第094話 それぞれの夜
臨時の孤児院は、しんと静まり返っていた。
大部屋に並ぶ簡素な寝台の上で、子どもたちの寝息だけが、静かに聞こえている。
窓際の椅子に腰かけ、サラは一冊の本を開いていた。
だが、ページは一向に進まない。
視線だけが、同じ行を行ったり来たりしている。
——『お前が今、逃げてることはわかるぞ! 自分で決めつけて、諦めていることはわかるぞ』
——『あの子供たちを「言い訳」にしてるだけじゃないか』
昼間、エミルに突きつけられた言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
胸の奥がズキリと痛んだ。
——否定したい。全力で否定してやりたい。
この子たちは、あたしが守らなきゃいけない存在だ。あんな無責任な男に何がわかる。あたしがどれだけの絶望を見て、どれだけの想いでこの子たちを——。
そこまで思考を巡らせて、サラは自嘲気味に唇を噛んだ。
……必死に言い訳を並べている時点で、図星だと言っているようなものじゃないか。
「はぁ……」
深く、重いため息をつく。
もう本を閉じて寝てしまおう。そう思った、その時だった。
「お姉ちゃん、眠れないの?」
小さな声に振り返ると、最年長の少女——リカが、寝台の上で半身を起こしていた。
「リカ……ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん。なんだか目が冴えちゃって」
リカは寝台を降りると、サラの隣にちょこんと座った。
十歳になる彼女は、同年代の子よりもずっと大人びて見える。リシャールの支配下にあった教会で、サラがいない時は代わりに幼い子たちの面倒を見てきたからだろう。
そのリカが、今は真っ直ぐにサラを見つめていた。
「……あのお兄ちゃんたちのこと、考えてたの?」
「え……」
心臓が、ドクンと跳ねた。
「公園で話してるの、少しだけ聞こえちゃった。お姉ちゃん、本当は、あの人たちと一緒に行きたいんでしょ?」
「な、何を言ってるの。あたしはリカたちと一緒に……」
「嘘」
短く、けれど鋭い一言が、サラの言葉を遮った。
「だって、知ってるもん。私たちが寝たあと、毎晩こっそり本読んでるの。星の本とか、遠い国の地図とか。難しそうな本ばっかり。ここじゃない場所の話、いっぱい読んでたでしょ? 今だって、ほら」
リカがサラの手元の本を指し示す。
「……これは、ただの趣味よ」
「ふうん。お姉ちゃんって、嘘つくとき、目が合わなくなるんだよね」
リカは少しだけ寂しそうに、けれど優しく微笑んだ。
そして、サラの手をそっと握りしめる。子供特有の体温が、冷え切ったサラの指先に伝わってくる。
「ねえ、お姉ちゃん。……私たちを、理由にしないで」
「え……?」
「『あの子たちが心配だから』とか『あの子たちを置いていけないから』とか、そういうの。私たちを“行けない理由”にするの、やめてってこと」
リカの言葉は、残酷なまでに核心を突いていた。
それは、サラが一番聞きたくなかった言葉。エミルに突き刺された、あの言葉と同じだった。
「お姉ちゃんね、あの暗い檻の中でも、ずっと震えてた子たちの手を離さなかった。『大丈夫』って何度も言ってくれたの、みんな覚えてるよ」
リカは、少しだけ視線を落とした。
きゅっと握りしめる指が、かすかに震える。
「だからね、今度は私たちが、お姉ちゃんの背中を押す番だと思うの」
「背中を、押す……?」
「うん」
顔を上げたリカの瞳には、寂しさと、それ以上の決意が宿っていた。
「私たちは、お姉ちゃんがいなくなっても、もう大丈夫。……だから、お姉ちゃんが前に進むなら……ちゃんと『行ってらっしゃい』って言いたいの」
「リカ……」
「あのお兄ちゃんたちを、今度はお姉ちゃんが助けてあげて。……お姉ちゃんは、すごい『星読師』なんでしょ?」
胸の奥で、何かが軋んだ。
子供たちを「守るべき存在」だと思っていた。
あたしがいなければ、この子たちは生きていけない。だから、ここにいなければならない。
そう、思い込んでいた。
だが、違った。
守られていたのは、あたしの方だったんだ。
この子たちを「守る」という大義名分を盾にして、自分の臆病さから目を背けていた。前に進むことを恐れて、「この子たちのため」という言い訳に逃げ込んでいた。
そんな情けない自分を、この小さな手が許し、解き放とうとしてくれている。
サラは、溢れそうになる涙を堪えるのに必死だった。
窓の外、月明かりが二人を静かに照らしていた。
その同じ月を、遠く離れた酒場の窓際で、もう一人の男も見上げていた。
◆◇◆◇◆◇◆
ラグネシアの中心部にある酒場は、冒険者たちの熱気でむせ返っていた。
今回の奴隷事件解決の立役者たちを祝う、ささやかな宴。テーブルの向こうでは、S級冒険者グリアとバルディアが意気投合していた。
「ヌハハハ! 見事でしたぞ、バルディア殿!」
「へへっ、当たり前だ! それよりグリアのオッサンも強えじゃねえか! あのゴーレム、どうやって動かしてんだ? アタシにも作れるか?」
「ほほう! バルディア殿も造形に興味が? ふふふ、小さいサイズならコツさえ掴めば……今度、吾輩の秘蔵コレクションをお見せしましょう!」
「おっ、マジか! 約束だぜ、オッサン!」
そんな喧騒から少し離れた席で、エミルは虚ろな目でジョッキを見つめていた。
目の前には、手つかずの山盛り肉料理と、すっかりぬるくなったエール。
「……はぁ」
「エミル様、さっきから溜め息ばかりですよ?」
アヤメが心配そうに顔を覗き込んできた。
「……いや。なんか、喉を通らなくてな」
「そんなことばかり言ってると、わたしが代わりに飲んじゃいますよ?」
「……お前は未成年だから酒はダメだろ」
「むぅ。じゃあ、このお肉、全部食べちゃいますからね!」
アヤメがぷくっと頬を膨らませ、強引にエミルの皿に肉を取り分ける。
思わず苦笑して、エミルは身を起こした。
「わかったよ。……しょうがない、やけ酒だ」
ジョッキをあおり、一気に流し込む。
苦い液体が喉を焼き、胃の底に落ちていった。
「っぷはぁ……」
「もう、そんな急に飲んだら……」
「……あいつに対してな、結局、何もできなかった」
「サラ様のことですか?」
「ああ。偉そうなことを言ってしまったよ。『逃げるな』だの、『言い訳にするな』だの……。どの口が言ってんだって話だ」
空になったジョッキを、ドンと置く。
——『お前が今、逃げてることはわかるぞ! 自分で決めつけて、諦めていることはわかるぞ』
昼間、サラに投げつけた言葉が、ブーメランのように自分に突き刺さる。
「ううっ……」
「さっきから本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。自分で言って自分にダメージ受けてんだから世話ない……」
——『勝手に過去の自分と重ねて……昔のあなたを救いたいだけじゃない』
あの言葉が、重く響く。
——おれは、サラにかつての自分を重ねて、ただ自分のエゴを押し付けただけじゃなかったのか。おれがアヤメやバルディアに救われたように、あいつも救えるなんて……傲慢にも程がある。
「結局、おれは何も変わっちゃいない。自己満足で、自分の過去を清算したかっただけなんだ……」
「エミル様」
弱音を吐くエミルの右手に、温かいものが触れた。
アヤメの手だった。
テーブルの下で、そっと、けれど力強くエミルの手を握りしめている。
「わたしたちは、サラ様が決めるのを待つしかできないんです。でも、エミル様の言葉は、本気でぶつかった想いは、きっと彼女に届いています。だから……あまり自分を責めないでください」
きゅっと握る手に、力がこもる。
「ほら、湿っぽいのはこれで終わり! 冷めないうちに食べましょう!」
アヤメは笑顔を作ると、今度は大量のポテトをエミルの皿に山盛りにした。
その強引な優しさに、胸のつかえが少しだけ軽くなる。
「エミル殿、元気がないようですな!」
豪快な笑い声と共に、巨大な影が落ちた。
グリアが席を移動してきて、ドスンとエミルの隣に腰を下ろしたのだ。
「バルディア殿と話していたんですぞ。いやはや、この娘、面白い! あのヘパイストス殿の一番弟子とは!」
「へへっ! アタシ、絶対師匠を超えてみせるんだ。誰になんと言われようとな!」
バルディアが口元をソースで汚しながら、得意げに胸を張る。
「ヌハハ! その意気ですぞ! ……吾輩も、昔は鍛冶師に憧れたものですがな」
ふと、グリアの声色が柔らかくなった。ジョッキを傾け、遠い目をする。
「そういや、グリアのおっさんもドワーフなんだよな? ドワーフの間じゃ、おっさんの話はあまり聞かねえけど……」
「でしょうな」
グリアは自嘲気味に髭を撫でた。
「ドワーフに生まれながら、鍛冶の才能がからっきしでしてな。ヘパイストス殿のような本物の天才を見ると、自分が嫌になったものですぞ」
「……師匠と、交流があったのか?」
「仲が良い、とまでは言いませんがな。吾輩は、弟子入りも叶わずでしたからな……」
「そうだったのか……」
「吾輩は鍛冶から逃げた。才能がないと思い知らされて、別の道を選んだ。だがバルディア殿、お主は逃げなかった。それどころか、あの『黒鷲』とも渡り合った。……大したものですぞ」
グリアの言葉に、バルディアは顔を赤くしてそっぽを向いた。
「へ、へん! 師匠の名を背負ってるからな、当たり前だぜ!」
鍛冶に挫折したドワーフ族のグリアと、鍛冶に生きる獣人族のバルディア。
対照的だが、だからこそ通じ合うものがあるのだろう。
——対照的、か……。
エミルは、二人の姿をぼんやりと眺めていた。
「お二人とも、そろそろ宿に戻りませんか? エミル様も疲れているようですし……」
「ああ、そっか。明日は朝早えもんな。エミルも沈んでねえで、元気出せ」
「そう、だな」
アヤメの父の期限だって迫っている。
もし明日、サラが来なければ、教会で別の星読師を探さなければならない。
「ヌハハハ! ではエミル殿、またどこかで!」
グリアと固い握手を交わし、エミルたちは熱気の冷めぬ酒場を後にした。
外に出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でる。
見上げた夜空には、無数の星が瞬いていた。
——明日の朝。
あの港に、彼女の姿はあるだろうか。




