私より、先に死んで
——今日も彼は、見てくれない。
この花のように。
箱庭めいた屋敷の庭先。
散歩がてら、花を眺める。
ここの主人には不釣り合いな、柔らかいピンク色。
いや、案外合っているのかも、と彼女は微笑んだ。
「奥様、旦那様がお帰りです」
そっと耳打ちする侍女に、彼女は振り返る。
黒の軍装を纏った——彼女の伴侶。
騎士の鎧でなくとも、それだけで威圧感があった。
玄関先で足を止め、外套だけを外す。
使用人に渡す、その所作が目に入る。
「お帰りなさいませ」
にこやかに笑った。
けれど、凍てつく瞳に射抜かれて、息を呑む。
恐怖はしない。顔も崩さない。
「……」
彼は彼女を一瞥し、踵を返した。
また、どこかへ行くのだろう。
彼女はまた、何も聞かなかった。
橙色の空の下。
主人を追うように、影だけが伸びていく。
——いやいや、これじゃ二の舞だ。
彼女がここへ来る前に聞いたこと。
何度も何度も、婚約を結び、籍を置いては——女性側が去っていると。
彼の両親も、せめて身を固めてほしいという心持ちだった。
「頼む」と念押しされたのを覚えている。
それもこれも、騎士の仕事が終わっても、屋敷に帰らないからだという。
理由は誰も知らない。
使用人でさえ、わからないと首を振る。
身分不相応だから相引きしている。
血に飢えているから、夜な夜な冒険者協会へ行き、魔物を討っている。
そんな憶測や噂が出るのも、致し方ないことだった。
——今までの女は行動的じゃなかったのね。
私は違う。
私しか見ないようにしてやる。
そう心に決めて、嫁いだ今。
とんでもない鉄壁だったと悟った。
彼の目を、こちらへ向けるために。
彼女は小さな策略を、いくつも積み重ねた。
まず、初夜。
流石にこの時は、屋敷に主人がいた。
だから、恋の護符だの媚薬だの——令嬢らしからぬ小細工まで試した。
が、いつの間にか主人はいなかった。幽霊だ。
してやられた、と歯噛みしたのも懐かしい。
そのあと、接近を試みるため玄関で待った。
手袋を外した指先に温い茶を差し出し、花を挿し替えた。
彼の名の由来の花。
——そして、私の名の由来の花。
普通の紳士なら、きっと一言くらいは言ってくれて、令嬢が微笑むという絵が浮かぶ。
が、そんなことはなく。
妄想は妄想のまま、落胆に変わった。
そのまたある日。
「お疲れでしょう」と言って、椅子を引いた。
その椅子に座っただけで、勝利を噛み締めた。
自室で大声で「っしゃぁ!!」と、淑女とは程遠い声まで出た。
今までが今までだったのだから、仕方ない。
——が、それでも、彼は彼女を見ない。
視線が逸れるのではない。
初めから、彼女のいる場所に“視線を置かない”のだ。
当時は知らなかった噂。
冒険者協会。夜の討伐。相引き。血の匂い。
——どれも彼女の知らない夫の輪郭ばかり、勝手に増えていく。
もしかして主人は複数いるのかと混乱したのも、今では笑い話だ。
ならば、と。
彼女は最後の策を選んだ。
「見てくれないなら。私が、見つけにいく」
数日後。
主人が休みの日。
一応、睡眠は屋敷でしたため、決行は今日だと張り切る。
彼女の策——追跡だ。
他の女性も試したらしいが、所詮は使用人の足を使った程度。しかし上手く撒かれて、それが噂の種となった。
主人の警戒心の高さに驚く。猫か。
しかし。
——私はヘマしない。
案の定。
食器の音しかしない寂しい朝食後。
執事に「出かける」と一言。
自分にも伝えてくれている、と都合よく思い込みながら、彼女は今だと悟った。
平静を装い、「では私は部屋で読書を」と言って退く。
見送りにいないことすら、気にしていないことを願いながら支度をした。
侍女に用意させたもの。
目立たない町娘の装い。
化粧もしない。
ただの一般人——誰の記憶にも残らない色の服だ。
侍女たちは危険だと諌めたが、ここまで地味なら問題はない。
胸の無さを今だけは感謝した。
主人が外出したと同時に、彼女も裏口から滑り出る。
おろおろする侍女たちを尻目に。
人気の少ない道を選ばれたら取り繕うこともできない。
心の中で願掛けして、つけていく。
意外にも、人通りの多い市場を進んでくれていた。
背の高い彼を見失うことなく、郊外へ。
——よしよし。
国で一、二を争う騎士の尾行に成功している。
その勝利だけでもおいしい、と含み笑う。
高笑いは後でしよう。
「ふぅ……」
箱入り令嬢にはこの長い散歩は少し過酷。
気付かれないように息を整える。
——ここまでするなんて。
案外私って、自分が思う以上にこの人に惚れているのかも。
それとも好奇心か。
彼女にもわからなくなってきた。
郊外を進むと、人もいない。
魔物もここにはいない。
茂みに入り、更に後を追う。
しゃがみながらの移動は死ぬ思いがした。
しかし、ここまで来たら真相を知りたい。
明日はベッドと友達だろう。
音を立てずに進むのも難しい。
何度か雑草や枝を踏む音を出してしまった。
改めて、偵察や暗殺者たちを何故か頭の中で褒め称え、今だけは力をくれとばかりに手を合わせる。
願いが叶ったのか。
ちょうど鳥が羽ばたく。
主人は振り返るだけ。
ほっと胸を撫で下ろす。
しばらく進むと、坂の上に一軒家が見えてきた。
民家よりそこそこ綺麗な家だ。
——別荘?
やっぱり匿っている女性がいるの?
主人が屋敷へ入っていく。
あたりは雑草だらけ。手は行き届いていない。
バルコニーは網だらけ。
それでも、窓辺に小さな毛布が干されているのが見えた。
——え?
監禁……?
危険な香りがしてくるのに、生唾を飲み込む。
外に網はあるが窓は広く、内装を見ることができた。
何かのタワーが監視塔のように何本も。
床にはおもちゃらしきものも散乱している。彼女への贈り物より遥かに多い。
——それより、おもちゃということは……子供もいる?
疲労とは別に真っ青になっていく。
手で口を覆った。
「ルッフィアーナ!!」
主人が呼ぶ。
ぐぬ……と彼女は奥歯を噛む。
鏡はないが、令嬢にあるまじき顔をしていることは想像がついた。
「る、ルッチャン!! どうちた?!」
——る、るっちゃん……?
マジマジと見ると、猫が彼の腕に収まっていた。
主人はというと、そのふかふかな背に顔を埋めて吸っている。
猫撫で声で喋り続ける主人。
別人に見えた。
普段は声さえ聞かない。鉄仮面なのだから。
己に向けたものではない。
それでも。
——もっと見たい。
じわじわと窓へ近づく。
餌を与え、遊ぶ。
ひと通り終えた後、猫がタワーの一番上でゆったりするのを眺め、主人はソファに座った。
「——は?!」
同時に目を丸くする彼。
それもそのはず。
自身の伴侶がいつの間にか窓に張り付いてこちらを凝視しているのが目に入ったから。
疲れと興奮で彼女は息を切らしていた。
その驚きようもまた、彼女には新鮮だった。
困惑しながらも、彼は玄関へ向かったらしい。
扉を開く音がした。
「な……。巻いたと思ったのだが」
絶句して、口を塞いでいる。
目を泳がせている彼。
彼女の服装を見て、まさかと顔を青くする。
それもまた、新鮮で。
「へ、へへ……」
つい、不気味に笑ってしまう。
仕方ないと、家へ促した。
主人が彼女に水を与えた時、猫がタワーから降りてきた。
案外、興味津々らしい。
及び腰でじわじわと近づき、匂いを嗅いでくる。
水で少し落ち着き、彼女はちらりと主人を見る。
すると彼は——ふにゃりと破顔していた。
「で、どういうことか、質問してもいい?」
「……」
斜め下を見る彼。
視線の先には猫——ルッフィアーナ。
「旦那様?」
「……その、だな」
やっと口を開く彼。
面と向かって会話するのは初めてかもしれない、と思いながら耳を傾ける。
「俺は呪いをかけられているのだ」
「呪い?」
「ああ。魔女にかけられたとは思うが、記憶にない。解除を魔術師に依頼したが……ダメだった」
「どういう呪いなのですか?」
「大切な人を失う、というものだ」
「……」
これまでのことが合点がいった。
だから、遠ざけていたのだ。
「呪いの効果はないと思っていたが……過去、親友も失った。そのせいかは、わからない。しかし、大切な人を作らなければいいと思ってな」
「たまたま、ということは?」
「いや、魔力が暴走したように、蔦が親友を締め上げて……な」
目の前でそんなことがあれば、こうもなる。
「しかし、獣に対しては無効だと知ってから……まあ、今の有様だ」
「つまり、恋に飢えているわけですね」
うんうんと納得する。
彼女がそう告げると、彼の眉間がわずかに歪んだ。
そして真っ赤になり、違うという態度だけがやけに雄弁だった。
「毎日通い詰めているのは何故ですか?」
「この子が不安なのだ。かと言って、るっちゃんを屋敷に入れて醜態は晒したくない」
溺愛だ。
羨ましい。
泥棒ねこめ。
それはそれとして。
黒騎士と誉れ高い彼が、るっちゃんだの赤ちゃん言葉だのを吐いている姿など——確かに体裁が悪い。
令嬢たちにしてみれば、自分がその猫の立ち位置になって溺愛されるかもと、良い妄想の餌になるだろう。
実際、彼女もなっている。
「それに執事は知っているが、猫が嫌いでな……。家の墓へ一緒に入れたいと言った時も大反対されて……」
肩を落とす。
墓まで一緒とは。
泣きそうだ。
「私は?」
「ん?」
「私を愛せますか?」
「……」
無理だ、とでも言いたげに眉を顰める。
呪いがある。
無理もない。
目の前で締め殺される場面を、彼には見てほしくない。
しかし、逆に言えば——
「つまり私が大切だから、愛しているから……そう捉えても?」
「……」
彼は答えの代わりに、猫をぎゅっと抱きしめた。
嫌だったのか。
ルッフィアーナはというと、彼女の膝元に丸まった。
「くっ……」
彼女が堪えきれずに笑う。
「こうしましょう。私も呪いの解除に協力します。獣には無効というように、穴があるやもしれません」
「今まで俺は君に無礼を働いたのに……?」
るっちゃんと彼女を交互に見ながら彼が言った。
最愛の猫をいとも簡単に乗せる嫉妬心か。
それとも、他者に触れられる猫を羨ましがっているのか。
どちらにせよ可愛らしいと思いながら、彼女は答えてやる。
「気にしてませんよ、そんなこと。私は案外強いみたいです。ここまで来たのですから。死にはしません。……それに、猫ちゃんと一緒にお墓まで入りたいのでしょう?」
彼が頷く。
優しいのだ。
それが、大きな弊害のせいで、どうしようもないだけ。
それなら——
「私はあなたより長生きします。女主人になって、家の墓に猫ちゃんと一緒に入れます。できなかったら、景色のいいところに。だから、私より先に死んでくださいね」
「わかった。今のうちに、良い土地を探しておく」
ーー死んでと言われたのに、叱責もしないなんて。
即答した彼に苦笑する。
既に終活か。
やることは山積み。
しかし、まずは一つ解決したと、彼女は嬉しかった。
猫を撫であげる。
「代わりに、」と、子犬のような目をした主人が呟いた。今日百面相を見せてくれた伴侶を彼女は見つめる。
「代わりに、君は絶対死なないでくれ。いっそ不死に——」
「流石に無理です」
そうは言ったものの。
それが主人から己に対する愛の告白に思えて、俯いて照れた。
やっと夫婦生活の重たい一歩が出せた。
外では優しい風が、石楠花の花房を撫でていた。
お読みいただきありがとうございます。
結局名前出しそびれましたが、旦那様はシャクナ。彼女はローデ。
それぞれ石楠花から。ロードデンドロンは学名。
ルッフィアーナはコンメディア・デッラルテより。




