第091話 お前が諦めても
眼前の男に拳を叩き込む。
その瞬間、エミルの脳裏にサラの瞳がよぎった。
初めて教会で彼女と出会ったとき、息を呑んだ。
その瞳に、見覚えがあったからだ。
自分のことなんて、どうでもいいと思っている目。
生きることを、とっくの昔に諦めてしまった目。
——ああ、知っている。
洗面台の鏡越しに死ぬほど見てきた、希望も未来も何ひとつ映さない、虚ろなガラス玉。
十年間、部屋の隅で腐りかけていた、あの頃の自分の目だ。
健康なんてどうでもよかった。食生活を意図的に乱し、身体を壊そうとした。いざとなったら使えるようにと、あの「道具」まで準備していた。
でも、実行には移さなかった。
母さんがいたからだ。
自分なんかのために、朝早くから夜遅くまで働き続ける母さん。
疲れ切った顔で、それでも「大丈夫よ」と笑ってくれる母さん。
その笑顔を裏切ることだけは、できなかった。
——サラにとっては、あの子どもたちがそうなんじゃないか。
彼女が何を抱えているのか、詳しくは知らない。それでも、あんな目をしている彼女に“裏切り者”のレッテルを貼って、見殺しになんてできるか。
アヤメやバルディアに向ける感情とは、まったく別の衝動が突き上げてくる。
利用しようとした相手に「全員助ける」などと言われ、きっと彼女は混乱しているだろう。
だが、それでもいい。
——そんな顔をして終わらせてたまるか。
お前が諦めても、おれが諦めない。
「おおおおおおッ!」
ドゴォォォッ!!
黒い焔を纏った拳が、黒鷲のリーダー・エンデバーの顔面を深々と捉える。
奴は声を上げる間もなく吹き飛び、床に転がってピクリとも動かなくなった。
視界の端では、アヤメとバルディアも決着をつけていた。
「『翠風流剣技・天津風』!」
「『狂気掻・アプセット』!」
疾風のごときアヤメの踏み込みと、バルディアの爆炎を纏った爪が、完璧な連携でコンスティの巨体を捉える。
動きが一瞬鈍った隙を、アヤメが見逃すはずもない。低い姿勢から懐へ潜り込み、逆手に持った剣の柄頭を、コンスティの顎へカチ上げた。
「がっ……!?」
脳を揺らされた巨漢が、白目を剥いてどっと倒れる。
「はぁ……はぁ……」
アヤメが肩で息をしながら、剣を鞘に収める。
「おいおい、殺しちまったのか?」
「いえ、峰打ちですよ、バルディアちゃん」
「そっか! ま、アタシらにかかれば、こんなもんだな!」
バルディアがニシシと笑って拳を突き出すと、アヤメも安堵の笑みを浮かべてコツンと拳を合わせた。
エミルは、すぐさま檻の方へと振り返った。
鉄格子の向こうで、サラが信じられないものを見る目でこちらを凝視している。あの虚ろだった瞳に、微かな光が揺れていた。
「……本当に、助けてくれたの?」
「言っただろ。全員助けるって」
黒焔を纏った手で、檻の鍵を強引に握りつぶす。ガキン、と硬い音がして扉が開いた。
だが、安堵したのも束の間。
「ひ、ひぃぃぃ! に、逃げろぉぉ!」
「冒険者が暴れてるぞ!」
「素性を嗅ぎ回られたらまずい! 早く!」
騒ぎに気づいたオークションの客たちが、我先にと出口へ殺到する。この国の闇に群がっていた貴族や富豪たちだ。彼らを逃せば、奴隷売買を暴く証人がいなくなる。
「ちっ、あいつらは仕方ねえか……!」
バルディアが舌打ちをする。
この人数を三人で止めるのは不可能だ。サラたちの無事が最優先と判断し、諦めかけた、その時。
「ヌハハハ! ここからは吾輩の出番ですぞ!」
会場の空気が、びりびりと震えた。
出口に殺到していた群衆の足が、ピタリと止まる。雷鳴のような大音声に、全員が凍りついたのだ。
そこに立っていたのは、壁のように巨大な影。
S級冒険者、グリア・バナザードの威圧感が、会場全体を支配していた。
「逃がしはしませんぞ!」
グリアは高らかに笑いながら、その太い腕を床に叩きつけた。
「出でよ、我が兵団! 人形達の宴!」
ズズズズズ……ッ!
床が、壁が、天井が波打つ。
石材が泥のように形を変え、無数の岩石人形へと姿を変えていく。
一体や二体ではない。十、二十、三十、会場を埋め尽くすほどのゴーレムが、逃げ惑う客たちの前に立ちはだかった。
「ひ、ひぃっ! ば、化け物だァ!」
「通せ! 金ならやるから!」
同時に、会場の四方から屈強な冒険者たちが姿を現す。グリアのパーティメンバーだ。彼らはゴーレムと完璧に連携し、瞬く間に客たちを取り押さえていく。
「……す、すげえ」
バルディアが息を呑んだ。
——これが、S級……!
エミルも内心で舌を巻いていた。
たった一人で、この会場を完全に支配してみせた。ドワーフでありながらあの巨躯、そして圧倒的な魔力量。牢獄で助けられた時も思ったが、やはりこの男は規格外だ。
客たちを完全に封じたグリアが、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。その琥珀色の瞳が、床に転がるエンデバーを一瞥した。
「……だから、台座が甘いと足元を掬われると言ったでしょうに」
グリアはエミルへと視線を転じた。
「お見事な仕上がりでしたぞ、エミル殿。A級パーティを相手に完勝とは」
「……いや、ギリギリだったよ」
「ヌハハハ! 謙遜は美徳ですが、事実は事実。胸を張られよ」
グリアは満足そうに頷くと、周囲を見渡した。
「さて、ネズミどもは全員型に収めましたぞ。あとは——」
その言葉に合わせるように、袖の奥から「パチ、パチ、パチ」と乾いた拍手が響いた。
「いやあ、見事、見事。まさか君たちだけで、奴隷事件の首謀者どもを捕らえてくれるとはね」
ゆったりとした足取りで現れたのは、オラクルズのラグネシア支部長、リシャールだった。
彼は気絶しているエンデバーたちを一瞥し、さも感心したように頷く。
「ご苦労だったね。あとは我々オラクルズが引き取ろう」
「……お前。おれらを拘束しておいて、どの口が言ってんだ」
「おや? 人聞きの悪いことを言わないでくれるかい。この奴隷事件と、司教が殺されていた事件はまた別物だよ。君たちの疑いが晴れたわけではないことを、忘れてもらっては困るな」
しゃあしゃあと宣うその態度に、檻の中のサラが叫んだ。
「……嘘よ! エミル君、騙されないで!」
彼女はリシャールを真っ直ぐに睨みつけ、声を張り上げる。
「そいつが全ての首謀者! 黒鷲の背後にいたのも、司教を殺したのも、全部そいつ……!」
「……ほう。貴様の言葉など誰が信じると……? そこまで言い切るには、何か証拠でもあるのだろうな」
リシャールの眉が、ピクリと動く。
その告発を裏付けるように、グリアが重々しく口を開いた。
「リシャール支部長殿。吾輩の調査でも、貴殿は最有力な容疑者候補として上がっておりましてな」
「……何を馬鹿なことを」
さすがのリシャールも、S級冒険者からの指摘には顔色を変える。表面上の余裕は保っているが、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「貴族を集め奴隷オークションを定期的に開催していたのはわかっておりますぞ。司教と黒鷲にも協力させ、この場所に関係ない者が近づかないよう見張りもさせていた。その司教ですが、裏では酒、賭博、娼館に溺れ、借金まみれ。ついには奴隷売買の金にまで手を出してしまった」
グリアの一言一言が、リシャールを追い詰めていく。
「貴殿は司教を消したかったのでしょうな。しかし、教会の司教を簡単には消せませぬ。そこで、たまたま口論していたエミル殿たちに目をつけた。あのハーフエルフの娘に魔力遮断の魔石と雷の魔石を持たせ、エミル殿らを無力化させ、司教殺しの罪をなすりつけた。金の流れは、すべて裏付けが取れておりますぞ」
全てが暴かれた。
グリアの言葉とサラから聞いた話が、一直線に繋がる。
リシャールは俯き、肩を震わせた。
観念したのかと、そう思った次の瞬間。
「ハ、ハハハ! アッハハハハ!」
狂ったような高笑いが、広間に響き渡った。
リシャールが顔を上げる。
そこにあったのは、正義の仮面を脱ぎ捨てた、欲望と焦燥に歪んだ醜悪な男の顔だった。
「……出来損ないのエルフの次は、出来損ないのドワーフか! S級だからって、偉いと思ってんじゃねえぞ! 私はオラクルズの支部長だ! 選ばれた人間なんだ! 貴様らのような下等な冒険者に、裁かれてたまるかぁッ!」
リシャールが両手を広げた。その全身から、どす黒い魔力が噴き出す。
「いくらS級でも、オラクルズには反抗できまい! ここで全員死ねェッ!」
エミルが黒焔を展開し、防御に入ろうとした、その時だった。
「……そこまでだよ」
氷のように冷たく、一切の感情が乗らない声が、リシャールの動きを止めた。
いつの間に現れたのか。
リシャールの背後に、小柄な人影が立っていた。
性別も年齢も判然としない、中性的な容姿。
オラクルズの純白の制服に身を包み、その無機質な瞳で、リシャールを見上げている。
——なんなんだ。誰なんだこいつは。
エミルの背筋に、冷たいものが走った。




