表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

煤街と脱皮不全(2)

戸が閉まると、外のざわめきが薄皮一枚、はがれたみたいに遠のいた。

代わりに近いのは、木の床のきしみと、湯気の匂いだ。

石鹸に、乾いた草のかけらみたいな香りが混ざっている。


 視界の端に棚があって、小瓶が並んでるのが見えた。ラベルが細い字で、油だの消毒だの、そんな類。


「靴、濡れてる。入口の布で拭いて。ここ滑るから」


 言われたとおり靴底を拭く。布はしっとりしていて、湯屋の匂いが残っていた。


「ありがと。……じゃ、どんな感じ?」


「右が重い。合図が取りにくい」


「仕事帰りだよね。鋳造?」


「そう」


「おつかれ。煤は毎日だ、逃げられないね」


 女がこっちの横顔を軽く覗き込んだ。目線だけ置いて、すぐ引く。


「来る前に、いじってない?」


「触ってねぇ」


「えらい。だいたいみんな、まず指突っ込みたがる」


 こめかみがむずっとして、拳を握り直す。


「……なる」


「うん。ここでは我慢。触るのは私がやる」


 器具箱の蓋が開く音がして、金属が小さく鳴った。


「名前は?」


「ガル」


「ガルね。……私は霞」


 霞。看板と同じ名だ。


「霞って呼んで」


「……わかった」


「耳、こういうとこは初めて?」


「初めてだ」


「そっか。痛みはない?」


「ない」


「めまいも?」


「ない」


「いつから違和感ある?」


「……前から薄くは変だった。今日になって、ベル取りこぼした」


「うん、わかった。じゃ見てみよっか。」


 奥のカーテンが引かれて、低い施術台が見えた。布がきれいに敷かれている。


「右を上にね。頭はこれ。そうそう、力抜いて」


 枕に頬を乗せる。頬の鱗が少しだけ引っかかって、すぐに湿り気で馴染んだ。


 霞がランプを寄せる。光がこめかみの窪みを白く縁取った。


「……うん、皮が輪になってる。脱皮しそこないが煤噛んで乾いて固まったやつ、入口で引っかかってるね」


「取れるのか」


「取れるよ。こっちでやるから。……自分で引っぱると、皮まで一緒に持ってっちゃう」


「……じゃあ来て正解か」


「うん。正解」


 霞は小さな布を取り上げて、指先で揉んだ。


「まず温めるね。急ぐと痛いから」


 温かい布が耳孔の縁に当てられる。湯気を吸った布のぬるさが、こめかみの窪みの周りをじわっと包んだ。


 むに……。


 布が鱗の縁を押して、湿り気がほんの少しだけにじむ。水が入ったときの嫌な冷たさじゃない。熱いほどでもない。なのに、奥が勝手に反応する。


 最初は皮膚の上だけが温まって、次に鱗の下の薄い肉がゆっくりほどけていく。固まってたところを指で押されたみたいで、むずがゆさが先に来た。


 縁の鱗がぴく、と立ちかける。掻きたい衝動が、指じゃなく肩から出そうになって、喉の奥で噛んで止めた。


 布が少し押されるたび、湿り気が奥へ回る。


 しと……。


 粉っぽかった乾きが、沈んでいく気配がある。嫌な感じじゃない、って言い切るほどでもない。けど、さっきまでの“乾いた硬さ”が、形を変えていくのが分かる。


 耳の奥の輪っかが、カサ、と鳴った。さっきより近い。骨じゃなく、耳の中の壁で鳴ってる音だ。


「……今の音、聞こえた?」


「近い音だけな」


「それで十分。近いのが先に形になるから。そっから」


 その声が、耳の奥にすっと落ちた。


 温かい布が外れると、耳孔のまわりだけが妙に軽い。暖気が抜けたぶん、店の匂いが一段はっきりする。石鹸と乾いた草と、どこか甘い油。


 布が畳まれる音がして、机の上で小瓶が小さく鳴った。


「じゃ、湿らせるよ。入口だけ」


 机の上で小瓶が一度だけ鳴って、ふたが回る音が短く続いた。きゅ、と乾いた擦れ。匂いがふっと増える。油っぽさじゃなくて、湯屋の石鹸と乾いた草の間みたいなやつだ。


 耳孔の縁に、柔らかいものが触れた。綿の先。爪に引っかけるでもなく、撫でるだけ。


 ぬるい湿り気が、縁にのる。


 奥がきゅっと固まった。嫌な感じが来る、って体が先に言う。首を振りたくなるのを、喉の奥で止めた。


「……浅くで頼む」


「うん。入口だけ」


 霞はそこで一拍置いた。綿を押し込まず、湿り気だけを縁に残して待つ。焦らせない。


 乾いて硬かった縁が、じわっと重くなる。粉っぽかったところが湿って、薄くなっていく。音も変わる。カサ、が、鈍くなる。


 その変化が、いちばん嫌だった。


 掴める気がする。今なら、爪でちょいとやれば――そんな考えが勝手に浮いてくる。指先が勝手に動きかけて、膝の上で拳を握り直した。


 自分でやると、欲張って皮まで持っていく。


 ハチスケの顔が、煙と一緒によぎる。笑ってたのが腹立って、余計にむずむずする。


 綿がもう一度、入口の縁をなぞった。点じゃなく、輪郭に沿って薄く広げる。濡れたところがふわっと膨らんで、ほどける。


 痒さが立つ。


 皮膚の上じゃない。届かない奥が痒い。掻けない場所だけが騒いで、肩の中までぞわっと伝ってくる。頭を振れば逃げそうなのに、逃げない。


 息を吐いて、顎の力を抜いた。霞の手は相変わらず入口にしかいない。布の擦れる小さい音が、妙に近い。


「しみない? 痛くない?」


「……今は平気」


 返事の途中で、喉が乾いて声が少し掠れた。


 霞は「うん」とだけ返して、手を止めない。指先の動きは小さいのに、耳の中の音だけは大げさに近い。綿の先を縁に当てたまま、ほんの数呼吸ぶん待つ。


 じわ……じわ……


 湿り気が回っていく気配が、耳の中で小さく鳴る。乾いていたところが重くなって、粉っぽさが静かに沈む。


 綿が離れると、入口の縁が一瞬だけ引っぱられて、戻る。くっついてたものがほどけ始めてる感じがする。痒さがそこで引っかかって、また指が動きかけた。


 しゅ……


 霞が小さく綿をすべらせて、余分をぬぐった。


「よし。入口、ふやけた」


 息を吐いた。奥の緊張が、やっと一段落ちる。


(……悪くない、とは言わねぇけど)


 さっきの“嫌な感じ”が、少しだけ形を変えていた。掻けない奥が、じわっと楽になる手前みたいな。


 霞がランプの角度を変えた。光がこめかみの窪みの奥で白く反射して、湿った部分だけが艶を持つ。


 光の輪が、窪みの奥へ細く差し込む。濡れたところだけが、ぬらっと反射して、乾いていた縁との境目がはっきりした。


 霞の指が、耳孔の縁の鱗をほんの少しだけ押す。爪じゃない。腹で確かめるみたいな触り方だ。


「……うん。輪っか、やわくなった。外側がほどけ始めてる」


 言い方は軽いのに、目はさっきより細い。覗くっていうより、狙ってる。


 湿って柔らかくなった縁を想像する。なんだか耳の中がやけに狭く感じて、むずがゆくなってくる。


 息を吸うと、布と油とハーブが鼻の奥で混ざった。工場のざらつきがまだ喉に残ってるせいで、甘い匂いが余計にくすぐったい。


「これ、いっぺんに抜かないほうがいいね。欠けたところから、ちぎって外してく。そっちのほうが痛みにくいし、戻りも早い」


「……分かった。ちぎるんだな」


「うん。欲張らない」


 そこだけ、ちょっと笑った。


 器具箱の中で何かが触れ合って、かち、と短い金属音がした。続いて、木の細い軸が布の上を転がる音。ころ、と乾いた。


 掻きたい衝動がまた来る。湿ってるせいで、余計に“掴めそう”な気がしてくる。拳を握って、爪を掌に立てた。


 霞がランプを少しだけずらす。光が奥へ入る角度が変わって、輪っかの縁が白く浮いた。


「これ。見えないけど、いま入口のすぐ先で、輪になってる」


「……自分の耳の話されてんのに、実感ねぇな」


「だいたいそんなもん。触ったら実感するから、触らないでね」


 さらっと言われて、喉の奥で舌打ちを飲み込む。


 霞の手が、耳孔の縁を一周する。綿じゃない。先の細いものが、縁のすぐ内側をなぞった。


 こそ……。


 乾いた紙の端を撫でられたみたいな音がして、肩が勝手に跳ねそうになる。音だけじゃない。触られてる場所が、外じゃなく“奥”なのが分かる。


「……っ」


「痛い?」


「痛くは……ない。むずい」


「うん、むずいでいい。痛かったら言って。すぐ止めるから」


 言い切らずに、最後を落とす。そういうのが余計に効く。


 息が浅くなる。鼻で吸って、口でゆっくり吐く。吐くとき、耳の奥が少しだけ開く感じがして気持ち悪い。


 霞が一度、手を離した。空気が入ると、湿った縁がひやっとして、さっきのむずがゆさが形を変える。


 器具箱の中で、金属がもう一回だけ鳴った。かち、のあとに、軽い擦れ。


「じゃあ、ここから。最初の欠片だけ取るね」


 耳孔の縁に、冷たい先が来る。綿とは違う冷え方。触れた瞬間、輪っかのほうがぴく、と反応したみたいにカサ、と鳴った。


 思わず肩が上がりかけて、首の筋で押し戻す。


「……息だけ。動くのは私でいい」


 霞の声が、さっきより近い。


 こそ――。


 輪っかの縁に、先が掛かる気配がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ