第壱拾弍章 異世界での一番弟子
異世界の住人の視点となります。
いやぁ、色々とあったけどようやくスエズンに着くことができたよ。
あのガルスデント最強部隊の襲撃から生き残れたのが未だに信じられない。
おまけにアポリュオン大元帥まで出てきたときはヒヤリとしたものさ。
多分、アポリュオンはボクに気づいていながら、あえて見逃してくれたんだろうなぁ。
大体さ、二十年や三十年そこら家を出ただけで、何で裏切り者扱いされるんだよ。
そりゃ確かに黙って飛び出したのは悪かったけど、父上にだけは連絡してたんだけどなぁ……
あ、ボク? ボクはしがない吟遊詩人、諸国を歩き回って面白い話を聞いては歌にしている風流人さ。
何てね! ウソウソ、本当は全然違うんだ。
ボクは実は王子様なんだ……って、その目は信じてないね?
でも、これだけは本当さ。ボクは魔王・エミルフォーンの二十番目の子なんだ。
それが何で吟遊詩人に身をやつしてるのかって?
だって、ボクには歌とギターしか取り柄がないもの。
剣もダメ、魔法もダメ、喧嘩なんて以ての外だよ。
そのせいでボクは兄弟達からよく苛められてたものさ。
うん、ボクは兄弟の中でも誰からも必要とされない『無能』の者。
家臣の中には面と向かって莫迦にする者もいるくらい『無能』で何の害もない落ち零れなんだよ。
ボクはあえてそう育てられたんだ。
魔王、つまり父上は剣も魔法も勉強さえも満足にできないボクを早々に見切りをつけて、一切の稽古、教養からボクを遠ざけた。
ボクは唯一の趣味であるギターと歌だけを許されて、あとは自堕落に『無能』になるように育てられた。
兄弟からの苛めがあることを差し引いても気楽な生活だったよ。
そう、兄弟達は事ある毎にボクを苛めた。日頃の厳しい訓練の鬱憤をいつもボクにぶつけていた。
父上も口では兄弟を咎めても特に対策はしてくれなかったさ。
でも、そんな父上もギターを掻き鳴らし歌を披露する時だけは褒めてくれた。
だからボクはそれが嬉しくて益々音楽にのめり込んで『無能』に磨きをかけていった。
ボクは自分の境遇をどう判断して良い物か解らなかった。
ただ解ったのは、誰もボクを警戒しないって事だった。みんな、ボクを見て笑ってるんだ。
兄弟も家臣も、下等な魔物までもボクを見て莫迦にしたように笑っている。
父上と仲の悪い魔界の貴族、将校までもボクには笑顔を見せるんだ。
父上は無駄を一切嫌う方なのに、存在自体が無駄の塊であるボクを容認していたのには実は意味があったんだ。
あー、やめよう! さっきから勇者がボクの顔を見つめている。怪しまれると厄介だしね。
「お客さん、何度も云ってるけど、こりゃ法外だ! 受け取れないよ!!」
スエズンに着いてから御者と勇者の姉君(確かユキコだったか?)がずっと云い争っているんだ。
理由は簡単。彼女らが御者に渡そうとしているお金が相場よりも相当多いらしい。
「だから、巻き込んでしまったお詫びも含んでいるって云ってるのよ」
「それは助けて貰ったから帳消しだってんだ! 馬車代と酒手(心付け)だけ受け取っとくよ」
「貴方は出した物を引っ込めろと云うの?」
全くもって付き合いきれない。要は二人とも人が良いんだね。
そう云えばボクにくれたお金も今までで一番多かった気がする。
「わかったよ。そこまで云われちゃ受け取らないわけにはいかないよ。けどな、いつもこんな事してたらあっという間に路銀が尽きちまうからな?」
根負けした御者はお金を受け取ることにしたようだね。
もっとも最初に出されたお金より大分引いた額(それでも多過ぎるくらい)になってたけど。
「ご忠告、肝に銘じておくわ。ありがとう、縁があったらまた頼むわね?」
「今度は魔物の襲撃のない楽しい旅だといいけどな」
御者は苦笑してそう答えると、馬の向きを変えて馬車を進めて去っていった。
「さて、無事にスエズンに着いたのはいいけれど……」
ユキコは困ったように頬をポリポリ掻いている。
「雪子姉様? スエズンに何があるの?」
「ええ、ちょっとアランドラ皇子に頼まれてこの街にあるアンカー亭って宿屋に泊まりたいのよ」
ユキコは勇者に星の形をした青い石を見せながら答えた。
それにしてもアランドラ皇子だって? 彼の名はボクにとって忘れられないものだった。
自分じゃよく判らないけど、ボクは女性と紹介されたら百人中百人が信じるくらい女っぽいらしい。
そのせいで三年前、一人旅をしていた時に山の中で好色な山賊に襲われかけた事があったんだ。
そこを颯爽と現われて助けてくれたのがアランドラ皇子だった。
いきなり現われた彼はボロボロの服を着ていて、髭が伸び放題だったから最初は山賊の仲間かと思ったものさ。
でも、彼はそんな風貌に似合わない豪奢な剣を手に山賊達を全員打ちのめしてしまった。
目にも止まらぬ速さってこういうのを云うんだろう。
「大丈夫かい? ちょっと山籠もりをしていてね、垢にまみれた手で申し訳ないけど掴まって」
穏やかなその声にボクは初めて自分が尻餅をついていることに気付いたんだ。
『ありがとうございます』
おずおずと彼の手に触れると、ぐいと引っ張られてボクは立ち上がった。
「女性がこんな夜に一人で山に入るなんて感心しないね。どうぞ襲ってくださいっと云っているようなものだよ」
そしてしばらく黙ったかと思えば、何度か視線を何度か上下させてからいきなり謝ってきた。
「す、すまない。綺麗な顔をしているから、つい女性と間違えてしまったんだ」
思いっきり頭を下げた彼にボクは呆気に取られていたけど、その様に誠実さが伝わってきて思わず吹き出していた。
『気にしないでください。この顔で兄弟に馬鹿にされて育ってきたので、もう慣れっこですから』
その後、彼は近くの川で体と服を洗い、髭を剃ってから根城にしている洞窟へとボクを案内してくれた。
「私はアランドラ、信じられないと思うけどこう見えても聖都スチューデリアの皇子なんだよ」
自己紹介をしてくれた彼の顔は精悍で高貴ささえ漂っていて、ボクは素直に信じる事にした。
第一、王族を詐称してもボクのような得体の知れない吟遊詩人が相手では意味がないように思えたって事もあった。
『ボク、いえ、私は……』
「そう畏まらなくても良いよ。ここには私と君しかいないからね」
そう云って笑う彼にボクは毒気が抜かれたような気持ちになったのは確かだった。
『では、改めて……ボクの名前はネムス。見ての通り、旅の吟遊詩人です』
ネムス、ボクはこの名前があまり好きじゃない。
要はネームレス(名無し)を詰めたのがこの名前だったから……
『しかし、何故皇子様ともあろうお方がこんな山奥に?』
「ああ、さっきも云ったけど目的は山籠もりでね。我が流派・牙狼月光剣の免許皆伝が間近って時に、私はどうも何かが足りないような気がしたんだ」
アランドラ皇子は自分の両手を見つめながら続ける。
「それは厳しさだと思うに至ったんだ。城の中じゃ誰も彼も私の世話を焼いてくれてね。自分の世話もできない甘ったれに剣術は究められないと悟って城を飛び出したってわけだよ」
彼はカラカラと笑ってさっきから鍋で煮ていた物を器に盛ってボクに差し出した。
それは様々な獣の肉を煮込んだ料理でなんとも云えない匂いを放っていた。
「ハハハハ、引いてるね? 確かに見てくれは悪いけど、れっきとした猟師料理だから味は保証するよ」
いつまでも口をつけないボクにアランドラ皇子は苦笑して先に食べ始めた。
「じゃあ、私が毒味しよう……うん、少々胡椒が利きすぎた感じがするけど美味しくできてる」
『申し訳ありません。見たこともない料理でしたので……頂きます』
ボクは意を決して何かの肉を口に入れると、何とも云えない芳醇な香りと少しきつ目の塩味が口の中に広がってなかなかの美味だった。
『お、美味しいです! こんなに美味しい料理は初めてです!!』
夢中で掻き込むボクをアランドラ皇子が穏やかな微笑みを浮かべて見ていたことを、その時は気付いていなかった。
「そう云ってもらえると作った甲斐があったよ。私も城の中じゃ毒味が済んだものばかりで温かい料理を食べた事がなかったから、初めてコレを食べたときは感動したものさ」
『そうですよね、ボクもこうして“外の世界”に出て温かいものがこんなに……』
そこまで云って自分の失言に気付いたボクは口を両手で覆って彼の動向を窺った。
しかし、そんなボクの様子にアランドラ皇子は柔らかく微笑んだままだった。
「さて、お腹もいっぱいになったし、後は寝るだけなんだが……もし良かったら君の歌を聴かせてもらえるかな? ここ半月、人と会ってなかったせいか人恋しくてね」
『ええ、喜んで!』
ボクはその時、何も訊かないでボクの歌に耳を傾けるアランドラ皇子の器量に感嘆と感謝の念を覚えながら、何曲か披露した。
酷寒の大陸でお城のように巨大な樹氷を見た感動を表わした歌や、戦争で夫を亡くした婦人に片思いをしてしまった時の事を歌にしたものなどを歌った。
特に兄弟の中で唯一ボクに優しくしてくれて、ボクの歌を認めてくれた妹の歌を披露したとき、アランドラ皇子は目尻に涙を溜めて絶賛してくれた。
「いい歌だったよ。歌詞にある『あの娘』に対する君の深い愛情を感じさせる……惜しむらくは歌い手の君の声に哀しみが込められていた事か」
ボクはその時、瞠目していた。アランドラ皇子にボクが妹に対して抱いている邪恋に気付かれたような気がして内心穏やかじゃなかった。
もっともその妹はすでに政略結婚でとある将校の息子に嫁いでいたんだけどね。
彼女は男の子を一人産んだけど、その後産後の肥立ちが悪くて儚くもこの世を去ってしまった。
「否、その哀しみを糧にしているから君の歌は素晴らしいのかな? 強いんだね、君は」
ボクはハッとアランドラ皇子を見た。
ボクのことを強いと云ってもらったのは生まれて初めてだった。
「ああ、すまない。ただ率直にそう思っただけなんだ。気を悪くしたのなら謝る」
『とんでもないです。その……逆です』
泣いている自分を見られたくなくてボクは後ろを向いた。
「そうか、それを聞いて安心したよ。じゃあ、もう遅いし寝ようか?」
背後でアランドラ皇子が火を弱める気配を見せた。
『はい、おやすみなさい。そして、ありがとうございます』
山賊から助けてもらった事。食事を与えてくれた事。
そして、ボクを強いと云ってくれた事を感謝して精一杯の“ありがとう”を伝えた。
「ありがとうは私の云う言葉だよ。それじゃ、おやすみ」
翌朝、ボク達は再会を約束して別れた。
それがボクとアランドラ皇子との出会いだった。
アランドラ皇子との想い出から我に返ったボクはあーだこーだと話をしている勇者達に声をかけた。
『あの、差し出がましい事を云うようだけど、ボクはそのアンカー亭って宿屋を知ってるんだ。もし良ければ案内するけど?』
「あら、それは渡りに船と云うものだわ。お願いしてもいいかしら?」
『喜んで』
ボクは一つ頷くと彼女達を街の西側へと案内する事にした。
ちなみにこのスエズンは三つのエリアに分かれている。
まず地元のニンゲンが生活を営む住居区がある東区。
運河を行き交う漁船、交易船を集める港があり、市が立ち、倉庫が並ぶ商業の場である中央区。
ついでに云えば様々な商業ギルドの支部もここにある。
そしてボク達が向かっているのが、観光客相手の宿や歓楽街があり、星神教の教会とスチューデリアから派遣された兵士達の詰め所のある西区なんだ。
住民の生活区と地方の人、所謂余所者が集まる地区を、中央区を挟んでわざわざ離して作られているのは無用なトラブルを回避する為なのは云うまでもないよね?
ボク達は人混みに辟易しながら中央区を抜けて西区に向かう。勇者とツキヨがボクから離れまいと必死についてくる様子が微笑ましかった。
しかし、ボクは後ろのユキコを見て思わず愕然としかけた。
彼女はまったく人を避けようとする様子もなく自分のペースで歩いている。
まるで周りのニンゲンの方がユキコを避けているかのように、彼女は人にぶつかる事なく盲目とは思えないしっかりとした足つきでボクの真後ろにいた。
「にぎやかな街ね。今度は観光で来てみたいものだわ」
活気溢れる中央区の人達の声に耳を傾けながらユキコは静かに微笑んでいた。
その微笑みは凄く透明で、さっきベルーゼフ達相手に鬼神のような戦いを見せていた人と同一人物とは思えなかった。
『も、もうすぐ中央区は終わるよ。西区はこことはまた違った賑やかさを持った地区なんだ』
ボクはユキコの微笑みに動揺しつつも中央区と西区の境にある門を潜った。
「門一つ隔てただけで大分雰囲気が変わるわね」
中央区も西区も喧騒に溢れているけど、その質の違いにユキコは感づいたようだった。
『まあね、中央区が商売で活気づいているのなら、ここ西区は遊びがメインだから雰囲気が違って感じるのも当然さ』
ボクは勇者が興味を示して指差す施設を一つ一つ説明しながら目的のアンカー亭に向かう。
アンカー亭はスエズンの中でも中堅どころで、この街が出来た当初から商売をしている。
特徴としては数ある宿屋の中でも魚料理が最も美味しくて料金が安いというところだけど、本当はもっと重大な秘密がある。
それは一部の常連しか知らないことなんだけど、ここの従業員は捨て子や戦災孤児がオーナーに拾われて働いているということなんだ。
つまりここを追い出されたら彼らには行くところがどこにもない。
嫌な云い方だけど、オーナーの意向はそのまま彼らの運命の分かれ道になる。
ここまで云えばどういう事か解るだろう?
従業員達は宿泊客が望めばいつでも娼婦、男娼に早変わりするって事なんだ。
いつだったか相手をしてもらった娘から寝物語に聞かされた話ではお客を取った場合はその料金の七割も自分の物にできるんだそうだ。
残りの三割はお客を取る部屋の維持費、雰囲気作りの為の香木やキャンドルなどの必要経費らしい。
オーナーが云うにはいつまでも多くの孤児を養う訳にはいかないので、さっさと資金を貯めて独立しろとの事だそうな。
最初は話を聞くにつけ悲惨な境遇だと思ったけど、元々星神教の連中は貞操観念が低い傾向にあるので肌を売るくらい何でもないんだろうね。
実際、それを元手に料理屋を開いて繁盛させてる者もいれば、深い仲になった客に嫁いでいった者もいる。
案外、悪くないシステムなのかもね。
『ここがアンカー亭だよ。そこそこ人気があるから泊まれるか判らないけどね』
ボクは背後を運河に面した煉瓦作りの宿屋の前に立って彼女らに紹介した。
軒先に下げられた錨のマークの看板が風に揺られてキイキイ音を立てている。
「これはネムス様、お久しゅうございます」
見れば恰幅が良く髪の生え際が頭頂付近まで後退している壮年の男が揉み手をしてボクに笑いかけている。アンカー亭のオーナーだ。
実はボクもアランドラ皇子の紹介でここの宿をたまにだけど利用させてもらっている口なんだ。
ボクはユキコが持っている物と同じ青い星形の石をオーナに見せながら勇者達を親指で指し示す。
『お久しぶり、オーナー。実は彼女らもあの御方と知己を得ているようなんだけど……』
オーナーはボクの肩越しに勇者達を見て破顔した。
「ええ、話は伺っております。いえ、むしろ好都合でございますよ」
オーナーは勇者達に近づくと恭しく一礼してから挨拶をする。
「勇者・オウカ様にユキコ様、そしてツキヨ様でございますね? 私はこの宿の愚主にございます」
「ええ、確かに私達の名です。でも、よく私達をご存知で」
「はい、それは話を伺っておりますので。早速お部屋にご案内しますと申し上げたいのですが……」
言葉を濁すオーナーにユキコ達の表情に不安が見えた。
「何か問題でも? お部屋が空いてないとか?」
「いいえ、そういう訳ではないのですが、旅でお疲れでしょうから先にお風呂に入れて差し上げるよう云い付かっておるのです」
「はぁ……それは有り難い事ですが、誰の云い付けでそのような?」
訝しむユキコにオーナーはやや焦りを見せた顔をしながらも彼女達を宿の中に押し込んでいく。
「それは後のお楽しみと云う事で、まずはごゆるりと旅の疲れを癒してくださいませ。お前達、勇者様達のお荷物をお部屋に運びなさい」
オーナーの指示で見目麗しい少年少女達が重たそうに荷物を運んでいった。
ボクが一連の動きに呆然としていると、オーナーが振り返ってニコリと微笑んだ。
「ネムス様もおいでになられるとは私も運が良い。荷物は私どもの方でいつものお部屋に運びます故、貴方様もどうぞ湯殿に」
オーナーのお世辞に反論する暇もなく、ボクは妙齢の美女二人と、新顔らしい少年に手を引っ張られて強引に湯殿へと連れ込まれてしまった。
お風呂から上がったボクは痛む腰を堪えながら騙し騙しギターの調律をしていた。
確かにお風呂では旅の疲れは取れたけど、別の事をさせられてボクは疲労困憊だった。
いや、確かに嫌いじゃないんだけど、いくらなんでも一度に三人は……
あー、何でもない、何でもない。聞き流してくれるとボカァ嬉しいなぁ。
その時、控えめなノックが聞こえてきた。
「突然、申し訳ありません。入室のご許可を頂けますか?」
『どうぞ』
「失礼します」
入ってきたのはオーナーの跡取り息子のフェイナン君だった。
君付けはしてるけど実年齢は三十歳らしい。
でも悪い云い方をすれば気味が悪いくらい整った顔は二十代前半の女性と云われても信じてしまうだろう。
え? 自分の事を棚に上げてる?
いや、でもこれはあくまで客観的にフェイナン君の容姿を評価しただけだから棚上げも何もないと思うんだけどね。
ちなみにボクがウェーブのかかった銀髪を腰まで伸ばしているのに対して、フェイナン君は頭をツルツルに剃り上げている。女性と間違われない為の苦肉の策なんだってさ。
『何か用? 晩御飯にはまだ時間があると思うけど?』
冗談混じりにそう云うとフェイナン君は真剣な表情で答えた。
「あの御方がお呼びです。勇者様も間もなくそちらに……」
『いるのかい?!』
ボクが目を丸くさせると、フェイナン君は抑揚のないと云うより緊張の面持ちで肯定の言葉を発した。
『わかった。すぐ行くよ』
困惑しつつ頭を掻きながら答えるとフェイナン君は音もなく去っていった。
ただ彼が妙に思い詰めていたような感じがして気になった。
「やあ、ユキコ殿、ツキヨ殿、オウカ殿、また会えましたね。そしてネムス、久しぶりだね」
ポカンと大口を開けていたのはボクだけじゃなかった。
勇者達も絶句して目の前の青年を見つめていた。
ただユキコだけが静かに微笑んでいた。
ちなみに彼女達はお揃いのシルクの半袖ワンピースを着ている。
「なるほど、私にこの宿に泊まるようご依頼されたのはやはりこの為でしたか」
「ハハハハ、流石はユキコ殿。感付かれていましたか」
「薄々とですけどね。やはり血は争えませんか、アランドラ皇子」
そう、僕達の目の前にいるのは、聖都スチューデリアの皇子、アランドラその人だった。
『な、何故、貴方がここに?』
ボクは驚きのあまりそう訊ねるのがやっとだった。
「ふむ、確かに皇子である私がここにいるのは非常にマズイだろうね。でも、私は先日帝位継承権の放棄を正式に発表したんだよ。だから今君達の前にいるのはただの男。牙狼月光剣・免許皆伝を許された一剣士に過ぎない。つまりはそういう事さ、勇者殿」
アランドラ皇子はウインクをして笑った。
「つまり私達の旅に加わると仰るのですね?」
「そうなりますね。嫌だと仰っても無駄ですよ? 私は私で勝手について行きますから」
ユキコは呆れたように溜息を吐くと、苦笑しながらアランドラ皇子に右手を差し出した。
「これから宜しくお願いします。アランドラ皇子……いえ、アランドラ殿とお呼びした方が宜しいですね?」
「ええ、その方が私も気楽で嬉しいですよ。こちらこそ宜しくお願いしますよ」
ユキコとアランドラ……君は微笑み合いながら握手を交わした。
それにしても、ポニーテールを解いてストレートにしたユキコもなかなか色っぽくて良い。
「それはそうと、星神教の守護騎士が一人付いていると聞いていたのですが、どちらに?」
「それが書き置きを残して行方知らずでして……どこで何をしているのやら」
ユキコの言葉にアランドラ君は一瞬呆けた顔をした後、困惑げに訊ねた。
「消えてしまったのですか? まさか守護騎士ともあろう者が逐電するとは……」
「事実ですわ。私どもとしては地図もあるし、人に訊ねる口と耳をを持ち合わせていますから何とかなるだろうと先へ進むことにしました」
「いやはや……同じ星神教徒としてお詫び申し上げます」
頭を下げるアランドラ君にユキコは近づいて、そっと彼の肩に手を置いて頭を上げさせる。
「頭をお上げ下さい。私どももほとんど実害は無かったのですから」
いやいや、その云い方だと、その逃げた守護騎士がいてもいなくても同じと云っているようなものだと思うんだけど?
「して、我々との合流にこの宿を利用された訳は? ただアランドラ殿の馴染みというだけが理由ではないのでしょう?」
居住まいを正したユキコにアランドラ君は力無く笑って顔をつるりと撫でる。
「いや、全く恐るべき御仁ですな。では、一つ相談に乗って頂きたい……入ってくれ」
アランドラ君の促す声にドアが静かに開いてフェイナン君が沈痛な面持ちで入ってきた。
「この宿の四代目オーナー、フェイナンと申します」
「実は彼にはちょっと辛い事情がありましてね……云いにくかったら私が説明するが?」
アランドラ君がフェイナン君にそう訊くと、彼は自分で説明しますと断りを入れてからユキコと向き合った。
「私には十五も離れた妹がおりまして……ネムス殿はご存知ですよね?」
『あ、ああ、確かフィーネちゃんだったね?』
いきなり話を振られて一瞬ドキリとしたけど何とか彼女の名前を思い出して答える事ができた。
ふぅむ、ボクに一旦声をかけてワンクッション置くって事は相当云いにくい話なんだろうなぁ。
「そうです。そのフィーネがこの街へお忍びで来られたさる貴族に……」
「なるほど……しかし、云いたくない事は無理に仰るべきではありません。問題はその貴族なのですね?」
「はい、私どもは再三再四責任を取って欲しいと、つまりはフィーネを嫁にと訴え続けてきたのです。初めは知らぬ存ぜぬを決め込んでいた彼らでしたが、ついに頭に血が上ったのか逆襲に……」
しばらくこの宿に来ない間にそんな事があったのか。
でも、確かに無垢な少女の純潔が散らされるのは酷い事だけど、今までの経営内容を顧みれば如何なものかとも思うけど。
「丁度、その時私がお忍びでスエズンに来ていたので、間に入って何とか流血沙汰を防ぐことができたのですが、根本的な解決にはなっていないのです」
アランドラ君も相当尽力したようだけど、双方ともに我が強い為に和解させるのは困難を極めたと云う。
「アンカー亭の望みはフィーネ殿をその貴族に嫁がせること。貴族側は、フェイナン、すまん……戯れに抱いただけの娘を嫁に迎えることができるか、と突っぱねている」
「話し合いもずっと平行線を辿っていたのですが、つい先日向こうからある申し出があったのです」
「ほう、向こうからですか?」
ユキコは何故か袖の中に手を隠していたんだけど、ぬっと懐から手を出してシャープな顎を撫でた。
「ええ、妹を手籠めにした当人と私とで剣の勝負をして、私が勝てば妹は晴れて貴族の嫁に、私が負ければ不問にした挙げ句、名誉を傷つけた詫びをしろと」
「ふむ、時にフェイナン殿は剣を?」
ユキコは顎を撫でながら小首を傾げて問う。
「私もアランドラ様と同じ牙狼月光剣を少々……本当に少々……」
「して、相手の貴族の腕は? 先方から決闘を申し込むということは遣うのでしょう?」
ユキコは小首を傾げたまま右目だけを開いてフェイナン君を見る。
実際は見えてはいないんだろうけど。
「相手は飛龍旋風剣という疾風の如きサーベルの遣い手。とてもフェイナンが勝てる相手ではないのです」
「それで私にどうせいと?」
ユキコは左目も開いて、じっとフェイナン君の答えを待つ。
「私を彼に勝たせて欲しいなんて無茶は云いません。私はフィーネの為に討たれる覚悟でその果たし合いに臨もうと思っています」
その言葉にアランドラ君に初めて動揺の表情が浮かんだ。
フェイナン君がそこまで思い詰めてるとは思ってなかったんだろう。
「ただ貴族に平民の意地を見せたいのです。私が負けてもその貴族の心に敗北感、いえ、自分が悪かったと思わせるような戦いをしたいのです。ユキコ様が剣術道場の師範であらせられる事はアランドラ様より聞かされていました。どうか私に恥のない、見苦しからぬ堂々とした死に方をご教授ください!」
ユキコは瞼を閉じるとしばらく思案げに頭を上下させてから口を開いた。
「私も剣の道を人に教える立場にある者ですが、如何にして死んだら良いかとは初めての事でして……さて?」
フェイナン君はユキコの言葉を聞き逃すまいと必死に耳を傾けている。
「さる剣士が老後に云った言葉ですが、『一生の間修行に次第があるなり』、つまり段階があると説かれています」
「段階ですか?」
アランドラ君も興味があるのか、静かに雪子の話を聞いている。
「はい、まず『下の位は修行すれども物にならず、我も下手と思ひ、人も下手と思ふなり』、初心者は修行しても上達せず、自分も他人も下手と思うものです」
「まさしく今の私ですね」
「左様、相手が名人上手ならば貴方が何年修行しても勝つことは難しいでしょう。しかしながら、恥じぬ果たし合いができるとすればです」
ユキコは閉じた目でフェイナン君を真っ直ぐに見据える。
「貴方が死ぬことを見つけていることにあります。武士道とは生と死のいずれを取らねばならぬ時、死ぬ方を選ぶ、つまり死を覚悟するのです」
ブシドウ? その言葉は、どこか騎士道の心得みたいな響きがあった。
「何も思案する事はないのです。余計な事を考えずに突き進めば良い。貴方は既に答えを見つけているのですよ。そうですね、あとは形です」
こ、これがユキコの物の考え方なのか?
なるほど、厳しい訓練をこなしてはいても、普段はお姫様の生活をしているベルーゼフが勝てないわけだよ。
「形ですか?」
「はい、形です。今からそれを伝授いたしましょう」
ユキコは杖を大きく振り上げて見せた。
「まず左足を踏み出して大上段に構えて目を閉じます。構えたが最後、どのような事があろうとも目を開けることは許しません。開ければ私が貴方を斬ります」
「しょ、承知しました」
フェイナン君は額に脂汗を浮かべて頷いた。
「宜しいか? その内に己の存在があやふやになっていくでしょう。『光』は無く、頬を撫でる『風』も感じず、『闇』さえも無くなります。その瞬間に剣を振り下ろしなさい」
振り上げていた腕を振り下ろす。
流石に剣術師範というだけあって、サマになっていた。
「さすれば無様な死に様を晒す事はありません。その貴族も勝負に勝って、心で負けを認めることでしょう。上手くいけば相討ちに持ち込める事もあり得ます」
ユキコはフェイナン君に向けて慈愛の微笑みを見せた。
「フェイナン殿のご武運を祈っていますわ」
「ユキコ様、ご教授ありがとうございます!!」
フェイナン君は感涙にむせびながら平伏したのだった。
「して、果たし合いはいつなのですか?」
「三日後です。スエズンから北へ半日歩いた場所に件の貴族が持つ牧場があって、そこで雌雄を決します」
「委細承知。乗りかかった船です。私もその勝負に立ち会いましょう」
ユキコがそう云うとフェイナン君が慌てたように首を振った。
「と、とんでもございません! 勇者様達には大事なお役目があるではありませんか! そのような気遣いは無用です」
「いえ、流石に事の顛末を見届けねば無責任極まると云うもの。それにこの子の勉強にもなりますしね」
ユキコは愛おしげに勇者の頭を撫でた。
「この子は実戦の経験が乏しい。今回の真剣勝負はこの子にとって糧となりましょう」
「私ごときの勝負が勇者様のお役に立ちますか?」
「この子次第です」
そう云ってユキコは微笑んだのだった。
それにしても、やっとスエズンに着いたというのにまたもトラブルに巻き込まれるなんてね。
けど、ボクもフェイナン君に素知らぬふりができるほど薄情じゃないつもりだし、付き合うしかないか。
それによってボクもまた深みに嵌っていくなんてこの時は想像すらしていなかった。
果たしてフェイナン君はどうなっていくのか?
ユキコの胸中にあるものは?
それはまた次回の講釈にて。
明記はしてませんが、異世界での弟子一号・フェイナンを得ました。
霞三姉妹はこのように剣術を通して人との付き合いを広げていきます。