第096話 神脈の旅
「……すごい。まるで宇宙だ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
セルディス王国の港を飛び立って数時間。船底を滑るように流れる眩い光の奔流、神脈。外を過ぎ去るのは風ではなく、青白い光の粒子だ。
甲板の手すりを握りしめながら、エミルは眼下に広がる光景に息を呑んでいた。
「この下はどうなってるんだ?」
好奇心に抗えず、船べりから身を乗り出して霧の底を覗き込もうとした瞬間。
「エミル様、ダメです!」
鋭い声と共に、首根っこをグイッと引かれた。
振り返ると、アヤメが真っ青な顔で立っている。
「落ちてしまったら、二度と戻れませんよ」
「え……?」
「この霧の下がどうなっているのか、誰も知らないんです。落下して戻ってきた人の記録はありませんから……」
「落ちたらそのまま行方不明、っつーか死亡扱いで処理されるって話だぜ」
バルディアも神妙な顔で頷く。
「大地間の入出地もオラクルズの管理下なので、出地履歴があれば当然入地履歴と紐づけられることになります。出地履歴があるのに、予想される移動日数を超えても入地履歴が記録されない場合は……」
「途中で落下したか、魔物に襲われたかの事故扱い、ってことか。結構命がけなんだな」
エミルはごくりと唾を飲み込み、手すりから一歩下がった。
神獣の大地から出て他の神獣の大地へと渡る。地球でいえば、他国に飛行機で向かうような感じだろうか。たしかに地球でも飛行機事故はある。ただ報道もされるし、落下場所も特定される。
テクノロジーが発達していないカリストラの場合、一度落ちたら追う手段もない。出国管理と入国管理が紐づいている仕組み自体はパスポートと似ているが、移動中の事故を追えないのはリスクが桁違いだ。
美しい光の川が、急に底なしの地獄の入り口に見えてくる。
「だからこそ、航行の安全を守る星読師は命綱なんです」
アヤメの視線が、船の操舵席へと向けられた。
舵の代わりに設置された水晶玉のような魔力制御装置。そこに両手を置き、神脈の流れだけをじっと見つめるサラの姿があった。銀色の髪をきつく結い上げ、その横顔は感情の起伏を一切見せない。
——緊張……してるのか?
サラにとって久しぶりの現場仕事だと聞いている。教会で冷遇されていた時間を考えれば、ブランクは相当あるはずだ。
声をかけようか迷ったが、そのピリついた空気がそれを許さない。
だが、そんな空気などお構いなしの獣人が一人。バルディアが「よっ」と軽く手を上げて歩み寄った。
「どうだ、サラ。調子は?」
「……話しかけないで。気が散るわ」
視線を水晶から外さず、冷たく言い放つ。だがバルディアは、そんな対応も織り込み済みといった様子でにししと笑った。
「悪かったよ。魔物が出たら、アタシらが片付けるからよ。船のことは任せたぜ」
「……当然よ。航行中はあたしの指示が絶対。あなたたちはあたしの指示に従ってくれればいいわ」
一瞬、サラの口元が緩んだように見えた。
だが、すぐにその瞳が鋭く細められる。
「来るわ。左舷前方、ワイバーンが三体。頼んだわよ」
警告と同時に、霧の中から魔物の影が飛び出した。甲高い鳴き声と共に、船の甲板めがけて急降下してくる。
「おっしゃあ! 出番だぜ!」
バルディアが真っ先に反応し、船べりを蹴って宙へと躍り出た。
「『狂気掻・アプセット』!」
改良されたガントレットから爆炎が噴射され、その勢いのまま炎の爪がワイバーンの頭部を空中で粉砕する。
「わたしは右を! 『翠風流剣技・木枯らし』!」
アヤメの剣閃が走る。
流れるような抜刀ですれ違いざまに翼を両断し、体勢を崩した魔物の首を、返す刀で貫いた。
残る一体が、正面からエミルに突っ込んでくる。
魔物の爪を見切ると、即座に反転し、回避と同時に踏み込む。
「『黒焔』!」
ドォォンッ!
漆黒の焔を纏った拳が、ワイバーンの腹を深々と打ち抜いた。衝撃波が背中へ抜け、内臓ごと身体を粉砕する。
三体の魔物は、ものの数十秒で肉塊となって霧の底へ消えていった。
「……ふぅ。バルディアの作ってくれたコイツ、かなり馴染んできたな」
エミルは軽くグローブを握り締め、その感触を確かめた。
以前より魔力の通りがいい。自分の手の一部になったかのような一体感がある。
「にしし、当然だ! アヤメはどうだ? 慣れてきたか?」
「……そうですね。だいぶ使いこなせるようになってきました」
「へへっ、そっかそっか! 使えば使うほど自分の力になるからな」
バルディアの明るい表情とは対照的に、アヤメの回答にはどこか戸惑いが感じられた。
「アヤメ……?」
いつものアヤメとは違う。
そんな違和感を覚えたエミルが声をかけようとした、その瞬間。
「油断しないで、次が来るわよ」
サラが鋭い声を上げる。
前方から、さらに二体の影が迫っていた。
「おっしゃ! 次もアタシに任せとけ!」
「どうにも気が休まらないな」
苦笑しつつも、エミルは拳を構え直した。
大地間の旅は、地上以上に命がけだ。冒険者の仕事に、大地間を移動する商人の護衛が絶えないのもわかる話だった。
—————
そうして魔物との戦闘を繰り返しながら、数日が経った。魔物の影も減り、船上に穏やかな時間が戻ってきた頃。
休憩に入ったサラが、水筒を片手にエミルたちの元へやってきた。
「お疲れ様。もう少しで『アプスの大地』に入るわよ」
「お疲れ、サラ。さすがだな、ほとんど揺れもしなかった」
「当たり前でしょ。D級扱いされてたけど、腕は錆びついてないわ」
「なあ、なんでサラはD級なんだ? 基準はわからないけど、お前の腕ならもっと上でもいいんじゃないか?」
「……さあ」
サラは自嘲気味に口の端を歪め、遠い目をした。
「あたしを登録したのは、あのリシャールよ。嫌がらせで低くされたのかもしれないし……あるいは、実力通りなのかもね」
「そんなわけ……」
「いいのよ。あたしは落ちこぼれだから」
それ以上踏み込まないで、と拒絶するように、サラは視線を逸らした。
話を変えるように、サラはアヤメに向き直った。
「ねえ、アヤメちゃん。ずっと気になってたんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「アプスの大地……シオン国って、鎖国してるのよね? 海流と霧で閉ざされた孤島だって聞くけど……どうやって外に出たの? 星読師なしじゃ、あそこから出るのは不可能よ」
その疑問に対し、アヤメは「転移石」と呼ばれる希少な魔石を使った話をした。
「転移石……?」
サラが眉をひそめる。
「そんな便利な魔石があるなら、星読師なんて商売あがったりね」
「いえ、とても貴重で、ほとんど世に出回っていないそうです。父を看病してくれている友人が、わたしに持たせてくれたんです」
「友人?」
アヤメはこくりと頷き、どこか遠くを見るような表情になった。
「バエルといって、わたしの古くからの友人です。小さい頃から、とてもお世話になっていて」
「へえ……。随分と信頼しているのね」
「元商人ですが薬の知識も深くて。父が奇病に倒れた時も、すぐに駆けつけて看病してくれたんです。だからその……恩人、ともいうべき存在です」
「そう、いい人に恵まれたのね」
「はい。だから、必ず魔石を持ち帰って、バエルと一緒に父を治してみせます」
アヤメは懐から、グロムハルトで手に入れた紫色の魔石を取り出すと、大切そうに両手で包み込んだ。
「さ、見えてきたわよ」
サラの声に、全員が船べりに駆け寄る。
神脈の青白い光が途切れ、船はゆっくりと高度を下げていく。眼下に広がっていた濃霧が晴れ、ようやく次なる大地の姿が見えてきた。
「……あれが、アプスの大地」
広大な海の真ん中に、ぽつんと浮かぶ巨大な孤島。
島の周囲は断崖絶壁に囲まれ、波が激しく打ち付けている。島の上部は鬱蒼とした森に覆われ、中心部には霧が立ち込めていて全容が見えない。
「すごいな……本当に陸の孤島だ。それにあの霧……ミストリアを思い出すな」
「ええ。この霧と地形が、シオン国を他国の干渉から守ってきたんです」
アヤメが故郷を見つめている。
その横顔には、帰郷の喜びよりも、張り詰めた緊張感が漂っていた。
旅の間こそ、アヤメはずっと明るく振る舞っていたが、シオン国に近づくにつれて口数が減り、視線が泳ぐことが増えていた。父の病気に国の現状。彼女の双肩にかかる重圧は計り知れないのだろう。
「あなたたち……ミストリアを知ってるの?」
「ああ。セルディスに向かう途中に迷い込んだんだ。長老とかいうジイサンにも会ったぜ」
バルディアが腕を組みながら答える。
「スランドル様が、あなたたちと……?」
「そっか、サラもミストリア出身だったりするのか?」
「……いいえ。あたしはエルフといってもハーフだから。ミストリアには、入れないの」
サラの声が微かに沈んだ。
エルフでありながら、エルフの森に行ったことがない。その言葉の裏に、何か複雑なものがあるのだろう。
「サラはハーフエルフなんだよな、アタシと仲間だな!」
「ええ、まあ……そうね」
バルディアの屈託のない笑顔に、サラは小さく息をつき、表情を和らげた。
船はゆっくりと高度を下げ、断崖の一部に設けられた隠し港のような場所へと着岸した。
タラップが下ろされ、湿った潮風が吹き込んでくる。
久しぶりに踏む大地の感触。だが、ここはまだシオン国の入り口に過ぎない。
「ここから先は、わたしの案内が必要です。行きましょう。父とバエルの待つ、カルフール城へ」
アヤメの力強い声と共に、一行は未知なる大地へとその第一歩を踏み出した。




