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煤街と猫耳娘(1)

煤街に来て、まだ三か月くらいだと思う。

朝も昼も夜も、工場の汽笛と路面電車のベルと、

人間と獣人と鱗族の人たちの声で、

毎日同じような音ばかり聞いているから、日にちの感覚がすぐ曖昧になる。


私は斑野ミナ。

顔つきはほとんど人と変わらない——はずだ。

丸い耳の代わりに、柔らかい三角の猫耳が生えていて、

瞳だけ少し、猫みたいに金色で細くなる。

腰のあたりから、仕事中はエプロンの布の下に隠した尻尾が一本。

この街には、顔まで完全に猫の人や、逆に耳だけ小さく残った獣人もいるから、

私はその中間くらいだと思う。


今はトラム通り沿いの飲食店で、給仕をしている。


「ミナちゃん、水もう一杯ね」「こっちはビール三つ追加ー!」


客席から飛んでくる声は、ほとんど反射で拾える。

耳が勝手に動いて、音のするほうへ向いてしまうのだ。


右の耳が、ガタンと鳴った扉のほうへ。

左の耳が、グラスを持ち上げる小さな音のほうへ。

付け根の筋肉が、きゅっ、きゅっと収縮するのが自分でも分かる。


盆にグラスを三つ載せて、テーブルの間を縫う。

人の笑い声、角の生えた客がテーブルを叩く音、

鱗族の客が尻尾で椅子をきしませる音。

厨房からは油のはねる音、その奥では、

うさぎ耳の見習いが慌てて鍋の蓋を落としている。

その全部が、耳にまとわりついてくる。


「はーい、ただいまお持ちします」


この店は、客も従業員も種族がごちゃ混ぜだ。

人間の店長に、鳥人の配膳係に、夜だけ入る鰓持ちの皿洗い。

そんな中で私が採られたのは、「耳がいいから」という理由も大きかった。


煤街に来たばかりの頃は、それがちょっと誇らしかった。


——猫の耳があるから、私はここでやっていけるんだ、って。


でも、最近は少し違う。


音が多すぎる。

昼のピークタイムになると、店の中がひとつの大きなざわめきになって、

誰の言葉も輪郭がぼやけてしまう。


「ミナ、水こぼれてるよ、足元気をつけて」


「あ、すみません。すぐ拭きます」


店長の声に振り向くのが、ほんの一瞬遅れた。


前は、もっと早く振り向けていた。

扉のベルが鳴る前に、足音で常連を当ててみせたことだってある。

今は、ベルが鳴っても、一瞬どこから鳴ったのか分からない時がある。


耳の奥が、重たい。


じんわりと熱を持ったような、

それでいて、湿った綿を奥に押し込まれたみたいに、音だけが鈍る。


トラム通りを走る路面電車のベルが鳴る。

店の正面のガラス越しに、その音がすっと入ってくるはずなのに、

今日は、厚い布を隔てた向こう側の出来事みたいに聞こえた。


(……なんか、おかしいな)


盆を下げながら、私はそっと耳の付け根に触れてみる。

指先で押すと、ちゃんと痛い。筋肉も動く。

外側はいつも通りなのに、内側だけがじわじわとこもっている。


給仕が一段落した頃、厨房の鍋の音がやけに刺さって聞こえて、

思わず顔をしかめた。


「どうした、ミナ。頭でも痛いか?」


カウンター越しに、いつもの常連の男の人がこちらを覗き込んでいた。

毎日のように来る、港の荷下ろしをやっている人だ。

作業着の袖には綱の繊維がこびりついていて、

手のひらはロープ焼けで固くなっている。

顔は煤と日焼けで黒いのに、笑うと目尻だけがやけに優しい。


「いえ、大丈夫です。ただ、ちょっと……耳が」


「耳?」


「最近、ざわざわがぐちゃっとしてきて……。

前はもうちょっと、ちゃんと聞き分けられた気がするんですけど」


言った瞬間、胃がひゅっと縮んだ。――耳が売りなのに。

最近聞こえが悪いなんて、仕事できてませんって自分で言っているようなものだ。


男の人は、ふうん、と顎に手を当てて私の頭をじろじろ見た。

猫耳をじっと見られるのは、あまり好きじゃない。

でも視線を避けると余計に気づかれそうで、そのまま我慢する。


「煤街に来てどのくらいだ?」


「三か月くらい、だと思います」


「耳、掃除してるか?」


「え?」


掃除、という単語に、一瞬だけ背中が冷たくなる。

この街に来てすぐ、自分で綿棒を突っ込んで、

変な角度で奥に当たって、キーン、と世界がひしゃげたあの瞬間が蘇った。


「い、いや、その……自分でちょっとやったら、前に変になっちゃって」


「自分で、か。猫の耳でそれは無茶だな」


男の人は、くつくつと笑ってから、カウンターに肘をついた。


「この街にはな、耳を診る職人がいるんだよ。

 医者じゃ手に負えない耳を、ちゃんと掃除してくれるやつがな」


「耳の……職人?」


「そうだ。『耳処 かすみ』っていう、路地裏の小さい店だ。

 人間も獣も鱗も羽も、全部相手にしてる。猫耳もな」


猫耳、という言葉に、ぴくりと耳が動いてしまう。


「あっ……」


「今ぴくっとしたな」


「してないです」


反射で否定した声が、少し上ずった。

そのせいで、語尾に変な音がくっつきそうになって、慌てて飲み込む。


(ニャ、は、出さない)


仕事中は、ちゃんとした言葉で話すって決めている。

田舎から出てきた猫だからって、舐められたくない。


「耳が重いまま働いてると、そのうち本当に壊れるぞ」

男の人は、冗談みたいな口調で言ってから、少しだけ真面目な目をした。

「行ってみな。看板は小さいが、腕は確かだ」


私は、無意識に耳を撫でてから、こくりと頷いた。


世界の音が、これ以上ぼやけていくのは、さすがに怖い。


「トラム通りを市場のほうに抜けてな、屋台の角を二つ曲がった先の細い路地だ。

 洗濯物と電線の下に、小さな板がぶら下がってる。『耳処 かすみ』ってな」


休みをもらえたのは、それから二日後だった。

いつもなら洗濯をして、安い惣菜を買って、

部屋でだらだら過ごしてしまうけれど、

その日は朝から耳の重さがひどかった。


枕に片耳をつけて寝ていると、どうにも息苦しい。

耳の奥に、空気の逃げ場がないみたいだ。


(……行くなら、今日だな)


そう決めて、昼前に部屋を出た。


トラム通りは、いつも通りうるさい。


線路の上を軋む車輪の音。

人間の客引きが張り上げる声。

喉を鳴らす低い笑い声。硬い尾が石畳を擦って、ジャリ、と乾く。

すれ違いざま、硬い鱗の鈍い光が視界をよぎり、

濡れた獣毛の匂いが鼻をかすめた。

頭上では、背中に小さな翼を生やした鳥人が、看板すれすれを飛んでいく。


煤と油の匂いの中に、パン屋の甘い匂いや屋台の香辛料の匂いが混ざっている。

この街では、それが普通の昼の匂いだ。


私は仕事着のエプロンじゃない、少しよそ行きの服に着替えてきた。

とはいえ、田舎から持ってきたワンピースに、

店長から譲ってもらったカーディガンを羽織っているだけだ。

耳だけは、いつものように帽子の穴から出している。


帽子のつばを指で押さえながら、教えられた方角へ歩いていく。


みんなそれぞれの歩き方で通りを埋めている。

煤街では、そのごちゃごちゃした感じごと「いつもの景色」だ。


その「いつもの音」が、今日は少し、遠くて重い。


市場のほうへ抜ける角を曲がると、急に匂いの種類が増えた。

魚、干した肉、香草、焼けた砂糖。

それらをかき消すように、どこかの屋台から油煙が立ちのぼってくる。


屋台の合間を縫いながら、教えられたとおりに二つ角を曲がる。


一つ目の角では、耳の長いうさぎ獣人が、山になった野菜を並べていた。

二つ目の角には、翼を畳んだ鳥人が古本を売っている。


その先に、たしかに「細い路地」が口を開けていた。


表通りより暗くて、ひんやりしている。

頭上には洗濯物が渡されていて、シャツやズボンの間から、

ところどころ空が細く切り取られている。

電線が何本も縒り合わさって、蜘蛛の巣みたいに伸びていた。


足を踏み入れると、靴の底が石畳の水たまりを踏んだ。

ぴちゃん、と小さな音がする。


その音が、変によく聞こえた。

他の音が全部、少し遠くへ追いやられたように思う。


路地の奥へ数歩進むと、言われたとおりのものが目に入った。


古そうな木の板に、墨で「耳処 かすみ」と書かれた看板。

壁から吊るされたそれは、風に揺れて、かすかにきぃ、と鳴っている。


戸は、表通りの店より一回り小さい。

擦りガラスの向こうがぼんやり白く曇っていて、

中の様子ははっきりとは見えない。

けれど、隙間から湯気のような暖かい空気と、

ほのかな石鹸とハーブの匂いが漏れてきていた。


(……ここ、か)


胸のあたりで、どくん、と自分の鼓動が鳴った。

その音すら、耳の奥の重さにひっかかっている気がする。


ノックしようとして、手が止まる。


耳の中を、人に触らせる。

それを想像した瞬間、背中の毛が少し逆立つような感覚が走った。


あの綿棒を突っ込んで失敗したときの、

世界がきしんでひしゃげたあの音が、頭の奥でよみがえる。


(……やっぱ、やめようかな)


踵を返しかけて、同時に、路地の向こうからトラム通りのベルが聞こえた。

けれどその音は、やっぱり厚い布の向こうから聞こえるみたいに、鈍く、遠い。


私は立ち止まって、帽子の下の耳にそっと触れた。


——このまま、何もせずにいたら。

そのうち、このベルの音も、本当に聞こえなくなってしまうのかもしれない。


「……やだ」


かすかに声が漏れた。

自分の声なのに、少し遅れて耳に届く。


「それは……やだニャ……」


語尾に、余計な音がくっついたのに気づいて、慌てて口をつぐむ。

誰も聞いていないのに、耳だけが熱くなった。


深呼吸をひとつして、手を握り直す。

木の戸板に、こつん、と控えめなノックをした。


中で、椅子の足が床を引きずるような音がした。

耳が、勝手にそっちを向いた。

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