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第玖章 恋慕地獄道・中編

 この日の道場は通いの門下生の姿は無く、四天王を含む内弟子衆の姿しかありませんでした。


「くっ……雪子師範、何があったと云うのだ! 霞流道場はこれからどうなると云うのだ!!」


 道場の床を何度も叩いて悔しそうにしているのは、我が霞流道場の四天王の一人、東雲(しののめ)持右衛門(じえもん)殿です。

 二十四歳の若者で身の丈六尺(約百八十センチメートル)と体格にも恵まれています。

 元々大身の旗本の跡取りでしたが、ご維新の煽りでお家が潰れ、今は遊郭の用心棒をしながら仕官の口を探しておられるとか。

 『待ち』の戦法を得意とする粘り強い剣技の持ち主で、どのような太刀筋も絡め取るように受け止めて鍔迫り合いになったが最後、相手は押す事も引く事もできなるなるそうです。

 押されれば引き、引かれれば押す。まるで磁石のように吸い付いて離れられなくなりどんな相手も最後には焦って隙を生じさせてしまう。そこを見逃さずに相手を打ち据えるのです。

 これには姉様ですら手の打ちようもないそうで、持右衛門殿と打ち合う際には鍔迫り合いだけは避けるように立ち回らざるを得ないとか。

 そんな剣法の使い手である持右衛門殿の性格も剣技に似て常に泰然とされているのですが、この日ばかりは怒りとも焦りとも判然としない感情を持て余しているようです。


『全て……私のせいです』


「月夜殿! まだ喉が治っていないのですぞ! 無理はなりませぬ!」


 持右衛門殿は私の喉に濡れた手拭いを押し当てて私を諫めてくれます。

 私は喉を冷やす濡れ手拭いの感触と持右衛門殿の優しさに甘えそうになるのを制して首を左右に振りました。


「いえ、私がしっかりしていればこんな事には……」


「どのような事情がおありか存じませぬが、持右衛門殿の云われる通り無理はいけませんよ。月夜お嬢様? まだ呼吸をするだけでも喉が痛いのでしょう?」


 私は瓜実顔の美女に肩を抱かれて白湯を飲まされました。

 彼女こそは霞流道場の四天王の(当時では)紅一点、雀蜂のお(こう)さんです。

 元々は幕府方の隠密という凄い経歴の持ち主でしたが、ご維新で後ろ盾の幕府が倒れ、新時代を生きるために抜け忍になった人でした。

 しかし忍びの掟と云うものは想像以上に厳しいものだったらしく、彼女を支配していた中忍に捕まり、陵辱を受けながら殺されるのを待つばかりだったと云います。

 そこをたまたま出くわした父様に救われ、私達雪月花の三姉妹の世話係として雇うという名目で彼女は保護されたのでした。

 初めは甲斐甲斐しく私達の世話をしていましたが、いつしか我が流派の剣に興味を持ち、見様見真似で一人稽古をしていたそうです。

 そこを父様に見咎められ、その技量に入門を許されてついには目録を得るに至った人材でした。

 余談ですが、霞流兵法・投毒術を修める際、私に忍び時代に培った毒物や薬草の知識を伝授してくださった師匠でもあります。


『いいえ、お紅さん。お願いですから私の恥を告白させて下さい』


 私は白湯のおかげで幾分楽になった喉を撫でながら、弥三郎様との恋の顛末を余すことなく告白したのでした。


「お嬢様……なんと不憫な」


 お紅さんは袖で目元を抑えながら私の話を最後まで聞いてくれました。

 そして気づけば、持右衛門殿を始めとする男衆がいつの間にか道場から姿を消していました。

 恐らく本音では男性に聞かれたくなかった私の心情を察して下さったのでしょう。


 

『お紅さん……姉様はどうなるのでしょう? 弥三郎様は助かるのでしょうか?』


 私は知らずにお紅さんの胸に縋り付いていました。

 嗚呼、なんと甘ったれた女よ、と誰かに罵られたような錯覚を覚えます。

 しかしお紅さんはそんな甘ったれた私を罵ることなく、力強く抱きしめてくれました。


『お紅さん……』


 お紅さんは何も云いません。

 云いませんでしたが、逆に黙って抱きしめてくれた事が嬉しかったのです。









 その夜、私は『夢』を見ました。

 私は何も無い。いえ、“闇”があるばかりの空間で一人立ち尽くしていました。


「ここは……いったい?」


 自ら毒を飲む前と変わらぬ自分の『声』にその時は何も疑問を持ちませんでした。

 不意に袖の中が温かくなり、柔らかな赤い光を放ち始めました。


「これは……弥三郎様の?」


 私の手にはあの夜、弥三郎様からプロポーズを受けたあの日に頂いた赤い玉がありました。


「……ど……」


「え?」


「……の……きよ……どの……」


 『声』は赤い玉、いえ、赤い光に照らし出された先から聞こえて来ました。


「月夜殿……月夜殿……」


「ああ……そんな……」


 目の前には一番聞きたくなかった『声』が、一番逢いたかった『人』がいました。


「弥三郎……様?」


 光が徐々に強くなり、やがて“闇”の中に弥三郎様の姿が現れました。


「月夜殿……嗚呼、月夜殿」


「弥三郎様ぁ……」


 私は堤防が決壊したかのように溢れる涙を止めることができません。


「月夜殿。こちらに……さあ、月夜殿」


「弥三郎様!!」


 私は弥三郎様の胸の中に今すぐにでも飛び込んでいきたい気持ちを無理矢理抑え込んで、後ろを向きました。


「月夜殿?」


「弥三郎様? 約束をお忘れになったのですか?」


 私ははしたなくも拗ねた『声』を出して弥三郎様を突き放します。


「あ……ごめん。そうだったね? 月夜、こっちにおいで」


「知りません!」


 私は振り返りたい自分を叱咤しながら握り拳を作ります。

 そうしないと甘えてしまいそうだったから。


「拗ねないで? 私はお前しかいないよ?」


 弥三郎様は私を後ろから抱きしめてしまいました。

 うう、不意打ちとは卑怯です。

 私は弥三郎様の腕を引き剥がすと振り返って拳を彼の胸に叩きつけます。


「嘘つき! 私しかいないなんて嘘! 貴方にはれっきとした許嫁がいらっしゃるではありませんか!!」


 私の感情は爆発して弥三郎様の胸を何度も打ち据えます。

 ええ、『夢』なんですから遠慮はいりません。


「嘘つき! 嘘つき嘘つき嘘つき!! どうせ嘘なら最後まで『夢』を見させて下さい!! 何故、簡単にバレる嘘を!!」


 私の拳はいつしか力を失い、最後はトンと軽く弥三郎様の胸に置いただけに終わりました。


「月夜、私には……オラァには許嫁なんでいね! おウメは確がに実在しでっけどオラァとアイツはそんなんでね!」


 弥三郎様は出会った頃の青森訛りでそう云って私を抱きしめて下さいました。


「嘘です!! では、何故弥三郎様はウメの、ウメさんの手紙を大切にしていたのですか?」


「おウメはオラァの妹だ! めんこいめんこい大事(でぇじ)な妹だ! でもな、口減らしに売られでいっだンだ!」


「え……?」


 弥三郎様の腕は更に力が込められました。


「妹を買っだなァ女衒(ぜげん)だ! 奴ァ、まんだ十にもなっでねぇアイツを犯しやがった! 散々嬲りモンにされで妹は壊れた! 女衒の奴ァ、いけしゃあしゃあと「こりゃ売りモンにならねぇから銭を返せ」と抜かしやがっだ! オラァ、その女衒をぶっ殺しちまっただ……」


 寂しげに笑う弥三郎様に私も彼の腰に手を回して抱きしめました。


「ああ、月夜に法螺吹いだと云えば、オラァが人殺しだっでの隠しでた事だな」


「いいえ、大切な妹さんをそのような目に遭わされて下を向いているよりは立派です!」


 私は何度も何度も首が千切れるほど横に振って弥三郎様を称えました。

 そこで、ふと疑問が胸に浮かんできました。


「では、何故妹さんは、ウメさんは貴方を許嫁と?」


 弥三郎様は今にも泣き出しそうな顔で私を見つめています。

 私はあえて先を促さず、彼の頭を胸に抱き寄せました。


「まずは泣きましょう? 弥三郎様、貴方の哀しみを受け止めさせて下さい」


 せめてもの罪滅ぼしに――私は心の中で付け加えました。


「ぐぅ……ぐふ……泣ぐのはなんねぇ! オラァは男だで、泣ぐわげには……」


「弥三郎様、せめて今くらい弱くなりましょう?」


 私は弥三郎様の頭を撫でながら、無意識のうちに昔母様が歌って下さった子守歌を歌っていました。


「ふぅ……ふぐぅ……そんなん卑怯だ! な、涙が止まんね!」


 弥三郎様は泣きました。

 形振り構わず、子供のように……洟まで垂らして……私はただただ愛しい気持ちを込めて弥三郎様を撫で続けました。

 しばらく大声を上げて泣いていた弥三郎様は不意に顔を上げられました。

 その顔は本当にすっきりとされていました。


「みっともねぇとこ見られじまっだな」


 照れ笑いをして頭をポリポリと掻く弥三郎様を可愛いと思う私は現金なのでしょうか?


「いいえ、可愛らしかったです」


 つい口元を押さえてクスクスと笑う私に、弥三郎様は顔を赤くしてそっぽを向かれてしまいました。


「あー、妹な? おウメの奴ァ……」


「はい」


 弥三郎様の真剣な表情に私も気持ちを引き締めます。


「壊れちまっだ妹ン世話ァすンなァ兄弟はみんな嫌がっだ。アイツの面倒見でたンはオラァとおっ母だげだった」


 私は目を瞑り、無言で先を促します。


「世話しでるうちにおウメの奴、オラァの女房にしてけれって云い出しでな……兄弟だがら無理だァ云えながった」


 ウメの心情を惟みて、何故か既視感を覚え、姉様の泣き笑いの表情が脳裏に浮かびました。


「オラァもはっぎり云やァ良がっだンだよなァ……問題を先送り先送りしでるうちに、どごで覚えだンだが、オラァの事、『いいなづけ』と呼ぶようになっだ」


 そう、それが弥三郎様の机の中にあった恋文の正体。

 必死に字を覚えた幼いウメが精一杯の愛情を込めた哀しい手紙。

 ちなみにウメが名乗った姓『たなか』というのは弥三郎様のお姉様が嫁いだ先の姓だという事でした。

 悪いのは全て私。勝手に机を覗いた私。早とちりした私。弥三郎様に手紙の事を訊かなかった私。

 そして、弥三郎様を信じる事ができなかった私。


「私……なんて事を……」


 私は膝から崩れ落ちて、手で顔を隠して泣く事しかできませんでした。

 私だけが不幸だと思っていたのです。私だけが何でこんな目に遭うのかと……

 でも違ったのです。

 本当に哀しかったのは弥三郎様。一番辛い思いをしたのはウメさん。

 そして私は大切な人を殺人者にしようとしている。

 貴方の哀しみを受け止めさせて下さい? せめてもの罪滅ぼし?

 嗚呼、なんて馬鹿で浅ましい『女』! 本当に恨まれるべきは私!!


「弥三郎様……私はまるで悪魔のようですね? いえ、いつの間にか醜い悪魔そのものになっていたのですね」


「月夜、そうやって自分を卑下する事は逃げると同義だよ?」


 ハッと顔を上げると弥三郎様は穏やかに微笑んでいました。


「大丈夫。君のお姉さんは私が必ず助けるよ」


「え? 助けるって、姉様は貴方の大切な右腕を斬り落とした人なのですよ?」


 そう云いながらも縋るように弥三郎様を見つめる自分を浅ましく思わずにはおれません。


「酷いなぁ。君と私はお互いに通じ合ってたと思っていたのに、判ってなかったんだね?」


 弥三郎様は苦笑しながら左手を見せると、いつの間にか鉛筆が握られいて“闇”の中に恐ろしい速さで私の似顔絵を描いてくださいました。


「私は元々左利きだったんだよ。母が厳しくてね、無理矢理右手で食事をしていたから癖にはなってたけどね」


 弥三郎様は悪戯っぽく片目を瞑りました。ウインクというその仕草は彼にとても似合っていました。

 ふと、遙か遠くで光が見えたような気がしました。


「ああ、どうやら朝が来たようだね。もっと君と話をしたかったけど、これでお別れだ」


「え……?」


 私は弥三郎様の仰る意味が解りませんでした。


「弥三郎様 お別れっていったい? 姉様を助けて下さるのでは?」


「うん、ごめんね? でも、月夜のお姉さんを助けると云う言葉に嘘はないよ。だけど……」


 弥三郎様は私に背を向けると“闇”の奥へとゆっくり歩き始めました。


「だけど……何ですか?!」


「君とはもう会えない……逢えないんだ……」


 弥三郎様は“闇”の中へ消えて行こうとしています。

 私は必死になって弥三郎様の背中を追いかけます。


「会えない? 逢えないとはどういう事です? 嫌です! 弥三郎様、もっと『声』を聞かせて下さい! もっと私に触れて下さい!!」


 私の『声』が届いていないかのように弥三郎様は歩みを止めようとはしてくれません。


「弥三郎様! 弥三郎様! 弥三郎様! 弥三郎様! 弥三郎様! 弥三郎様! 弥三郎様!!」


 漸く私の手が弥三郎様の肩に触れようとした瞬間、私は布団を跳ね飛ばして目を覚ましたのでした。


『待って……行かないでください。弥三郎様……』


 私の目尻から涙が零れ力無く呟いていると、慌ただしく家の中を駆ける音がして私の部屋の襖をお紅さんが開け放ちました。


「お嬢様、ご無礼を! ただ今、警察から連絡がありまして……」


「弥三郎様が亡くなられたのですね?」


 体を起こすことなくそう云うと、お紅さんは哀しそうに私を見つめてから、短く肯定の言葉を発しました。









 それからの私は忙しい毎日を送る事になりました。

 ます私は弥三郎様の下宿に向かい、彼のお師匠とお仲間のお弟子さん達にお詫びとお悔やみを述べに行きました。

 彼のお師匠の奥様は私の顔を見るなり大きな音を立てて頬を打ち据えました。

 しかし、どうした事か次の瞬間、彼女は私を抱きしめて泣いたのでした。


「しばらくだったね、ツキヨ。私も家内と同じで君を許せない。だが、私とて、我々とて木石じゃない。君の切ない女心を誰が責められようか」


 彼のお師匠、マリオ先生は奥様ごと私を抱きしめてくださいました。


「ヤサブローの遺言だよ。君と君のお姉さんを助ける策を遺して彼は死んだ。ヤサブローは最期まで君を想っていた。そんな彼の気持ちを無駄にはできない」


『弥三郎様……』


 涙腺が緩みかけた私の頬をマリオ先生は両手で挟んで意志の強い目を私に向けました。


「ヤサブローの遺志を全うするまで君は泣いてはいけない。いいかい? よく聞くんだよ?」


 マリオ先生の示した弥三郎様の策に私は全身を震わせずにはおれませんでした。

 彼の策とは、私の勘違いそのままでした。

 つまり故郷に許嫁がいたにも拘わらず弥三郎様が私を弄んだという汚名を彼に着せるというものです。

 そして、それを世間に公表した上で世論を喚起させて、姉様の減刑嘆願運動を起こそうというものでした。

 音頭を取るのは弥三郎様の師匠であるマリオ先生。彼が中心になれば知名度も手伝って多くの署名を集めることができるだろうとの事。

 巧くいけば無罪。たとえ官憲が石頭でも減刑まで持ち込めるだろうと云うのが彼らの狙いでした。


 結論から云えば、予想以上に署名が集まり、嘆願運動の規模も大きなものとなりました。

 何より驚いたのは青森から弥三郎様のお母様が上京されて、嘆願運動に参加してくださった事です。

 お母様は私に会うなり、「すまなんだ。すまなんだ」と涙を流して謝罪をされたのでした。


『何故、お母様が謝られるのです? 私は弥三郎様の仇の妹、しかも発端は私の勘違いなのですよ?』


「いんや、ウメの手紙が無がっだらこんな事にはならなんだべ。ウメに弥三郎へ手紙さ送れって勧めたンはこの婆じゃ! 儂こそ恨まれるべき元凶じゃよ」


 そして、哀しそうに私の喉を撫でられました。


「本当じゃったら、めげぇ声じゃったろうに……お前さんは充分罰を受げたじゃ……いや、受げる必要のねぇ罰だったがもしんねぇ」


 私とお母様は後は何も云わずに抱き合って泣いたのでした。

 この出来事は新聞にも載り、ますます世論は高まっていったのでした。

 しかし、それを快く思わない人がいたのです。

 その人物はあろう事か……霞雪子、姉様本人だったのです。


『何故です? 何故なんですか、姉様……』


 顔馴染みの巡査殿を挟んで番卒から聞いた話では、姉様は毎日首を丹念に洗って刑の執行を待っていると云うのです。


「私は一人の人間の命を奪った。ならば私の命で償うのは道理。それなのに減刑を望む運動が起こっているなど迷惑千万」


 これが姉様の云い分でした。


「意地……ではないじゃろうなぁ。恐らく雪子師範は呵責に苦しんでおられるのでしょう」


 霞流道場で行われた嘆願運動の中心人物達の会合は重たい空気に包まれていました。

 しばらく誰もが口を開かなかった中で、先の言葉を発したのは霞流道場の四天王、弧月坊延光(こげつぼうえんこう)和尚でした。

 元は大きな禅寺の貫主だったそうですが、ご維新以降の廃仏毀釈の政策でお寺を追われた犠牲者です。

 大抵のお坊様と同じく還俗させられたそうですが、本名を忘れられたとかで今でも法名を名乗っています。

 元々は宝蔵院流槍術の名人でしたが、以前から親交のあった父様からの縁で姉様に招かれて食客となり、そのまま門下生となったいい加減な人です。

 既に還暦を過ぎていますが、その辺の若者よりもずっと元気で、血気盛んな若い門下生を蹴散らしてとうとう目録まで許された常識外れな人でもあります。

 そして今もなお木刀や木槍を振り回しては若い門下生を振り回してるのです。

 ただ元お坊様と云うこともあって、彼の言葉は含蓄があり、多くの霞流門下生の中でも新参の方でありながら『和尚』の愛称で長老的な存在を務めています。

 ちなみに四天王の最後の一人は、姉様の双子の兄だった人で名を雪彦と云います。

 兄様は姉様でさえ足下に及ばぬほどの遣い手で『稲妻』の二つ名を持つ神速の剣士でした。

 本来であれば姉様が四天王となり、兄様が道場主になるはずでしたが、明治五年の銀座の大火に巻き込まれて亡くなってしまい、姉様が道場を継ぐことになったのです。

 しかし姉様が道場主になったは良いのですが、当時はまだ四天王を名乗れるだけの人材はいなかった為に桜花が目録を許されるまではと、兄様の名を四天王に連ねていたのでした。


 お話を戻しましょう。

 私は和尚の言葉から姉様が死を望んでいるように思えてつい強めの口調で答えてしまいました。


『呵責……和尚、姉様は自分から死刑になる事を望んでいると云うのですか?』


「愚僧はそこまで云うてはおらぬわい。じゃが、彼の御仁はこの明治の世において『葉隠』を支持されておられるからのう」


 和尚はお髭を撫でつけながらほふほふと笑われました。


「武士道と仏道は全く相反するものじゃが、ゴープ=ゴータマ即ちお釈迦様は仏道の本質を『一日一生』と説かれておる。お嬢、『一日一生』とは如何に?」


『はい、死をおもんみてのお言葉かと……『一日一生』と思えば一日は我がものとなり、心が安らぐと心得ます』


「うむ、では武士道を究めるには『一日一死』であると雪子師範は、否、『葉隠』は説いておるが、さてお嬢? 『一日一死』とは如何に?」


 私は和尚との問答に姉様の心根が見えて泣きたくなってしまいました。


『武士道を究めるには朝夕繰り返し死を覚悟する事が肝要であるという姉様の口癖。死を覚悟していれば武士道は自分のものとなり……』


 私は堪えていたはずの涙が頬を濡らしている事に気付かされました。


『武士が武士である事ができる。自分が自分である事ができる……姉様は人を殺めた呵責以前に自分自身の為に死のうとされているのですね?』


「そうじゃ! 全くもって愚かの極みじゃ! 雪子師範は家長でありながら家族を顧みず、道場主でありながら門下生を蔑ろにする不心得者じゃ!!」


 和尚は立ち上がるともの凄い形相で姉様のいる獄舎の方角へ向き直りました。


「愚かなり霞雪子! お主は武士の世が終わったこの時代に何を血迷う?! お主は士族である前に人であるという事を思い出すべきじゃ!!」


 和尚の一喝は腑抜けた私達に活を入れて下さいました。


「ねえ、桜花も手伝わせて?」


 見れば桜花が泣き笑いのような顔をして立っていました。

 私達は桜花の心を傷つけまいとあえて嘆願運動から遠ざけていたのです


「桜花も霞家の家族でしょ? 霞流道場の一員でしょ? 難しいことはよく分かんないけど、雪子姉様を助ける為だったら何でもするよ!」


 嗚呼、私はなんて嫌な姉なのでしょう。

 今更ながら私は自分の傲慢さに嫌気が差しました。

 桜花も家族なのに……桜花も桜花なりに事件を受け止めて姉様を心配していたというのに。


「そうね……ごめんなさい。貴女も姉様が心配だったんですものね?」


 私はいつの間にか私の背丈を抜いていた桜花を抱きしめました。


「桜花、一緒に姉様を助けましょう」


「月夜姉様……うん!」









 私達は警察に何度も掛け合い獄舎にいる姉様との面会する機会を漸く得ると、早速桜花を連れて姉様と面会をしました。

 牢の中にいる姉様は逮捕前と比べてゲッソリと痩せこけていて、初めは別人と会わされたのかと思ってしまいました。


「そこにいるのは月夜と桜花ね? しばらく会わないうちに二人とも痩せたみたいね?」


 私達は姉様の言葉に思わず硬直してしまいました。


「そんな不思議そうにしないで? ただ歩き方で何となく解ったの」


『ね、姉様もすっかり痩せてしまわれて……初めは別人かと思いました』


 私は姉様のお姿に居たたまれない気持ちにさせられました。

 横にいる桜花も同じ気持ちでしょう。


「雪子姉様、みんな心配してるよ? 桜花も、月夜姉様も、四天王や門下生もみんなみんな! だから、せめて……せめて……」


 桜花は目に涙をいっぱい溜めて牢に縋り付きます。


「死にたいなんて云わないで! みんなの優しさを迷惑だなんて云わないで! みんな雪子姉様が好きなんだよ? みんな雪子姉様を助けたいんだよ?」


 桜花はボロボロと泣いて姉様に訴えかけます。


「ねえ! 雪子姉様、何か云って……っ!」


 桜花は急に言葉を止めてしまいました。

 訝しんで姉様を見て、私は思わず呼吸を止めてしまいました。

 生まれてから一度も開かれる事のなかった姉様の双眸が開かれていたのです。

 しかも、その瞳の色は翠玉(エメラルド)を思わせる緑……


「月夜? 貴女は私の心底を察しているわね?」


 私は緑の双眸に射抜かれるように見つめられて、全身が震えて返事どころではありませんでした。


「私は死すべき時に死ぬ、ただそれだけよ? 私は一人の人間の命を奪った、だから償いをしなくては・・・・」


『s、しかし姉様は既に何度も真剣勝負を、死闘を演じられているではありませんか』


「確かに私は沢山の命を斬っている。でも、それはあくまで剣客同士の仕合の結果であり、凶賊退治の結果よ。弥三郎さんは違う。彼は剣客でも凶賊でもない」


 姉様は自嘲の笑みを浮かべて、諭すように続けます。


「それに私はね、月夜? 貴女の復讐の為に弥三郎さんを斬ったのではないの……ただ私の怒りを鎮める為に彼を斬った殺人鬼なのよ」


『ど、どう違われるのですか? 私を弄んだ弥三郎様に怒りを覚えられたのでしょう? それは即ち私の復讐では?』


 喉が渇き、唾を飲み込む作業すら苦痛になり、喘ぎながら問う私に姉様は口の端を吊り上げたのでした。


「いいえ、貴女の復讐なら、何故私は彼を告発しなかったの? 復讐ならただ斬るより彼の絵が流通しないように手を打った方が余程苦痛でしょうに」


 下弦の月を思わせる姉様の“笑み”に私の全身を凄まじい悪寒が走ります。

 姉様は道場主ということもあってか様々な人脈を持っていて、確かに新鋭の画家一人落ちぶれさせるくらい造作もない人です。


「月夜? そして、桜花? よく聞きなさい。私の心は壊れているの。『怒り』が『憎しみ』を生み、『憎しみ』が『暴力』を生む……」


 しばらく姉様の含み笑いが獄舎を支配されていました。


「私はね、いい? 昔から人を打ちのめす事が好きなの。何かを斬る事が好きなの。全てを破壊したいという衝動を自分の内側に飼っているの」


「雪子姉様……」


 桜花が哀しげに姉様の“笑み”を見つめています。


「私はいつかこうなる事が解っていた。いずれ人を殺めるだろう事を……私は貴女の悲恋を利用して人を斬った唾棄すべき斬殺魔……」


 私は無意識に首を左右に振っていました。


「私の罪は勿論、月夜、貴女の最愛の人を斬った事。でも、それ以上の罪は、人を殺める前に自分の命を絶てなかった私の弱さなの」


 姉様は慈愛の笑みを浮かべて私と桜花を見つめます。


「人を殺めておきながら自害できない惨めな殺人鬼はね、こうして司直の手を借りないと自分を罰せられないのよ。だから月夜? もう嘆願運動はやめて? 私はもう貴女達の姉、霞雪子じゃない……最愛の人、吉田弥三郎を殺した憎き鬼なのよ!」


『それでも……それでも貴女は私達の姉様です。いつも優しく、時には厳しく私達を見守ってくださった自慢の姉様です』


「そうだよ! 雪子姉様は確かに人を殺めてしまったけど、それでも霞雪子は霞雪子だよ! 決して殺人鬼でも斬殺魔でもないよ!」


 私達は泣いて牢に縋りました。

 奥に座る姉様に触れる事ができないもどかしさに歯噛みしながら。


「ありがとう、月夜、桜花……でも、無理なのよ。云ったでしょ? 私は弱いとも……罪なき人を殺めた事実を受け止めて生きられるほど私は……」


 姉様は再びあの下弦の月のような“笑み”を浮かべてしまいました。


「だから、死なせて?」


 私達は泣きながらあの“笑み”を浮かべる姉様に何も云えなくなってしまいました。

 そして、無情にも面会の時間が終わってしまい、私達は引き摺られるように獄舎から連れ出されたのです。


『姉様……本当の貴女はこんなにも弱かったのですね。貴女が『葉隠』に固執していたのは……』


 私と桜花は力なく帰途についたのでした。

 ただ自分の無力が哀しかった。









 そして事態は明朝、急展開を迎えたのです。

 予想だにしていなかった救いの手に私達は戸惑い翻弄されていく……

 傷ついていく姉様に私は為すすべもなく立ち尽くすしかありませんでした。

 姉様に齎された救いの手とは?

 そこにどのような目論みが隠されていたのか?

 それはまた次回の講釈にて。

 今回で過去話を終わらせるつもりでしたが、終われませんでした。

 雪子と月夜の顛末は次回こそ書き上げますのでご容赦を。

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