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煤街と脱皮不全(3)

先が掛かったところで、霞の手が止まった。止まった、っていうより、呼吸だけ小さく合わせてる感じだ。


 こそ……こそり。


 湿った縁をなぞる音が、さっきより丸い。乾いた紙を擦る感じじゃなくて、薄い膜をゆっくりずらされる感じ。


 耳の奥で、輪っかが抵抗した。


 かさ、と一度だけ鳴って、それが途中で途切れる。鳴りきる前に、何かがちぎれたみたいな気配がした。


「……今、引っかかった」


 霞が小声で言う。誰に説明してるっていうより、手元に言ってる。


「取れる?」


「取れる。……動かないで」


 言い方は柔らかいのに、指先の圧だけがぴたりと変わる。押すでも引くでもない。外す、っていう意志だけが入った。


 こそ――。


 その瞬間、耳の中で“ぱき”に近い感触がして、次の音が来た。


 ぺり。


 薄い紙を剥がしたみたいに、軽い音。ついでに、喉の奥までむずがゆさが走る。


「……っ」


 肩が上がりかけて、霞の指がすぐ止まった。


「痛い?」


「痛くは……ない。気持ち悪い」


「うん。そういうのは出る。すぐ引く」


 言い切らない。ちゃんと、引く。


 ぺり……。


 今度はもっと小さく、端だけが剥がれる音がした。耳の奥で何かが抜けた、っていうより、引っかかってた“角”が落ちたみたいな感覚。


 霞が外へ引いたものが、布の上に落ちる音がした。


 とん。


 ……こんな小さい音が、やけにくっきり聞こえる。


(いまの、布に落ちた音か?)


 驚くのが腹立つ。驚いてる場合じゃないのに、耳の中が勝手に反応して、世界の輪郭を戻し始める。


「今の、聞こえた?」


「……聞こえた」


「うん。いい」


 褒められてるみたいで癪なのに、返事をする声が少しだけ楽だ。耳の中の重さが、釘を一本抜かれたみたいに軽い。


 霞は布の上の欠片を指先でつまんだ。濡れてるのに、薄くて頼りない。


「これが“外側の端”。まだ続きがいる」


「……まだあるのかよ」


「あるよ。欲張らないって言ったでしょ」


 また笑う。ほんの少し。


 耳の中に先が戻ってくる。冷えが一瞬、ひや、と来て、また湿り気に溶ける。


 こそ……。


 さっきより奥だ。耳孔の縁じゃない。縁のすぐ向こうの壁をなぞられてる。


 むずむずが跳ね上がる。


 掻きたい衝動が、指先じゃなくて喉から出る。唇の端が勝手に引きつって、舌打ちが出そうになるのを噛み殺した。


「舌、動いてるよ」


「動かしてねぇ」


「動いてる。噛んでるでしょ」


 言われて、余計に腹が立つ。図星で。


「……黙ってやれ」


「黙ってたら余計、力入るでしょ」


 霞は淡々と言う。淡々としてるのに、嫌味がないのが余計むかつく。


 こそ……こそり。


 先が輪っかの縁を探って、また掛かった。


 ぴた。


 耳の中が一瞬、静かになる。外の湯気の音まで、遠くで鳴ってるのが分かる。静かすぎて、逆に気持ち悪い。


(くる)


 ぺり……っ。


 今度は、さっきより長い。剥がれる音が、耳の奥で伸びて、最後にふっと抜けた。


 とん。


 布の上に落ちた。


 ……落ちた音が、さっきよりさらに“近い”。


 思わず目を開ける。見ても何も変わらないのに、体が勝手に確認を求める。


「今、音が近い」


「うん。戻ってる」


 霞はそれだけ言って、また奥へ行く。褒めも説明も要らない、って顔。


 耳の中で、輪っかの残りがカサ、と鳴る。さっきのカサとは違う。乾いた紙じゃない。湿った薄皮が、壁に貼りついて擦れる音だ。


 ぬち。


 気持ち悪い。けど、嫌な気持ち悪さが、さっきより“形”を持ってる。どこがどう気持ち悪いか分かるのが、少しだけマシだ。


「……変な音する」


「する。していい」


 霞の返しが軽い。軽いのに、手は正確だ。あっさり受け止められて、こっちの抵抗だけが空振りする。


 こそ……。


 ぺり。


 とん。


 その繰り返しが、少しずつ早くなる。霞が欲張らないぶん、手が迷わない。欠片が落ちるたび、耳の中の重さが薄くなる。


 そして、ある欠片が剥がれた瞬間。


 外の音が、いきなり入ってきた。


 湯気の立つ“しゅう”が、店の天井のどこかじゃなく、右手の壁際から聞こえる。床を歩く足音が、木のきしみとして分かる。距離が出る。


 息を吸う音まで、右耳のほうが少しだけ大きい。


「……うわ」


 変な声が出た。


 霞が笑った。


「出たね」


「出たってなんだよ」


「びっくりの声」


「……してねぇ」


「してる」


 言い返す余裕が出てるのが悔しい。悔しいくせに、耳の中が軽いのがもっと悔しい。


 霞が一度、先を抜いた。


 しゅ……。


 綿が入口をなぞって、湿り気と小さい欠片を拭う。ジャブジャブじゃない。縁だけを、さっと。


 その“さっと”の音が、耳の中でちゃんと聞こえる。


 不意に、掻きたい衝動が薄くなってることに気づく。


(……なんだ、これ)


 掻けない奥の焦りが、さっきより弱い。まだむずむずするけど、暴れ回るほどじゃない。手を出せ、って叫んでたやつが、黙り始めてる。


「残り、あと少し」


「……まだ“少し”あんのか」


「ある。でも、さっきまでの“少し”とは違う」


 霞がまたランプを寄せる。光の輪が奥で揺れて、輪っかの影が細くなってるのが分かる。影が“輪”じゃなくなって、薄い筋になる。


 先が戻ってくる。


 ひや、として。


 こそ……。


 霞の呼吸が、こっちに伝わるくらい近い。


「いくよ」


 言った直後に、ぺり、と最後の欠片が剥がれた。


 とん。


 落ちた。


 ……その瞬間、耳の中の空気が、ふっと広がった気がした。狭いところから外に出たみたいに、音が散る。


 外の世界が、やっと右にも戻ってきた。まだ完璧じゃない。けど、合図が“音”として入る。


 霞が手を止めたまま、しばらく覗いている。


「うん。輪っかは、いまので終わり」


 そこだけ、はっきり言う。


 言い切られても嫌じゃないのは、その間に散々“細かく外してきた”のを体が知ってるからだ。


 霞は綿で入口を一度だけ拭って、ふわ、と引いた。


「じゃあ、最後。薄く油だけ」


 小瓶の口が開く、きゅ、が聞こえる。椿の匂いが、甘くて乾いてる。


 指先が耳孔の縁に触れて、ほんの薄い膜みたいに油がのる。


 ぬる、ともしない。てら、ともしない。皮膚が“守られてる”って感じだけが残る。


 その瞬間、さっきまでのむずがゆさが、すとんと落ちた。


(……ああ、これ)


 言葉にすると負けそうで、飲み込む。


 霞が手を引いて、布を畳む音がした。


「はい、終わり。……立てる?」


 終わった、と言われたあとも、しばらく右のこめかみが落ち着かなかった。痒さじゃない。熱でもない。薄い膜が一枚のって、そこだけ外気に触れなくなったみたいな、変な安心が残ってる。


「……立てる」


 枕から頬を離すと、鱗が一瞬だけ引っかかって、すぐ離れた。右側の空間が広い。広いのに、落ち着かない。空っぽになったわけじゃなくて、詰まってたものが抜けたぶん、音が入ってくる。


 腰を起こして、耳孔の縁を触りたくなる。指が勝手に上がりかけて、途中で止めた。霞の顔が見えたせいだ。


「触らない。約束」


「……分かってる」


「分かってる顔してない」


 言い方が軽いのが余計むかつく。むかつくのに、今は言い返せる。


 会計は手早かった。小銭が木の盆に落ちる音が、右側でちゃんと鳴る。落ちた場所が分かるってだけで、くだらないくらい安心する。


「今日、湯屋で頭まで浸かるのはやめときな。耳に入ったら拭くだけ。突っ込まない」


「……分かった」


「帰り、冷えるよ。肩、上がってる」


 肩? と言い返しかけて、黙った。上がってる。指摘されて気づくのが悔しい。


 戸の前で靴を履く。濡れた布を踏む、しっとりした感触。外の冷えた空気が、戸の隙間から舌に触れてくる。煤の匂いが、まだ街の標準装備としてそこにある。


「また固まる前に来な。脱皮の季節、鱗の耳はサボるとすぐ輪っか作る」


「脅すなよ」


「脅してない。予告」


 霞が笑って、戸を少しだけ開けた。


 湯気路地の湿った夜が、顔に当たる。


 足を一歩出した瞬間、世界が右側にも生えた。


 湯屋の裏で鳴ってる湯気のしゅう。路地の奥で水が落ちる音。誰かの下駄が石を叩く、こつ、こつ。全部が「どこか」で鳴ってるんじゃなくて、それぞれ場所を持ってる。


(……くそ)


 笑いそうになって、奥歯で止めた。いちいち感動するのは柄じゃない。


 路地を抜けると、トラム通りのざわめきがぶつかってきた。その中で、鈴の音が一つ、きん、と立つ。


 右じゃない。左のほう。少し前。


 反射で顔が向いた。ちゃんと向けたのが腹立つ。腹立つのに、足が勝手にそっちへ寄る。


 屋台が並ぶ角で、煙草を吊った店があった。紙箱の角がずらっと揃ってて、煤の街のくせにそこだけ妙に整っている。


「兄ちゃん、何にする」


 売り子の声が、目の前から来る。


「赤い札のやつ」


「赤札ね。何箱?」


「一つ。……いや、二つ」


 言いながら、舌打ちが出そうになる。余計な出費だとか、そんな話じゃない。買わない理由がないのが腹立つ。


 紙箱が引き出しを擦る音。かさ。次に、箱が台に置かれる、とん。小銭が返ってくる、ちゃり。


 全部が、妙に鮮明だ。


 煙草の箱を懐に入れると、紙が胸の鱗に当たって、そこだけ冷えた。


(ハチスケのやつ、これで黙るか)


 あいつは礼なんか求めない顔をする。求めない顔をするくせに、ちゃっかり煙草は受け取る。そういう奴だ。


 トラムのベルがまた鳴った。今度は遠い。遠いのに、方向が分かる。線路の上、右前。曲がり角の向こう。


 足が自然にそっちを向いた。


 右の縁に残った椿の匂いが、煤の中でも妙に負けずに鼻に残る。


 工場の熱も、明日のハンマーも、逃げられない。


 それでも、ベルが「合図」としてちゃんと立ってる。


 明日、取りこぼしたら――今度は言い訳ができない。


(……よし)


 煙草の箱を指で一度だけ叩いて、歩き出した。

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