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煤街と猫耳娘(2)

戸が開く音は、思ったよりも静かだった。


「はーい。──ああ、新顔だね」


低めの、落ち着いた声だった。

顔を出したのは、煤街の人にしては珍しく、

あまりガサついていない女の人だった。


髪は肩のあたりでざっくりとまとめて、後ろでひとつに結んでいる。

色は黒なのか茶なのか、乾いた髪が裸電球の灯りを吸って曖昧に見えた。

作業着みたいな上着の袖をまくっていて、

指先に石鹸の匂いがわずかに残っていた。


「……あの、耳処、かすみさん、ですか?」


「そう。中にどうぞ。立ち話で終わる用事じゃないでしょ」


そう言って、女の人は戸を大きく開けてくれた。


中は、外から見たよりも広かった。

といっても、奥行きがあるだけで、横はすぐ壁だ。

正面に小さな受付兼作業台、その奥に仕切りの布。

壁際には、木の棚に畳んだタオルと、小さな瓶が並んでいる。


空気は少しだけ暖かくて、湿っていて、

湯気と石鹸と乾いたハーブの匂いが混ざっていた。

鼻の奥に、その匂いが静かに張りついてくる。


「こういう店、初めて?」


「……はい」


「じゃ、手短に」


女の人は作業台の引き出しから小さな紙片と鉛筆を出して、

さらさらと何かを書きながらこちらを見た。


「名前は?」


「斑野ミナ、です」


「仕事は?」


「トラム通り沿いの食堂で、給仕を。……三か月くらい前から」


「いつ頃から耳がおかしいと思った?」


「はっきり自覚したのは、ここ一週間くらいで……。

でもたぶん、前から少しずつ、ざわざわが潰れてきていた気がします」


鉛筆の先が止まって、霞さんの視線だけが耳に落ちた。


「自分で耳の中、触った?」


その質問だけ、少し声の調子が変わった気がした。


私は反射的に耳を押さえそうになって、慌てて下ろす。


「来たばっかりの頃に、一度だけ……その……綿棒を。

 変な当たり方をして、すごい音がして……それから怖くて、奥は触ってません」


「ふうん」


女の人は短く息を吐いて、紙片に何かを書き足した。


「私はかすみ。ここをやってる。

 人も獣も、鱗も羽も、とりあえず耳がついてれば相手にしてる」


「……よろしくお願いします」


頭を下げると、帽子の穴から出ている耳が、つい一緒にぺこりと動いた。

霞さんは、その耳をじっと見て、それから目線を私の顔に戻した。


「猫だね。顔はほとんど人寄りだけど」


「はい。斑猫の……」


「斑野、だもんね」


口元だけで、少し笑われた。


「仕事中、その耳、ずっと出しっぱなし?」


「帽子の穴から、はい。……隠すと、呼ばれたの分からないので」


「そりゃそうだ」


 霞さんは、鉛筆を置いて立ち上がった。


「外側から、ちょっと触るよ。痛かったらすぐ言って」


「はい」


近づいてきた霞さんの手が、帽子のつばにそっと触れる。

軽く持ち上げられて、耳が空気にさらされた。


指先が、耳の付け根を挟むように押さえる。


ぴくっ。


勝手に、耳が震えた。

音を探そうとして動いたところを、柔らかく止められる。


「……っ」


「固いね。付け根の筋肉が、ずっと力入りっぱなしの感じ」


霞さんは、指で付け根を少しだけ揉むように動かした。

それだけで、視界の端がわずかにふわっと緩んだ。


「一日中、客の声追いかけてるでしょ。トラムのベルとかも」


「……はい。聞き逃すと、怒られるので」


「偉いけど、耳からしたら過労だね」


今度は耳の外側を、爪を立てないように指の腹でなぞられた。

毛の向きに沿って、根元から先へ。


「外側も、煤と油でだいぶ固まってる。音、集めづらかったはずだよ」


「そういうもの、なんですか」


「そういうもの」


短く言ってから、霞さんは一歩下がった。


「奥の台に横になって。右耳からやるから、左を下にして寝て。靴は脱がなくていい」


振り返ると、仕切りの布の向こうに、細長い台が一つあった。

木の枠に薄いマット、その頭側に小さな枕。

想像していた「病院のベッド」よりも、ずっと簡素で、でも清潔に見える。


 私は言われたとおり、台に腰を下ろし、身体を横にした。

 左の頬が枕につく。右耳が、ぽん、と空中に投げ出されたみたいな位置になる。


「寒くない?」


「あ、大丈夫です」


「念のために」


そう言って、霞さんは薄い毛布を私の腰から足元にかけてくれた。

重さはほとんどないのに、それだけで少し落ち着く。


視界には、天井の木目と、吊るされたハーブの束の影だけが見えた。

耳のすぐそばで、道具が小さく触れ合う音がする。

金属ではなく、木と布とガラスがぶつかる、柔らかい音。


「じゃあ、右の外側から始めるよ。

 さっきも言ったけど、痛かったり怖かったりしたら、すぐ言うこと」


「……はい」


「それと」


間を置いて、霞さんの声が少しだけ近づいた。


「変な声が出ても、我慢しなくていいからね。」


「べ、別にそんな……出さないと思いますけど」


「みんなそう言うんだよね」


軽く笑う気配がしてから、耳のすぐ近くで、ブラシの毛先がふわりと動いた。


右耳の外側に、柔らかい何かがそっと触れる。


しゃっ……しゃりっ……


小さな音が、頭の中で思っていたよりずっと大きく弾けた。

耳の表面の毛が、根元から一本ずつほぐされていく感覚。


耳の付け根の筋肉が、また勝手にぴくりと動いた。


「動かなくていいよ。動くのは、私のほうだから」


そう言われて、私は枕に沈んだまま、息だけをそっと吐いた。



ブラシが、耳の外側を一周した。


毛の根元にこびりついていた何かが、少しずつ剥がれていく。

細かい粉が外へ掃き出されていくのが、自分の頭の中の地面みたいに感じられた。


 しゃり、しゃっ……しゃり……


ただそれだけの音なのに、胸のあたりがじんわりほどけていく。


「……くすぐったい、けど、変に気持ちいいですね、これ」


「それは良いサイン。外側の毛が固まってると、音がちゃんと集まらないからね。

 猫の耳は、ここで音を拾って、中に運んでる」


ブラシが一度離れて、耳の縁に指先だけが残る。

付け根を軽く押さえられると、さっきまで勝手に動いていた筋肉が、おとなしく止まる。


「外側はだいたい取れた。次、中の入口の毛のところ、触るよ」


「……お願いします」


耳の少し上のあたりで、木が軽く当たる音がした。

細い棒を指で転がすような、小さなこつこつという音。


それが近づいてきて、耳の縁に、ひやりとした木の感触が触れた。


耳かきの先じゃなくて、“背”のほうが、入口の産毛を撫でる。


 しゃり……しゃり……


さっきのブラシより、音が細くて鋭い。

でも痛いわけじゃない。

耳の内側の皮膚に、とても薄い紙をすべらせているような感覚が伝わってくる。


「ん……」


喉の奥が、勝手に鳴りそうになって、慌てて唇を噛んだ。

ゴロ、の手前で止める。


「入口の毛も、煤をだいぶ抱え込んでる。

 ここで詰まると、音が中に入る前に、全部ざらざらになるんだ」


「それで……ざわざわが、ぐちゃっとしてたんですかね」


「たぶんね。外の声と中の音が、ここで潰れてた」


耳かきの背が、入口の一番敏感な場所を横切ったとき、

耳全体がびくっと震えた。


「っ……!」


「そこ、弱いでしょ」


「よ、弱くは……ない、です」


「そうやって強がる子ほど、反応が素直なんだよ」


声は淡々としているのに、少しだけおかしそうだった。


何度か入口の毛を撫でられるうちに、

耳の付け根から首にかけての力が、じわじわ抜けていく。

台に預けている肩が、少し沈んだ。


「じゃあ、いよいよ中。

 さっきも言ったけど、猫の耳の穴はまっすぐじゃないからね」


耳の上のほうを、指で軽く持ち上げられる。

耳介ごと、少し前に倒される感覚。


「外から見ると穴がまっすぐ開いてるように見えるけど、

 実際は一回下に落ちて、そこから頭の中のほうに曲がってる。

 L字の曲がり角があると思って」


耳の穴が途中で曲がっていることくらいは、さすがに知っていた。

けれど、人間よりカーブがきついなんて、考えたこともなかった。


「ああ……それで、前に綿棒が変な当たり方したんですかね」


「そう。真っすぐ突っ込むと、その曲がり角の壁を刺す。

 猫の耳は、人よりそのカーブがきついから、余計にね」


言われてみれば、あのキーンという音は、

どこか“角を無理やりつついた”ようなひしゃげ方をしていた。


「今は、こっちで角度を合わせてるから。

 ミナさんは、動かないことだけ考えてて」


「……はい」


耳の中に、細い棒の先が触れた。

今度は“先”のほうだ。


入口のすぐ内側、まだ浅いところを、ゆっくりなぞっていく。


こそ……こそり……


乾いた何かが、薄く削られていく音。

それが、そのまま鼓膜の近くで鳴っているみたいに聞こえる。


耳の奥の重たい感じが、細かく揺さぶられた。


(中、こんな音してたんだ……)


自分の耳なのに、知らない場所を触られているような、不思議な感じがする。

怖さと安心が、半分ずつくらい。


「……痛くない?」


「だ、大丈夫です。変な感じはしますけど……」


「変な感じでいい。痛いのはダメ」


霞さんの声の位置が、すこし近くなる。

耳の少し上から降ってきて、胸のあたりで落ち着く。


耳かきの先が、少しだけ深く入った。


今度は、さっきよりざらざらした感触が伝わってくる。

こびりついた何かの角を、そっと撫でているみたいな、慎重な動き。


こそ……こそ……こそ……


耳の内側の壁が、棒の動きに合わせてふるふる震える。

その振動が、喉や胸のあたりにまでうっすら届いてくる。


「……そこに、溜まってます?」


「うん。曲がり角の、少し手前。

 煤と耳垢と、たぶん蒸気の水分で固まったやつ」


「うわ……なんか、聞かなきゃよかったかも」


「仕事柄しょうがない。匂いはもう飛んでるから安心しな」


冗談とも本気ともつかない声で言って、

霞さんは、何度か同じところを撫でてから、方向を少し変えた。


耳の奥で、何かの端っこが崩れたような感覚があった。


かさ……かさ……


それから、ほんの一瞬の無音。


続いて、


こそっ──ぽそっ。


耳の奥に、空気の流れが一本通った。


「……っ!」


目の前の天井の木目が、一瞬だけ遠ざかったように感じた。

世界を包んでいた膜が薄くなって、向こう側の音が、少し近くなった。


「今の、ニャんか……」


思わず口から出かかった言葉を、途中で噛み殺す。


「ひとつ、大物が動いたね」


霞さんは、淡々とした声で言って、耳からそっと耳かきを抜いた。

何かを布に落とすような、小さな音がする。


「見る?」


「……見ないでおきます」


「正解」


少し笑ってから、また耳かきが戻ってきた。

さっきよりも、動きが軽い。


さっき大きな塊が抜けたせいか、耳の奥の重さが半分くらいになっている。

まだこもってはいるけれど、“抜ける場所ができた”ような感じ。


「さっきのところの縁を、少し整えるね。

 角が残ってると、またそこに埃がひっかかるから」


「そんなところまで、分かるんですか」


「触ればだいたい。猫の耳は、触るとなんでもしゃべる」


「……耳に全部言われてる気がしてきました」


「言われてるよ」


からかうような調子なのに、動きは終始ゆっくりで慎重だった。


何度か同じ場所をならすように撫でられて、

ざらざらが、かすかなすべすべに変わっていく。


こそ……こそり……


やがて、棒が耳の外に抜けていく感触がした。


「じゃあ、仕上げ。綿のほうに替えるよ」


近くで、綿棒が瓶から抜かれる音がした。

紙軸が擦れる、かさりという音。


それがそのまま、耳の入口へ近づいてくる。


とろ……しゅ……


さっきの木の乾いた音とは違って、

綿の水気を含んだような柔らかい摩擦音が、耳の内壁をなぞっていく。


耳の中に、湯気がゆっくり流れ込んでいるみたいな感覚。


「……っ、これ……」


「嫌?」


「いえ……なんか……静かすぎて、変な感じです」


「猫の耳は、普段うるさすぎるからね。

 たまには、こういう“音の掃除”もしないと」


ぐるり、と内壁を一周するたびに、

こもっていた音の膜が、一枚ずつ剥がれていくような気がした。


トラムのベルも、客の声も、今は聞こえない。

聞こえているのは、自分の心臓の音と、

綿が皮膚を撫でる音だけ。


 とろ……しゅ……とろ……


いつの間にか、瞼が重くなっていた。


「眠くなってきました……」


「寝ていいよ。急に動かなければ大丈夫」


「寝ませんよ……たぶん……」


はっきりしない返事をしているうちに、

綿棒の音が少しずつ遠ざかって、やがて耳から抜けた。


「……よし」


霞さんの声が、ほんの少しだけ満足そうだった。


「最後に、耳の中、風を通すよ」


「風?」


「ちょっと冷たいの当たるよ」


何のことだろう、と思ったのは一瞬だけだった。

私は半分閉じていた目を、そのまま閉じた。


次の瞬間、耳の奥の、さっきまで綿棒が撫でていた場所に、

ふっと冷たいものが触れた。


 ふぅ──……


息だ、と気づく前に、耳の筋肉が反射的にぎゅっとすぼまった。

耳介の付け根から背中にかけて、ぞわっと毛が逆立つ。


「にゃっ──!?」


変な声が、勝手に出た。


尻尾まで、毛布の下でばさっと暴れる。


「ご、ごめんなさい、今のは違います今のは……」


「はいはい、一人前の猫の反応だね」


霞さんは、全く驚いていない声で言った。


「猫は風が苦手だからね。

 外でやったら逃げられるけど、ここなら大丈夫」


「び、びっくりしただけです……」


「びっくりするように吹いてるからね」


あっさり言われて、返す言葉が見つからなかった。


右耳の中は、さっきまでの重さが嘘みたいに軽かった。

台に預けている側の左耳との、それこそ耳一枚分くらいの違いが分かる。


「どう?」


「……静か、になりました。

 でも、何も聞こえないんじゃなくて……落ち着いた、っていうか……」


「それでいいんだよ。

 騒音の中で暮らしてると、“うるさいのが普通”になっちゃうからね。

 猫の耳には、たまにこういう休憩が要る」


霞さんが、耳の外側を軽く撫でた。

右耳が、無意識にその指に寄っていきそうになるのを、ぎりぎりで堪える。


「右はこれでおしまい。

 この感じを、左と比べてみて。差がわかると、だいぶ安心するから」


私は、枕から顔を少しだけ浮かせて、喉の奥でそっと息を吐いた。


右側の世界は、音が薄く澄んでいる。

左側はまだ、綿越しに聞いているみたいに重い。


(……こんなに違ったんだ)


自分の耳で聞いているはずの世界が、

左右で別物みたいに感じられた。


「左も、このあとやるからね。

 片方だけだと、帰り道にふらつく人もいるから」


「そんなに変わるんですか」


「猫の耳は、真面目にやると真面目に変わる」


霞さんのその言い方が、なんだか少しおかしくて、

力の抜けた笑いが、喉の奥からひとつだけ漏れた。

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