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煤街と猫耳娘(3)

左耳のほうが、少しだけ不安だった。


右をここまでされてしまうと、

「同じことがもう一度来る」という予告編を見せられているようなものだ。


「じゃ、反対向きになって」


霞さんに言われて、私はゆっくり身体を回転させた。

今度は右の頬が枕につく。

さっき耳かきされていた右耳が枕に押しつけられて、左耳が空に放り出される。


台の向こう側に回った霞さんが、また毛布を整える気配がした。


「さっきと同じ。外から整えてから、中ね」


「……はい」


左耳は、右よりも少しだけ敏感だ。

自分で髪を洗うときも、左側を触るときのほうがくすぐったい。


耳の外側に、またブラシの毛先が触れた。


しゃり、しゃっ……


同じ道具のはずなのに、左耳で聞くと、音が少し違う。

耳の形も、ほんの少しだけ右とは違うのだろう。


「右より、こっちは毛の向きが素直だね」


「素直、なんですか」


「うん。仕事のとき、右をお客のほうに向けてるでしょ」


言われて、少し考える。

店の配置を思い出して、気づいた。


「……入口が右側にあるから、たぶんそうです」


「だから右だけ疲れてた。左はまだ余裕があったみたい」


ブラシが、耳の外側を沿うたびに、

「余裕」という言葉が、毛の間からじわじわ滲み出てくるような気がする。


入口の毛に、また耳かきの背が触れた。


しゃり……しゃり……


右よりもくすぐったい。

体の力を抜こうとすると、そのくすぐったさが余計に際立つ。


「ん……っ」


「はい、我慢しない。我慢すると、余計にくすぐったい」


「分かってるんですけど……っ」


「弱いほうから片づけておいて良かったね」


入り口の産毛ゾーンを何度かなぞられるうちに、

左側の肩も少し沈んでいく。


外側と入口が済むと、また耳介をそっと持ち上げられた。


「じゃ、中。左は右より、少しカーブが浅いね。

 でもやることは同じ」


「はい……」


耳の中に、木の先端が入る。


 こそ……こそり……


右と同じはずの音が、

微妙に違う位置で響いているのが分かる。

左目の奥のほうが、ほんの少しだけじん、とする。


「こっちは、さっきほど大きい塊はないけど……」


霞さんの指先が、耳の奥を探る感覚が伝わってくる。


「細かいのが、角の手前に溜まってる。

 こっちのほうが“最近の疲れ”って感じ」


「最近の、ですか」


「仕事に慣れて、気を抜けなくなってきた頃の耳」


言い当てられて、思わず目を開けかけた。

けれど、天井の木目がぶれて見えそうで、すぐに閉じ直す。


(そんなことまで、耳に出るんだ……)


 こそ……こそ……


小さな欠片を、少しずつそぎ落としていくような動き。

さっきの右耳の“大物”ほどの劇的な瞬間は来ない。

代わりに、じわじわと重さが抜けていく。


耳の奥の「ざらざらした膜」が、

少しずつ薄紙みたいに剥がれていく感じ。


やがて、棒が抜ける感触がした。


「左はこんなもの。

 じゃあ、こっちも綿でならすね」


綿棒が近づいてくる気配。

左耳はそれを、右耳よりも正面で受け止めてしまう。


 とろ……しゅ……


柔らかい音が、頭の中を一周する。

右のときよりも、眠気が早く襲ってきた。


「……これ、ずっとやってると、ダメになりそうですね」


「ダメになりたい人もいるけどね。

 そういう人は、ちゃんと追加料金取る」


「取るんですか」


「取るよ。私も仕事だから」


冗談半分、本気半分みたいな調子の声が、

綿棒の音の合間に落ちてくる。


ぐるり、と一周。

それからもう一周。

最後に、耳の奥のほうを一度だけ、少し強めになぞられた。


とろ……しゅ……


「……っ」


背筋に、細い線でぞくりとしたものが走った。

でも、すぐに抜けていく。


「よし」


綿棒が抜けた。

代わりに、軽く空気が入ってくる。


「さっきと同じ。風、通すよ」


「あの……心の準備だけさせてください」


「もう終わってから言ったほうが早いよ」


言い終わるか終わらないかのうちに、

左耳の中に、さっきと同じ、冷たいものが差し込んできた。


 ふぅ──……


耳の奥に、細い風が通る。

左耳の筋肉が、やっぱり勝手にぎゅっと縮んだ。


「っ……!」


今度は、どうにか声だけは飲み込んだ。

その代わり、毛布の下で尻尾がぶわっと膨らんでいるのが、自分でも分かる。


「はい、おつかれさま。

 今度は声、我慢できたね」


「尻尾は裏切りましたけど……」


「尻尾は正直だから、しょうがない」


毛布の下で、尻尾がまだ落ち着かずに、ばさばさと動いている。

けれど、それも少しずつ静まっていった。



「起き上がっていいよ」


言われて、ゆっくり身体を起こした。

台から足を下ろすとき、一瞬ふわりとした。


でも、足元はしっかりしている。

立ち上がった瞬間にくらっとするようなことはなかった。


それよりも先に、耳が世界を捉え直していた。


部屋の中の音が、全部、形を持って聞こえる。


棚の上の瓶が、かすかに触れ合う音。

壁の向こうで、水がどこかの管を流れている音。

外の通りを、誰かが駆け足で通り過ぎる靴音。


それらが全部、「どこから」「どのくらいの距離で」鳴っているのか、

耳が勝手に位置を教えてくる。


「どう?」


霞さんが、作業台のほうからこちらを見ていた。

腕を組んで、少し首をかしげている。


「……すごいです。

 さっきまで、全部一緒くたになってたのに」


口から出た声が、自分の耳に妙にはっきり届いた。

店の中の音に埋もれない、自分の声。


「外の音は?」


擦りガラスの向こうから、かすかにトラムのベルが鳴った。


さっきまで布越しだったその音が、

今はちゃんと、外の空気の向こうで鳴っている。


遠すぎず、近すぎず。

“ベルが鳴っている場所”が、ちゃんと頭の中で地図に載る。


「……遠くで鳴ってます。

 でも、前みたいにざらざらしてなくて……

 その、うるさいんですけど、嫌なうるささじゃないです」


「良い耳だね」


霞さんは、ふっと目を細めた。


「猫の耳は、もともとそういう聞こえ方をするようにできてる。

 ここ、煤がすごいでしょ。耳の中にも入るんだよ」


「……街のせいなんですね」


「半分は。

 もう半分は、自分でどうにかしようとして、綿棒突っ込んだミナさんのせい」


「……図星すぎて、何も言えないです」


苦笑いするしかない。


「これからどうしたらいいですか。

 その……自分でやらないほうがいいのは、分かったんですけど」


「外側の毛と、耳のまわりは自分でいい。

 ぬるま湯で軽く流して、タオルで優しく押さえるくらい。

 穴の中は、綿棒も耳かきも、もう使わないこと」


「分かりました」


「この街で働いてるなら、どのみち耳は削られっぱなしだよ」


「削られっぱなし、ですか」


「煤と、機械の音と、湯気と、油。

 昼も夜も、それがずっと耳に当たってる。

 何もしなければ、少しずつ、中のほうから固まっていく」


「……あんまり、考えたくない話ですね」


「だから、本当は“何かあったとき”じゃなくて、

 “何も起きてないうち”に一回見に来るのがいちばん楽なんだけどね。

 ま、自分の稼ぎと相談して決めな。

 給料日三回に一回くらい思い出せれば、耳を壊す前にだいたい間に合う」


「そんなに、ですか」


「猫の耳は真面目だからね。

 放っておくと、真面目に無理して真面目に壊れる」


「それは……返す言葉がないです」


思わず耳を押さえそうになって、途中でやめた。

もうむやみに触るのが、少し怖い。


「今日は初めてだから、少し深めに掃除してある。

 しばらくは、耳が前よりよく働くはず。

 その分、“あ、疲れてきたな”って自分で気づきやすくもなる」


「それって、また痛くなるってことですか」


「痛くなる前にブレーキ踏めるってこと。

 そこで無理しなければ、壊れない」


私は小さくうなずいた。耳の奥にあった不安が、少しだけ形を失っていく。


「お代は、これくらい。

 港の人たちには、もう少し高くしてもいいんだけどね」


「どうしてですか?」


「だいたい自分で無茶したあとに来るから」


「ああ……」


心当たりしかなかったので、笑うしかなかった。


支払いを済ませて、戸口まで歩いていく。

足音が、自分で思っていたよりも軽い。


「ミナさん」


戸に手をかけたところで、背中から呼ばれた。


「はい?」


「仕事で、耳がまた分からなくなったら。

 “聞こえすぎてるのか、本当に聞こえなくなってるのか”分からなくなったとき」


霞さんは、作業台にもたれかかりながら言った。


「そういうときは、自分で決めないで、一回ここに来な。

 耳って、一回壊すと、戻らないこともあるから」


その言い方は、さっきまでより少しだけ固かった。

どこかで何度も繰り返した注意のようでもあった。


「……はい。

 壊れるのは、さすがに困ります」


「困るよ。猫の耳は、猫の仕事道具なんだから」


私の耳が、ぴくりと動いた。


今度は、それを恥ずかしいと思わなかった。



外へ出ると、トラム通りからの空気が一気になだれ込んできた。

煤と油の匂い、魚の匂い、屋台の肉の匂い。


それら全部が、一度に飛び込んでくるわけじゃなく、

順番に鼻と耳を通り抜けていく。


遠くでベルが鳴る。

近くで子どもが笑う。

頭の上を、鳥人の羽ばたきが通り過ぎる。


それらが、ただの「ざわざわ」じゃなくて、

一つひとつ、違う名前を持って耳に届く。


(……うるさいけど)


帽子のつばを指で押さえながら、私は小さく息を吐いた。


(前より、ちゃんと“街の音”って感じがする)


右の耳も、左の耳も、軽い。

付け根の筋肉が、必要なときだけ動いて、いらないときはおとなしくしているのが自分でも分かる。


トラム通りのほうへ歩き出す。

店に顔を出す前に、少しだけ寄り道して、水を飲んでから行こう。


世界のざわめきの中に、自分の足音が混ざっている。

煤街の石畳を踏む、その一歩一歩の音が、はっきりとした輪郭を持って耳に返ってきた。


「……よし」


誰に聞かせるでもなく、小さくそうつぶやく。

語尾に、うっかり何かがつきかけて、今回はちゃんと飲み込んだ。


耳はまだ、ちゃんと動いている。

だったら、明日もきっと、給仕くらいはやっていける。


そう思えるくらいには、世界の音が、まともに戻ってきていた。


またこの耳がもたついたら――あの路地裏を、もう一度ノックすればいい。

そう思えただけで、煤街のうるささが、少しだけ味方に見えた。

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素晴らしい描写でこっちも心地よい気分になれました!
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