第097話 水の神獣アプスの大地
視界に入った瞬間、エミルの足が止まった。
瓦屋根が連なる街並みに、木と土壁の家々。軒先に揺れる提灯。
石畳とレンガのセルディスとも、鉄と蒸気のグロムハルトとも違う。あまりにも見慣れた、けれどこの異世界にあるはずのない光景。
「……まるで時代劇のセットだな」
「ジダイ……ゲキ?」
アヤメが首を傾げる。
「あ、いや、おれの故郷に似てるってことだ」
言葉を濁しながら、エミルは改めて眼前の風景を見渡した。
着流しのような服を着た人と肩を並べて歩くのは、エラと青い肌を持つ魚人たち。道の向こうからは、額に角を生やした巨躯のオーガが、重そうな荷車を軽々と引いている。
「魚人にオーガか。シオン国は三種族が共存してるって聞いてたけど、本当なんだな」
「はい。水の大地なだけあって資源は豊富ですから。それぞれの種族が長所を活かして、助け合って暮らしているんですよ」
アヤメが少し誇らしげに胸を張る。だが、その横顔をサラが冷ややかな目で見つめていた。
「資源が豊富で、鎖国をしていても成り立つ国……ね」
「ええ。衣食住に困ることはありません。それでも、必要以上に発展させないのが国の方針なんです。“足るを知る”というか……」
アヤメの説明を聞きながら、エミルは違和感を覚えた。
地球の歴史で言えば、ここは江戸時代の初期といったところか。対して、セルディス王国は中世レベルの文明に加え、魔法技術による恩恵もあった。比較すれば、どうしても見劣りしてしまう。
ふと、通りを歩く住民たちに目をやる。
笑顔を浮かべている者もいる。だが、その多くは俯き加減で、足早に過ぎ去っていく。すれ違う人々の目には、どこか「諦め」のような色が滲んでいた。
「……『奇病』が流行るまでは、もっと活気があったんです。貧しくても、心は豊かで」
アヤメの視線の先、薬屋の前には長蛇の列ができていた。並ぶ人々の顔色は一様に悪く、誰もが何かに怯えるように背を丸めている。
「日が暮れるわね」
サラが空を見上げる。
国の中心であるカルフール城は、夕暮れの霞の向こう、まだ遠くに見える。
「皆様、今日はもう休みましょう。夜分に押しかけるのも無作法ですから」
「いいのか? 一日でも早く戻りたいんじゃ……」
「それはそうなのですが、予定では明日には到着できます。ここまで旅続きでしたし、エミル様たちも休んでください」
アヤメの言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
どこか急かすように、一行は通り沿いの旅館へと足を向けた。
—————
「こ、これは……!」
夕食が運ばれてきた瞬間、エミルは感涙にむせび泣きそうになった。
湯気を立てる白米に、香ばしい焼き魚。そして、出汁の香りがふわりと漂う味噌汁。
異世界に来て一ヶ月強。すっかりパンとスープの生活に慣れたつもりでいた。だが遺伝子に刻まれた記憶は、そう簡単に誤魔化せるものじゃなかったらしい。
「いただきます……!」
震える手で箸を取り、白米を口に放り込む。
噛み締めた瞬間、口いっぱいに広がる甘みと粘り気。これだ。これが求めていた味だ。
「うまい。染みる……」
「にしし、アタシは肉の方がいいけど、この魚も悪くねえな!」
向かいではバルディアが骨ごと魚をバリバリと噛み砕いている。
その豪快な食べっぷりに、エミルは思わず苦笑した。
そんな賑やかな食卓の中で、一人だけ箸が動いていない者がいた。
「アヤメちゃんは食べないの? 久しぶりの故郷の味でしょ」
サラが気遣い尋ねると、アヤメはハッとして箸を持った。
「え……あ、はい! その、胸がいっぱいで……やっと帰ってこられたんだなと思うと」
一口だけ米を口に運ぶも、すぐにまた手が止まる。
その視線は窓の外、城のある方角へと向けられていた。
「アヤメ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですよ! ただ少し、緊張しているだけです。明日、ようやく父に魔石を届けられると思うと……」
「……そうか。無理はするなよ」
「はい。ありがとうございます、エミル様」
その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
だが、エミルはそれ以上踏み込むことなく、食事を終えた。
「じゃあ、明日も早いし寝るか」
女性三人組とエミル、それぞれの部屋へと戻っていく。
廊下で、アヤメが一度だけ振り返った。
「エミル様」
「ん?」
「……ここまで送っていただき、本当にありがとうございました」
「なんだよ改まって。まだ親父さんを救ったわけじゃないし、これからだろ?」
「……そうですね。おやすみなさい」
深く頭を下げるアヤメ。
その姿に、どこか影があるように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
エミルは自室の布団に潜り込み、畳の匂いに包まれながら目を閉じた。
懐かしさと安堵感に、意識はすぐに落ちていく。
——城に行って父親を助けさえすれば、またいつもの元気なアヤメに戻るはずだ。
きっと、明日には全部うまくいく。
そんな楽観的な思考が、致命的な判断ミスだったと気づくのは、翌朝のことだった。




