第098話 市井で起きている異変
翌朝、エミルは障子越しの眩しい日差しで目を覚ました。
——畳の匂いだ。
い草の青い香りが鼻を突く。瞼を開けると、木目の天井と和紙の障子。見慣れない光景のはずなのに、妙に懐かしい。
——ああ、そうか。自室を思い出すんだ。
母と暮らしていたアパートの自室も和室だった。畳の感触は日本を思い出させるが、同時にあの薄暗く停滞していた日々の苦味も連れてくる。
——でも、今は違う。
エミルは拳を握り、布団から身を起こした。
まだ元の世界に帰る手がかりは掴めていない。それでも、今は確実に前に進んでいる。
——必ず帰るから。そしたらあの男をこの手で……。
だからもう少し待っててくれよ、母さん。
胸の中でそう誓った、その時だった。
ドンドンドンッ!!
勢いよく扉を叩く音がした。
「おい、エミル! 起きろ!」
バルディアの焦った声。
ただならぬ気配に、エミルは跳ね起きた。
戸を開けると、そこにはバルディアだけでなく、青ざめた顔のサラも立っていた。
「……何かあったのか?」
「エミル君、落ち着いて聞いてね。朝起きたらアヤメちゃんがいなくて……、代わりにこれが」
「……は?」
サラが一枚の紙を差し出した。
丁寧だが、どこか急いで書いたような筆跡が並んでいる。
『皆様へ
黙って出ていく非礼をお許しください。
父の容態が急変したと知らせがありました。急ぎ城へ向かわなければなりません。
今の城内は神経質になっており、部外者である皆様をいきなり連れて行けば、余計な混乱を招きかねません。
正式にお招きする準備が整い次第、必ずお迎えに上がります。どうかこの宿でお待ちください。
アヤメ・カルフール』
「……なんだよ、これ」
手紙を握る指に、無意識に力が入る。
紙がクシャリと歪んだ。
「宿の主人に聞いたけど、夜明け前に一人で出て行ったそうよ。当面の滞在費も、十分すぎるほど預けられていたって」
「エミル、どうするよ? 手紙の通り、ここで待つか?」
バルディアが苛立ちを隠さずに問う。
——昨日、様子がおかしかったのはこれだったのか。
夕食の時、あいつはずっと無理して笑っていた。
気づいていた。どこかおかしいと、薄々感じていた。
なのに、「大丈夫か」の一言で済ませて、なんで踏み込まなかった。
エミルの胸を、後悔が締め付ける。
「おい、聞いてんのかエミル! 追うのかって聞いてんだよ!」
「ああ、すまん。そうだな。ひとまず追うのが……」
「待って。追わないのも一つの手かもしれないわ」
サラが静かに、しかしはっきりと言った。
「ああ? 何言ってんだよ!」
「アヤメちゃんにはアヤメちゃんの考えや事情があるのよ。あの子は、あたしたちが土足で踏み込むことを望んでいないわ」
サラは諭すように続けた。
「城での立場、家族との関係、この国特有の事情……あたしたちにはわからないことが多すぎる。鎖国を続けてきた国よ。外部の人間がいきなり城に入り込めば、どんな騒ぎになるかわからない。あの子の立場を悪くする可能性だってある」
「それは……そうかもしんねえけどよ……」
バルディアが言葉を詰まらせる。
「あの子を追うなら、覚悟を決めなさい。中途半端に手を出して、余計に傷つけるくらいなら、待つ方がいい時もあるの」
サラの言葉には、重みがあった。
——一理あるのかもしれない。
線を引くべきところは、引くべきなのか。
だが……。
「いや、それでも追いたい。ここまで来て指くわえて待ってろだなんてできない。アヤメを一人にしておけない」
「エミル君……」
「ああ、アタシも同意見だぜ! 水臭ぇ真似しやがってよ! すぐに追いついて、ガツンと言ってやらねえと気が済まねぇ!」
「ふふ……そうね。あなたたちなら、そう言うと思っていたわ。……すぐに追いましょう」
三人の意志は固まった。
エミルたちは準備を手早く済ませると、宿を飛び出した。
「そういえば、あなたの『魔力探知』でアヤメちゃんは追えないの?」
「おれの力じゃ特定の個人を追うなんて難しいんだ。人も多いし、それになんだか変な魔力まで感じる」
「変な魔力……?」
この街の周辺から漂う、微かな魔力の淀み。
これが余計に力の精度を鈍らせていた。
嫌な予感がする、その時だった。
ズドォォォォン!!
近くの民家から、爆発音のような轟音が響いた。
「キャアアアアアッ!」
「魔物だ! 魔物が出たぞおおおッ!」
悲鳴が上がり、人々が逃げ惑う。
エミルの視線の先、通りの向こうで、それは起きていた。
「うわあああ! 助けてくれぇ!」
「ひっ、なんだありゃあ!」
崩れた家屋の瓦礫を踏み越え、異形の怪物が姿を現す。
グルルルル……ゥ……。
身長は二メートルほど。全身が青黒い岩のような皮膚に覆われ、右肩から鋭利な結晶が突き出している。二足歩行のその姿は、オーガとも違う、見たことのない魔物だった。
魔物は苦悶のような唸り声を上げ、近くの男性を殴り飛ばす。
「こんな街中に魔物が!?」
「一体、どこから入ってきたの……!」
シオン国にダンジョンはない。外から侵入したにしては、あまりに唐突すぎる。
「おい、あそこ!」
バルディアが指差す先。
魔物の足元に、一人の女性がへたり込んでいた。腰が抜けたのか、震えながら魔物を見上げている。
魔物が、ゆっくりと太い腕を振り上げた。
一刻も早くアヤメを追わなければならない。
だが、この異常事態を見捨てて通り過ぎることなんてできない。
「させるか!」
エミルは『空間転移』を発動した。
視界が一瞬ぶれ、次の瞬間には魔物の懐に潜り込んでいる。
ガギィンッ!
振り下ろされる腕を、【硬化】スキルを発動させた両腕で受け止めた。
想像以上に重い。足元の石畳にヒビが走り、衝撃が全身を貫く。
「『黒焔』!」
右手に漆黒の魔力を纏わせ、魔物の胴に叩き込んだ。
ドゴォッ!!
衝撃波が走り、巨体が後方へと吹き飛ぶ。
エミルの手に残ったのは、生物を殴った感触ではなかった。まるで岩盤を叩いたような、硬く、冷たい手応え。
グオオオオオオッ!
魔物は苦悶のような咆哮を上げながら、すぐに起き上がった。
「エミル、下がれ!」
バルディアが炎爪を構え、援護に入ろうとした、その時だった。
「やめて……!!」
悲痛な叫びが、戦場を切り裂いた。
助けた女性が、逃げるどころか、吹き飛ばされた魔物へと這っていく。
「やめて……! お願い、やめてぇぇぇッ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、女性は魔物に向かって手を伸ばし、エミルたちの前に立ちはだかった。
「あの人を殺さないで! 私の……夫なの!」
「……は?」
エミルの思考が凍りついた。
殴りかかろうとしていた拳が、空中で止まる。
「お、夫……? どういうことだ……」
混乱するエミルの目の前で、魔物が立ち上がる。
その瞳は濁りきっており、目の前の女性が誰なのかさえ認識していないように見えた。
——こいつ、ただの魔物じゃないのか?
この国で何が起きている?
アヤメが言っていた「奇病」と、この異様な状況。
エミルの背筋に、冷たいものが走った。




