第095話 雇ってくれないかしら?
空を流れる淡い光の帯——神脈。
その輝きの下、ラグネシアの港は早朝から賑わっていた。神脈航行船を見上げて歓声を上げる冒険者たち、荷物を抱えて走り回る商人、別れを惜しむ家族の姿。桟橋は活気と興奮に満ちている。
その喧騒から少し離れた場所で、エミルは腕を組んだまま港の入り口を睨んでいた。
「……来ない、な」
何度目かもわからない独り言が漏れる。
視線の先にある大通りには、行き交う馬車や荷運びの男たちばかり。銀髪のエルフの姿は、どこにもない。
「……すまない、アヤメ。お前の親父さんのリミットがあるってのに」
「いえ、謝らないでください。わたしも……サラ様を信じたいですから」
アヤメは気丈に首を横に振った。
その真っ直ぐな瞳が、逆にエミルの胸を締め付ける。
「エミル。アタシはオマエを信じるぜ。オマエが『待つ』って決めたアイツを、アタシも信じてる。だから、そんな顔すんな」
「バルディア……」
二人の信頼が、胸に刺さる。
嬉しいはずなのに、その重さが今は苦しかった。
カン、カン、カン——。
出航を告げる鐘が、また鳴り響く。神脈航行船が、光の帯を滑るように出発していった。
港が閉まるのは夕方だが、このまま待ち続ければ、星読師を探しに教会へ戻る時間さえ危うくなる。
——これ以上は、駄目だ。
エミルは拳を握りしめた。
自分一人の決断で、これ以上二人に迷惑をかけるわけにもいかない。
「……ダメだ。教会に戻ろう。港が閉まる時間には間に合うはずだ」
「エミル……」
「エミル様……」
バルディアとアヤメが、痛ましそうな顔でこちらを見ている。
その視線から逃げるように、エミルは背を向けた。
——結局おれは、何も……。
やり場のない感情を押し殺し、一歩を踏み出した、その時。
「待って……!」
人混みを切り裂くような、鋭い声。
弾かれたように振り返った。
港の入り口に、雑踏をかき分け、一人の女性が立っていた。
大きな荷物を背負い、肩で息をしている。銀色の髪が、朝日に照らされて眩しく輝いていた。
「サ……ラ……?」
呆然と、その名を呟く。
来た。
本当に、来た。
「はぁ……っ、はぁ……ご、ごめんなさい……! 孤児院の引き継ぎに、思ったより時間がかかって……!」
サラは膝に手をつき、荒い呼吸を整えながら顔を上げた。
「サラお姉ちゃん、頑張ってー!」
「泣くなよー!」
「行ってらっしゃい!」
大通りの向こうから、リカを先頭にした子供たちが、必死に手を振っているのが見えた。
サラは一度だけ振り返ると、大きく息を吸い込んだ。
「行ってきます!」
凛とした声に、力強く振り返された手。
その背中には、もう迷いがなかった。
サラがこちらに向き直る。
その蒼い瞳には、もう昨日までの諦めも、虚無もなかった。
「……遅い」
エミルは、こみ上げる熱いものを誤魔化すように、わざとぶっきらぼうに言った。
サラはくすりと笑うと、一歩踏み出し、エミルの目を真っ直ぐに覗き込む。
「ねえ、エミル君」
朝日に照らされた彼女は、今まで見たどんな時よりも美しかった。
「あたしを、あなたのパーティの星読師として雇ってくれないかしら?」
エミルは、一瞬言葉を失った。
喉の奥が熱くなり、視界がわずかに滲むのを、必死にこらえる。
「……ああ。よろしく頼む」
「ふふっ。契約成立、ね」
サラが満足げにウィンクをした瞬間、横から小さな影が飛び出した。
「にしし! やっと来たか、遅えぞ!」
「ようこそ、サラ様!」
バルディアとアヤメが左右からサラに抱きつく。
「ちょ、ちょっと! 走ってきたから、汗が……」
「んなもん気にすんなって!」
「ふふ、そうですよ、サラ様」
サラは困ったように眉を下げながらも、その表情はどこまでも柔らかい。
「……あ、そういえば、教会への手続きしてなかったな」
焦るエミルを見て、サラは涼しい顔で懐からギルドカードを取り出した。人差し指で挟み、ひらつかせる。
「ああ、それなら心配いらないわ。あたしの方で、もう済ませておいたから」
「……さすがだな。準備がいい」
「当然よ。D級扱いされてたけど、腕は錆びついてないわ」
サラはにやりと悪戯っぽく笑い、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「さあ、行きましょう。まだ神脈航行船はレンタルできるはずよ」
サラが、神脈を見上げながら言った。
空に浮かぶ光の道が、青白く輝いている。その先に広がるのは、まだ見ぬ世界。
目指すは、アヤメの故郷——水の神獣アプスの大地。
「よし……行くぞ」




