煤街と脱皮不全(2)
戸が閉まると、外のざわめきが薄皮一枚、はがれたみたいに遠のいた。
代わりに近いのは、木の床のきしみと、湯気の匂いだ。
石鹸に、乾いた草のかけらみたいな香りが混ざっている。
視界の端に棚があって、小瓶が並んでるのが見えた。ラベルが細い字で、油だの消毒だの、そんな類。
「靴、濡れてる。入口の布で拭いて。ここ滑るから」
言われたとおり靴底を拭く。布はしっとりしていて、湯屋の匂いが残っていた。
「ありがと。……じゃ、どんな感じ?」
「右が重い。合図が取りにくい」
「仕事帰りだよね。鋳造?」
「そう」
「おつかれ。煤は毎日だ、逃げられないね」
女がこっちの横顔を軽く覗き込んだ。目線だけ置いて、すぐ引く。
「来る前に、いじってない?」
「触ってねぇ」
「えらい。だいたいみんな、まず指突っ込みたがる」
こめかみがむずっとして、拳を握り直す。
「……なる」
「うん。ここでは我慢。触るのは私がやる」
器具箱の蓋が開く音がして、金属が小さく鳴った。
「名前は?」
「ガル」
「ガルね。……私は霞」
霞。看板と同じ名だ。
「霞って呼んで」
「……わかった」
「耳、こういうとこは初めて?」
「初めてだ」
「そっか。痛みはない?」
「ない」
「めまいも?」
「ない」
「いつから違和感ある?」
「……前から薄くは変だった。今日になって、ベル取りこぼした」
「うん、わかった。じゃ見てみよっか。」
奥のカーテンが引かれて、低い施術台が見えた。布がきれいに敷かれている。
「右を上にね。頭はこれ。そうそう、力抜いて」
枕に頬を乗せる。頬の鱗が少しだけ引っかかって、すぐに湿り気で馴染んだ。
霞がランプを寄せる。光がこめかみの窪みを白く縁取った。
「……うん、皮が輪になってる。脱皮しそこないが煤噛んで乾いて固まったやつ、入口で引っかかってるね」
「取れるのか」
「取れるよ。こっちでやるから。……自分で引っぱると、皮まで一緒に持ってっちゃう」
「……じゃあ来て正解か」
「うん。正解」
霞は小さな布を取り上げて、指先で揉んだ。
「まず温めるね。急ぐと痛いから」
温かい布が耳孔の縁に当てられる。湯気を吸った布のぬるさが、こめかみの窪みの周りをじわっと包んだ。
むに……。
布が鱗の縁を押して、湿り気がほんの少しだけにじむ。水が入ったときの嫌な冷たさじゃない。熱いほどでもない。なのに、奥が勝手に反応する。
最初は皮膚の上だけが温まって、次に鱗の下の薄い肉がゆっくりほどけていく。固まってたところを指で押されたみたいで、むずがゆさが先に来た。
縁の鱗がぴく、と立ちかける。掻きたい衝動が、指じゃなく肩から出そうになって、喉の奥で噛んで止めた。
布が少し押されるたび、湿り気が奥へ回る。
しと……。
粉っぽかった乾きが、沈んでいく気配がある。嫌な感じじゃない、って言い切るほどでもない。けど、さっきまでの“乾いた硬さ”が、形を変えていくのが分かる。
耳の奥の輪っかが、カサ、と鳴った。さっきより近い。骨じゃなく、耳の中の壁で鳴ってる音だ。
「……今の音、聞こえた?」
「近い音だけな」
「それで十分。近いのが先に形になるから。そっから」
その声が、耳の奥にすっと落ちた。
温かい布が外れると、耳孔のまわりだけが妙に軽い。暖気が抜けたぶん、店の匂いが一段はっきりする。石鹸と乾いた草と、どこか甘い油。
布が畳まれる音がして、机の上で小瓶が小さく鳴った。
「じゃ、湿らせるよ。入口だけ」
机の上で小瓶が一度だけ鳴って、ふたが回る音が短く続いた。きゅ、と乾いた擦れ。匂いがふっと増える。油っぽさじゃなくて、湯屋の石鹸と乾いた草の間みたいなやつだ。
耳孔の縁に、柔らかいものが触れた。綿の先。爪に引っかけるでもなく、撫でるだけ。
ぬるい湿り気が、縁にのる。
奥がきゅっと固まった。嫌な感じが来る、って体が先に言う。首を振りたくなるのを、喉の奥で止めた。
「……浅くで頼む」
「うん。入口だけ」
霞はそこで一拍置いた。綿を押し込まず、湿り気だけを縁に残して待つ。焦らせない。
乾いて硬かった縁が、じわっと重くなる。粉っぽかったところが湿って、薄くなっていく。音も変わる。カサ、が、鈍くなる。
その変化が、いちばん嫌だった。
掴める気がする。今なら、爪でちょいとやれば――そんな考えが勝手に浮いてくる。指先が勝手に動きかけて、膝の上で拳を握り直した。
自分でやると、欲張って皮まで持っていく。
ハチスケの顔が、煙と一緒によぎる。笑ってたのが腹立って、余計にむずむずする。
綿がもう一度、入口の縁をなぞった。点じゃなく、輪郭に沿って薄く広げる。濡れたところがふわっと膨らんで、ほどける。
痒さが立つ。
皮膚の上じゃない。届かない奥が痒い。掻けない場所だけが騒いで、肩の中までぞわっと伝ってくる。頭を振れば逃げそうなのに、逃げない。
息を吐いて、顎の力を抜いた。霞の手は相変わらず入口にしかいない。布の擦れる小さい音が、妙に近い。
「しみない? 痛くない?」
「……今は平気」
返事の途中で、喉が乾いて声が少し掠れた。
霞は「うん」とだけ返して、手を止めない。指先の動きは小さいのに、耳の中の音だけは大げさに近い。綿の先を縁に当てたまま、ほんの数呼吸ぶん待つ。
じわ……じわ……
湿り気が回っていく気配が、耳の中で小さく鳴る。乾いていたところが重くなって、粉っぽさが静かに沈む。
綿が離れると、入口の縁が一瞬だけ引っぱられて、戻る。くっついてたものがほどけ始めてる感じがする。痒さがそこで引っかかって、また指が動きかけた。
しゅ……
霞が小さく綿をすべらせて、余分をぬぐった。
「よし。入口、ふやけた」
息を吐いた。奥の緊張が、やっと一段落ちる。
(……悪くない、とは言わねぇけど)
さっきの“嫌な感じ”が、少しだけ形を変えていた。掻けない奥が、じわっと楽になる手前みたいな。
霞がランプの角度を変えた。光がこめかみの窪みの奥で白く反射して、湿った部分だけが艶を持つ。
光の輪が、窪みの奥へ細く差し込む。濡れたところだけが、ぬらっと反射して、乾いていた縁との境目がはっきりした。
霞の指が、耳孔の縁の鱗をほんの少しだけ押す。爪じゃない。腹で確かめるみたいな触り方だ。
「……うん。輪っか、やわくなった。外側がほどけ始めてる」
言い方は軽いのに、目はさっきより細い。覗くっていうより、狙ってる。
湿って柔らかくなった縁を想像する。なんだか耳の中がやけに狭く感じて、むずがゆくなってくる。
息を吸うと、布と油とハーブが鼻の奥で混ざった。工場のざらつきがまだ喉に残ってるせいで、甘い匂いが余計にくすぐったい。
「これ、いっぺんに抜かないほうがいいね。欠けたところから、ちぎって外してく。そっちのほうが痛みにくいし、戻りも早い」
「……分かった。ちぎるんだな」
「うん。欲張らない」
そこだけ、ちょっと笑った。
器具箱の中で何かが触れ合って、かち、と短い金属音がした。続いて、木の細い軸が布の上を転がる音。ころ、と乾いた。
掻きたい衝動がまた来る。湿ってるせいで、余計に“掴めそう”な気がしてくる。拳を握って、爪を掌に立てた。
霞がランプを少しだけずらす。光が奥へ入る角度が変わって、輪っかの縁が白く浮いた。
「これ。見えないけど、いま入口のすぐ先で、輪になってる」
「……自分の耳の話されてんのに、実感ねぇな」
「だいたいそんなもん。触ったら実感するから、触らないでね」
さらっと言われて、喉の奥で舌打ちを飲み込む。
霞の手が、耳孔の縁を一周する。綿じゃない。先の細いものが、縁のすぐ内側をなぞった。
こそ……。
乾いた紙の端を撫でられたみたいな音がして、肩が勝手に跳ねそうになる。音だけじゃない。触られてる場所が、外じゃなく“奥”なのが分かる。
「……っ」
「痛い?」
「痛くは……ない。むずい」
「うん、むずいでいい。痛かったら言って。すぐ止めるから」
言い切らずに、最後を落とす。そういうのが余計に効く。
息が浅くなる。鼻で吸って、口でゆっくり吐く。吐くとき、耳の奥が少しだけ開く感じがして気持ち悪い。
霞が一度、手を離した。空気が入ると、湿った縁がひやっとして、さっきのむずがゆさが形を変える。
器具箱の中で、金属がもう一回だけ鳴った。かち、のあとに、軽い擦れ。
「じゃあ、ここから。最初の欠片だけ取るね」
耳孔の縁に、冷たい先が来る。綿とは違う冷え方。触れた瞬間、輪っかのほうがぴく、と反応したみたいにカサ、と鳴った。
思わず肩が上がりかけて、首の筋で押し戻す。
「……息だけ。動くのは私でいい」
霞の声が、さっきより近い。
こそ――。
輪っかの縁に、先が掛かる気配がした。




