第089話 奇妙な男
冷たい鉄格子を握る手が、白くなるほど震えていた。
教会の地下に広がるオークション会場。
檻の中に閉じ込められたサラ・イネリアは、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めていた。
——この子たちの身の安全が保証されるなら、あたしはどうなってもいい。
この薄汚れた命ひとつで、この子たちの未来が買えるなら安いものだ。
そう、割り切っていたはずだった。
この、エミル・ハナビシという、奇妙な男に出会うまでは。
—————
数日前の深夜。閉門後の、誰もいなくなった教会。
ステンドグラスから落ちる月明かりだけが、サラの足元を照らしていた。
「……何の用かしら」
背後に立った気配に、サラは振り返りもせずに問う。
まとわりつくような不快な足音の主は、オラクルズ支部長のリシャールだ。
「つれないな、サラ。せっかく良い知らせを持ってきてやったというのに」
リシャールは下卑た笑みを浮かべながら、サラの隣に腰を落とした。
「貴様に興味を持つ物好きが現れたそうじゃないか。いい機会だ、雇ってもらったらどうだ」
「……期待なんてしてないわ」
「まあ聞け。もし奴らが本気で貴様を雇うと言うのなら……協力してやってもいい」
「……協力?」
サラは警戒心を隠さず、リシャールを見上げた。
「そうだ。貴様が教会へどれだけ貢献してきたか、私が一番よくわかっている。それに、聞くところによると奴ら、ダンジョン攻略でかなりの金を持っているらしい。所詮E級だ、どんな不正な手を使ったのかは知らんがな」
リシャールの目がギラついた。
「貴様が奴らを取り込み、星読師として雇わせることができたなら……貴様も、貴様が世話をしているあのガキどもも、奴隷候補からは外してやってもいい」
その言葉に、サラの心が揺れた。
——あの子たちを、奴隷候補から外す?
脳裏に、子供たちの顔が浮かぶ。
一緒にご飯を食べたこと。泣いている子の背中をさすったこと。夜、怖いと言って布団に潜り込んできた小さな体の温かさ。
親を失い、行き場をなくした子供たち。サラは彼らの世話をしてきた。
——あの子たちだけは。あの子たちだけは、守りたい。
だけど、信じられるはずがない。
この男は、私欲のためなら人を人とも思わない。
A級冒険者パーティを利用し、冒険ついでに奴隷候補を捕まえてこさせる。奴隷候補がいなければ、親を魔物に襲わせ、子を奴隷落ちさせる。時には貧民に金を渡して野盗に仕立て、それを捕まえるマッチポンプで支部長にまでのし上がった男。
——事情を知っているあたしも、いつ口を封じられるか……。
「信じられないって顔をしているな」
リシャールは愉快そうに肩をすくめた。
「安心しろ、あくまで奴らの金が目的だ。オラクルズの目を盗んで奴隷売買なんてやってきたが、支部長にもなった今、これ以上リスクを負うつもりはない。奴らの金さえ手に入れたら、足を洗って、市民に優しい支部長様の顔で退役まで全うするつもりさ」
「……」
「明後日は定例オークションがある日だ。その日を最後に奴隷の売り買いは終わらせるつもりだ。だから明日だ。明日奴らをここに連れて来い。それができなければ、貴様もあのガキ共もオークションにかける」
「そんな、あの子たちはまだ先のはずじゃ……!」
「聞こえなかったか?」
リシャールは立ち上がると、サラの顎を掴み、醜悪な顔を近づけた。
「貴様のやる気を出させるためにそうするって言ってるんだ。奴らの後は尾けさせている。今は近くの酒場にいるらしい。本気でガキ共を助けたいのなら、これが最後のチャンスだ」
至近距離で囁かれる脅迫に、吐き気がこみ上げる。
振り払いたい衝動を必死に抑え込み、サラは氷のような瞳で男を睨みつけた。
「……いいわ。やってあげる」
「ふっ、聞き分けの良い女は嫌いじゃないぞ」
リシャールは満足げに手を離し、闇の中へと消えていった。
一人残されたサラは、膝から崩れ落ちた。
震える手で、自分の肩を抱く。
——この男の言葉は、嘘と欺瞞に満ちている。
だけどもし。万が一、その言葉が本当なら。
子供たちだけでも、この地獄から救えるかもしれない。
あたしはどうなってもいい。あの子たちが、普通の生活を送れるなら。
どうせ、あたしの人生なんてとっくに終わっているのだから。
—————
そうして、今日。
リシャールの計画通り、彼らを罠に嵌めた。
それなのに。
「どうして、あなたは……」
サラは、檻の前に立つエミルを見つめていた。
騙されたと知ってもなお、この男の瞳には侮蔑の色がなかった。あるのは、呆れるほど真っ直ぐな意志だけ。
——『おれは、酒場で話してたお前の言葉が嘘には思えない』
この男は、そう言った。
——『だから、全員助ける』
思考が止まった。
子供たちだけじゃなく、あたしも助けると……?
騙そうとした女を、なぜ。
目の前で、戦いが始まろうとしていた。




