滴らせている。
フェイナンさんの透明な気配にどう斬り込んだら良いのか判らないんだ。
やがて太陽は西に傾き始め、徐々に赤みを差していった。
「もう半刻も動いてないよ・・・・みんな、そろそろ限界みたい」
そろそろどころか、極限まで張り詰めた緊張感に牧人達の中には気絶しているのもいた。
ベルムは益々脂汗をかいて表情を歪めている。
対して、フェイナンさんは涼しげな気配のままピクリとも動いていない。
「はわああああぁぁぁぁぁぁ……」
ブレイズフォード家の侍女らしい人がヘナヘナと腰砕けに気を失ったのを合図にベルムが動いた。
「ま、参った! 恐れ入った!!」
「それまで!! 勝者、フェイナン殿!!」
「はへ?」
ベルムが降参して雪子姉様がフェイナンさんの勝利を宣言すると、当のフェイナンさんはただ気の抜けた声を出しただけだった。
「わ、私の勝ち? 私が勝ったのですか?」
「その通り、文句なしに貴方の勝利です。ベルム殿はこの通り、負けを認めたのですからね」
ベルムは地面に座り込んで汗だくになりながら荒い呼吸を繰り返している。
フェイナンさんは未だに信じられない様子で雪子姉様とベルムを何度も交互に見ている。
「あ、あの……誠に云いにくい事なのですが……」
「自分があやふたになんてならなかった……『風』は感じるままだし、『闇』が無くなるわけがない……そうですね?」
雪子姉様の言葉にフェイナンさんは勿論、桜花もアランドラ様もネムスさんまでも呆気に取られた。
「当然ですわ。目を瞑っただけでそのような境地に至れるのなら、私なんぞとっくに仙人になってますよ」
「ゆ、雪子姉様? どういう事?」
桜花の問いかけに雪子姉様は悪戯が成功した子供のような笑顔で答えた。
「知れた事。フェイナン殿は死の覚悟ができていた。つまりは心の持ちようが『自然』に最も近い状態だった」
「はあ、どちらかと云うと“どうにでもなれ”の精神でしたが……」
フェイナンさんは複雑そうな顔でそう云った。
「そして大上段の構え……こんな構えで後の先を取ろうなんて流派はまず無いでしょう? だから、なまじ剣をかじっている者には隙が無いように錯覚する」
桜花は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
お、桜花も隙が無い構えだと思ってたし……
桜花の心が乱れている事に気付いているのかいないのか、雪子姉様の説明は続いた。
「いつぞやの続きです。『中の位はいまだ用には立たざれども、我が不足目にかかり、人の不足も見ゆるものなり』……中の位というのは、自分の足りない点に気付き、人の足りない点も気付く者のことを云う……徐々に剣術が面白くなってくる時期です」
「私も覚えがありますね」
「私もです」
雪子姉様の言葉にアランドラ様とベルーサ様が応えた。
「更に『上の位は我が物に仕なして自慢出来、人の褒むるを悦び、人の不足をなげくなり。これは用に立つなり』……上の位とはすべてを自分のものとし自慢し、人にも褒められる者のことを云います。自分の腕に自信を持ち始める時期です」
雪子姉様は神妙な面持ちで続ける。
「実はこの時期が一番怖い……己の剣に慢心し、驕り、下位、中位の者を貶す。まさしくベルム殿の剣がこれに当て嵌まりまする」
これにはベルムもカッと目を見開いて雪子姉様を睨んだけど、暖簾に腕押しだった。
「ベルム殿は自分の技量に満足し、その力を持って傍若無人に振る舞った……この界隈では恐らく無敵でしょう。並の剣士では歯が立たない事はすぐに判りました」
雪子姉様がベルムへ顔を向けると、彼は気まずそうに顔を逸らした。
「三日前、ベルム殿の事を聞くに及んで私はそこともが上の位に位置する剣士と推測致しました。確かに素人を達人に勝たせる事は至難の業です。私でも不可能です」
フェイナンさんは何とも云えない表情を浮かべている。
「ですが、遣い手が増長慢ならばいくらでも策の立てようがあります。上には上がいる事を知らぬ井の中の蛙には未知なる技を見せるのが一番ですからね」
雪子姉様はオーナーさんが差し出した水を一口含んで続けた。
「ベルム殿、貴方は死を覚悟した者が心静かに見せた構えに戸惑った事でしょう。ましてや実戦ではあまり遣われない大上段の構えに攻めあぐねたはず……加えて、貴方の必殺剣『飛龍の爪』は相手の斬撃を払ってすぐさま喉笛を抉る『待ち』の剣法、ただ構えて心穏やかにしていただけのフェイナン殿の前ではまったくの無意味」
「ぼ、ボクの必殺技まで知ってたのか?」
ベルムはガクリと項垂れた。
「知っているも何も、『飛龍の爪』の悪名はスエズンに轟いておりますぞ。本来、自分の得意技は隠しておくもの、アチコチで自慢して回っては攻略法を編み出せと云うも同義! 『上々の位は知らぬふりして居るなり。人も上手と見るなり』と云う言葉があり申す! 上の上の位という者は自分の強さを表に出さずとも、人は強いと思うものです。そこもとは高貴な家柄に生まれながら、その性根の卑しさ故に婦女を拐かして犯し、乱暴狼藉を働く! 悪事、千里を走ると云いまする。今日の敗北は天命と知りなされぃ!!」
「ユキコ殿……もしやフェイナンの件で相談を持ちかけた時には?」
アランドラ様の問いに雪子姉様は頷く。
「左様、道中、馬車の御者より聞いて存じておりました。ただ相談を持ちかけられた時、悪名高いベルム殿とアンカー亭を襲った不幸の元凶が同一と知って、流石に驚きましたけどね。後は素人でも『飛龍の爪』を破る策を編み出すだけ……もっとも此度の策はフェイナン殿のお覚悟とベルム殿の性格があってこそ……何はともあれ、お見事でしたぞ、フェイナン殿」
雪子姉様は扇子を開いてフェイナンさんを褒め称えた。
「ありがとうございます! 初めは複雑な思いでしたが、師匠のお言葉を聞くにつけ、剣術の奥深さの片鱗を垣間見る事ができた気がします!」
「うむ。では、今日のご褒美に残る言葉も伝授しましょう。『この上に、一段立ち超え、道の絶えたる位あるなり』ですよ。『その道に深く入れば終に果もなき事を見つくる故、これまでと思ふ事ならず。我に不足ある事を実に知りて一生成就の念これなく自慢の念もなく卑下の心もこれなくして果たすなり』……上の上の位の上に極位の境地というものがあります。まだまだ道は深く終わりのないものと悟り、満足せず日々修行と思い、心静かに生涯励むと云うものです。剣に限らず、全ての道に通ずる言葉と云えるでしょう。私なぞこの境地に至るまで、後どれだけ年月が必要になることやら……真、道を究めると云う事は難しいものですわね」
そう云って雪子姉様は静かに微笑んだ。
「ふ、ふざけるな!! イカサマだ! インチキだ! あんな卑怯な策を使われて負けを認められるか!!」
突然、ベルムがサーベルを振り回して叫んだ。
「見苦しいぞ、ベルム!! まだ判らぬのか? 貴様はフェイナン殿に負ける以前に己の慢心に負けていたのだ!!」
ベルーサ様が叱責したけど、完全に頭に血が上っているのか余計に喚き散らす始末だった。
「うるせぇ!! いつもいつも兄貴風吹かして聞いた口を利きやがって!! テメェのせいで俺がどんな思いをして生きてきたのか解らねーだろ!!」
「なっ?! 血迷ったか! それが貴族の口にする言葉か?!」
ベルムの眼に段々と狂気が宿っていくのが解る。
怒りと憎しみを籠めてベルムはベルーサ様を睨み付ける。
「うるせぇってんだよォ!! 俺が貴族? ハン! そりゃ家は貴族かも知れねーが、俺は違う! 俺は親父が気紛れに買った娼婦の腹から生まれたのよ!」
「な、なんだと……そんな訳が「あるんだよ!!」」
動揺するベルーサ様をベルムの蛮声が遮った。
「俺は餓鬼の頃からずっと不思議に思ってた……お袋が、いや、アンタの母親が俺を見る時に見せるあの害虫を見るような目……初めは嫡男ではないからだと思ってたが違ってた!! 五年前、俺は親父に呼ばれて親父の書斎に行った。だが親父はいなかった。そして見つけたんだ、親父の日記を……これ見よがしにわざわざ鍵まで外して机の上に無造作にな!! 好奇心に負けた俺は親父の日記を読んだ……いや、あれは日記なんかじゃねぇ、俺の行動を克明に記録した『観察日誌』だったんだよ!! 俺は親父の実験動物だった!!」
「ベルム殿、そなたのお父上は何の為にそなたを?」
アランドラ様の問いにベルムは背筋の凍り付くような無表情を見せた。
「さっきも云ったが俺のお袋は娼婦よ。それも二目と見れねぇ、ぶ厚い化粧をした五十も過ぎた因業婆ァよ! 盗む、騙すは当たり前、男がなければ一晩持たず泣き叫ぶ醜い鬼婆よ!! 親父はな……人の貴賤が『血筋』で決まるのか、『育ち』で決まるのか、それを知りたかったのよ! だから『女』として『人』として最低最悪な婆ァを下男に抱かせて俺を生ませたのさ!」
ベルムの告白にベルーサ様は顔を青ざめさせ、桜花達も絶句させられた。
雪子姉様は……月夜姉様と何か囁き合っていた。
「そして俺はブレイズフォード家の次男として育てられた。昔は良かったよなぁ? アンタとは仲が良かったし、そこの審判さんの云うように剣の修行は厳しかったが楽しくもあった……」
ベルムは一瞬だけ優しげな昔を懐かしむ顔になった。
「だが、あの五年前……アンタが親父に命じられて世界を学ぶ為、放浪の旅に出た直後よ。あの『観察日誌』を読まされた……解るか? そン時の俺の怒りが! 絶望が!!」
しかし、次の瞬間には夜叉のような形相になっていた。
「五年前……云われてみれば貴方の悪い噂が立ち始めたのはその頃からだった」
フェイナンさんは呟くように云った。
「そうよ! 俺は胸を、いや、全身を駆け巡る怒りをどこかにぶつけたかった!! だから俺は心が命じるまま食い、飲み、奪い、人を殺し、手当たり次第女を犯した!! 貴族のお坊ちゃまとしてお上品に育てられた俺だったがよ……結局、下賤の子は下賤、心から欲しいのは旨い物と女! 心が望むのは暴力と破壊! それが俺様よ!!」
「父上はなんと恐ろしい事を……人の在り方をそのような方法で試すとは!!」
ベルーサ様もまたベルム同様、絶望を味わわされている。
これが人のする事なの? 星神教の神様はこんな『宿命』をベルムに与えたっていうの?
「今まで好き勝手やってきた俺だったけどよ……勘当されるんじゃァ、ここまでだよな?」
ベルムはサーベルの先端をベルーサ様に向けた。
「聞いての通りだ……俺は下賤、親父の望んだ通りに堕ちるだけ堕ちた……俺は貴族なんかにゃなれなかったのさ……後は俺の望みを叶えるだけ」
ベルムの顔はまるで氷のように表情が消えていた。
「俺は親父の望むように踊った。今度は俺の番だ……俺の人生を玩具にしてくれた礼は……親父の最も大切なものを壊す事で返すぜ」
ベルムは殺気も殺意も見せずに、無拍子に疾風のような突きをベルーサ様へと繰り出した。
サーベルの先端はベルーサ様の左肩を貫いた。
フェイナンさんとベルムの決闘はフェイナンさんの勝利で幕を閉じたはずだった。
けど幕は閉じていなかった。ううん、今こそ幕が上がったんだ。
人を人と思わない実験の復讐に走るベルムの怒りはどんどん加速していく。
深手を負ってしまったベルーサ様の運命は?
この兄弟の悲劇はどのような終末を迎えるのか?
それはまた次回の講釈にて。
まず初めて人を殺めた桜花の救済は、双子の片割れにして同一存在である巴によってもたらされました。
もっとも、それは桜花の負担を半分持ってあげているだけの話でして、本当の意味で立ち直るには桜花自身の力以外にありません。
次にフェイナンの決闘は、雪子の策が決まって彼の勝利で終わりました。
しかし、悲劇はまだ終わっていません。
本性を露わにしたベルムがベルーサに襲い掛かります。
果たして彼らの未来はどうなるのか、次回をご期待ください。