煤街と脱皮不全(1)
ハンマーが落ちるたびに、鋼の悲鳴と一緒に、骨の中まで音が入ってくる。最初の頃は、その一発ごとに世界が白く弾けていた。
今は、そこまでじゃない。ハンマーは相変わらず耳元で雷みたいに鳴っているのに、頭蓋の奥が、前ほどきしまずに済んでいる。
(慣れてきた、ってやつか)
最初の月は、毎晩寝床の中で後悔していた。なんでよりにもよって鋳造ラインなんか選んだのか、なんで生ぬるい水辺の暮らし蹴って、鉄と火の街なんかに来たのか。
でも、毎日こうして叩かれてりゃ、人間でも鱗人でも、そのうち大抵の音には慣れるらしい。最近は、ハンマーよりも、監督の怒鳴り声のほうがうるさいくらいだ。
「おい、ガル!」
その監督の声が、妙に遠くから飛んできた。顔を上げると、すぐ目の前で口が動いている。
「……なんだよ」
「“なんだよ”じゃねぇ。ベル見ろ、ベル」
顎でしゃくる方向を追う。鋳造場の天井に吊られた警告ベルが、まだかすかに揺れていた。さっきまで鳴っていたらしい。耳の奥で薄く鳴っていた気はするのに、音の輪郭も、どこから来たのかも掴めなかった。
「止めるの遅ぇんだよ。おまえがハンマー見てねぇと、みんな巻き込まれんだぞ」
「……悪かったよ」
そう返す声も、どこか他人事みたいに耳に届く。頭の中では、さっきまでのハンマーの音だけが、まだドンドンと鳴り続けていた。
ラインの上の赤い灯が消えて、ハンマーが止まる。周りの奴らが一斉に道具を置くのを見て、ああ、今のが合図だったんだなと気づく。
自分だけが一拍遅れて手を離す。骨の奥まで染みていた振動が途切れると、代わりに頭の中で、さっきの残響だけがドンドンと鳴り続けた。
鋳造場の隅にある水場で、いつもの桶に顔を突っ込む。冷たい水が鱗の隙間に入り込んで、じわっと熱が抜けていく。
水面に映る自分の顔をちらりと見る。耳のあるはずの場所には、人間みたいなひらひらはない。代わりに、こめかみに浅い窪みが一つ――縁の鱗だけが少し硬く立って、耳孔を細く縁取る輪になっている。そこから顎のほうへ、細かい鱗が斜めに重なっていた。
……耳の奥は、あんまり冷えない。
顔を上げて、水を払う。耳孔に水が入ると、耳の中だけが急に近くなる気がして落ち着かない。頭を振ると、こめかみの窪みの奥で、やっぱりカサ、と乾いた音がした。
(鬱陶しいな)
耳の中に、薄い筒みたいなものがはまり込んでいる感覚。いつもの脱皮なら、とっくに抜け落ちているはずのやつだ。分かってはいるのに、仕事の前にどうにかする余裕なんか、最初からなかった。
ベンチ代わりの鉄箱に腰を下ろしていると、隣にどさっと誰かが座った。
「おい、ガル」
声の方向は分かる。ただ、いつもより少し遠くから聞こえる気がした。
「……なんだ」
顔を向けると、濃い青黒い鱗の腕に煤をべったりつけたハチスケが煙草をくわえていた。同じ鱗人だが、川が違うせいか、鱗は自分より濃くて、目尻のあたりまで模様が伸びている。こめかみの浅い窪みも、自分と同じ場所にぽっかり空いていた。
「さっきのベル、おまえだけ止めるの遅かったぞ」
「止めただろ。文句あんのか」
「一回目で止める仕事なんだよ、あれは」
ハチスケは、短く煙を吐いた。薄い唇の線――口角が後ろまで伸びた切れ目みたいな口から、煙が細く漏れる。目だけでじろりと横顔をなめてくる。
「耳、変だろ」
「……別に」
「嘘つけ。呼んだときの顔してた」
こめかみの窪みに、思わず手が行きそうになる。指先が鱗に触れる前に、拳を握り込んで膝の上に押しつけた。
「ハンマーには慣れたんだよ」
「へぇ。じゃあなんでベル聞こえねぇんだ」
「……うるせぇな」
「うるさいのはハンマーだろ。ベルはうるさいくらい聞こえてねぇと困る」
ハチスケは天井のベルを顎でしゃくった。
「俺もな、前に一回、似たようなことやった」
「おまえが鈍い話なら聞きたくねぇな」
「鈍くなったのは耳のほうだって話だよ」
そう言って、ハチスケは自分のこめかみの窪みの縁を指でとん、と叩いた。そこだけ、細く鱗の色が変わっている。
「ここ、見えるか。前の職場で、気になって自分でほじった。しばらく片側、何言われても籠もって聞こえてな」
「馬鹿だな」
「馬鹿だったから、耳かき屋に引きずられてった」
あっさり言われて、言葉に詰まる。
「耳かき屋?」
「“耳処かすみ”。耳の中、商売で触ってる変人の店」
「変人の店に、よう行ったな」
「行かねぇと監督に首ひねり飛ばされるとこだったからな」
ハチスケは肩をすくめた。
「ハンマーの音は我慢でどうにかなると思ってた。でもな、事故ったとき鳴るのはハンマーじゃねぇ。ベルと声だ」
さっきの監督の怒鳴り声を思い出す。口が動いてるのは見えていたのに、言葉として入ってこなかった。
「……耳かきで、どうにかなんのかよ」
「どうにかなったから、今ここで煙草吸ってる。まだ片方、生きてるうちにな」
ハチスケは煙草を鉄箱の縁で揉み消した。
「トラム通りの湯屋わかるだろ。あそこの裏の、湯気抜けてる細い路地。入って右。小さい札がぶら下がってる」
「耳かき屋のくせに、こそこそしすぎじゃねぇ?」
「耳見せびらかす店じゃねぇから。港の鱗も、工場の鱗も、こっそり行ってこっそり帰ってくる」
「……ふぅん」
適当な相槌でごまかすと、ハチスケは鼻で笑った。
「その顔、“行くのめんどくせぇ”って書いてあるぞ」
「仕事終わってからまた外出るのがだるいだけだ」
「死ぬよりはマシだろ」
休憩終了のベルが鳴った。今度は、鳴ったのは分かる。ただ、音の出どころを掴むのに、やっぱり一拍いる。
ハチスケは立ち上がりざま、振り返りもせずに言った。
「終業までに軽くなるならそれでいい。重いままだったら、その足で行け。どうせ家帰って横になったら、一生行かねぇ」
「……うるせぇ」
「耳に関しちゃ、うるさいくらいでちょうどいいんだよ」
ハチスケは手をひらひらさせて、ラインのほうへ戻っていった。
しばらく、水場の鉄箱に座ったまま、天井のベルを見上げた。
さっき鳴った音は、もう止まっている。頭の中では、相変わらずハンマーの残響だけが続いていた。
(マシになっても一回は行っとけって顔してたよな、あいつ)
こめかみの奥で、かさり、とまた輪っかが鳴った。それが返事みたいに聞こえて、舌打ちを一つだけ飲み込んだ。
◇
終業の汽笛は、胸に来た。
鋳造場の屋根が震えるみたいに鳴って、次に床が揺れる。音というより振動で分かる。分かる、はずだった。
それでも今日のは、どこか薄い。
工具を片づけて、手袋を外す。指先の鱗の隙間に入り込んだ煤が、汗と混ざって黒い泥になっていた。
水場で手を洗い、首筋までぬるい水を浴びる。冷えると鱗がきしむのを知っているから、いきなり冷やしすぎない。
顔を上げたとき、桶の水面に映った自分の口が目に入った。
薄い唇の線。笑っても丸くならない。口角は少し後ろまで伸びて、切れ目みたいに見える。
(……こんな口して、何を“慣れた”だ)
外へ出ると、煤街の夜気が喉の奥を撫でた。工場の熱が抜けて、空気が一段冷たい。冷たさは痛みより先に、だるさを連れてくる。
正門の外は、まだ工場の腹の中だった。鉄柵の向こうにも同じ匂いが残っていて、夜なのに煙突の影が長い。敷地沿いの道をしばらく歩く。頭上には古い蒸気管が渡されていて、継ぎ目から白い息が細く漏れていた。
舗装は荒い。車輪の跡が固まったまま波になっている。歩くたび、足裏に小さな振動が返ってきた。
通りへ出た瞬間、耳の中の輪っかがまた鳴った。
カサ。
音が耳の奥で乾いて跳ねる。外は広いはずなのに、ざわめきは壁の向こうみたいに薄い。
工場地帯を抜けるまでが、意外と長い。倉庫の並ぶ通り、煤で黒い積み荷、夜番の笛。どれも聞こえる気はするのに、輪郭がつかめない。灯りだけが先に目に入って、音が遅れて追いつく。
ようやく線路の匂いがしてきた。鉄が冷えた匂い。石畳が細かくなって、踏む感触が変わる。
トラム通りは相変わらず混ぜ物だらけだった。
人間の客引きの声。獣毛の擦れる匂い。角持ちが肩をいからせて歩く足音。鰓持ちが水桶を引く、ぬれた縄の音。煤は空気に薄く混ざって、灯りが細かく滲む。
歩幅を少し詰めて歩いた。冷えを食うと足が鈍る。鈍ると、さらに音がずれていく。
湯屋の看板が見えたあたりで、ほっとした。
湯気が、路地の口から漏れている。暖かい空気が頬の鱗の下に入り込んで、固まっていた筋が少しだけ緩んだ。
(ここだな)
ハチスケの言い方は雑だったが、場所は分かりやすい。湯気の抜け道みたいな細い路地。洗濯物と電線の影。表の賑わいが一枚壁を挟んだみたいに遠ざかる。
路地へ足を踏み入れると、床の石が湿っていた。靴底が水を噛む音がする。
ぴち。
それだけが、やけに近い。
思わず、舌が出そうになって、奥歯で止めた。
(……出るな。癖だろうが)
空気は湯気と石鹸の匂いが混ざっている。工場の油と煤とは違う匂いだ。鼻の奥のざらつきが、少しだけほどける。
右手の指が、こめかみに行きかけて止まる。触れば気が紛れる。でも触ったら、たぶん余計に悪くする。
路地の奥に、小さな木の札がぶら下がっていた。
墨で書かれた文字は短い。
耳処 かすみ
風に揺れて、きぃ、と鳴る。鳴り方が分かるのに、方向が一拍遅れる。今日だけじゃない。今日からだ。
戸は、店というより作業場の入口みたいに小さかった。擦りガラスの向こうが白く曇って、中の気配はぼんやりしている。
一度だけ、深く息を吸った。
自分の呼吸の音が、右だけ少し重い。
(行くって決めたんだろ)
指の節で、こつ、と木を叩いた。
中で、椅子の脚が床を引く音がした。小さい。柔らかい。金属じゃない。
戸が開く。
湯気と、石鹸と、乾いたハーブの匂いが、外の冷えた空気を押し返してきた。
「はい。……ん?」
落ち着いた声がして顔を上げる。
変人の店だと聞いてたから、もっと年食ったのが出てくると思ってた。けど、出てきたのは思ったより若い女だった。髪はさっとまとめて、袖は肘まで上げてる。指先は油で光ってるでもなく、煤で黒いでもない。
目が一度、こめかみの窪みをさらっとなぞってから、こっちに戻る。近いけど、踏み込みすぎない距離だ。
「予約じゃないね。まあいい。入って」
言葉は短いのに、手つきみたいに迷いがない。
一歩、敷居を跨いだ。
外の煤臭さが、背中で扉に切られていく。
中の空気は、ぬるい。湿っている。耳の奥の輪っかだけが、相変わらず乾いて鳴っていた。




