第087話 奴隷オークション
アヤメとバルディアが地下牢でエリーと戦っていた頃。
「どれだけ広いんだよ、この建物は」
グリアが壊してくれた地下牢から這い出し、迷路のような通路を抜けてようやく出た先。そこは、夜の闇に沈む巨大な空間だった。
高い天井に、壁一面を飾る荘厳なステンドグラス。そして、整然と並べられた無数の長椅子。
「ここは、教会か……」
今朝、司教が殺されていた現場だ。ようやく全ての点が線で繋がった。
アストレア教団の教会と、その騎士団であるオラクルズ。二つの拠点が同じ場所にあること自体は不思議じゃない。だが、この清廉潔白を装った聖堂の真下で、薄汚いことが行われているとすれば話は別だ。
「リシャール……あの野郎」
奥歯を噛みしめる。怒りと共に、先ほど地下で感じたあの感覚が蘇った。
更に下から感じ取った、無数の人間の魔力。十人、二十人、いや、もっと。まるで家畜のように詰め込まれた、命の気配がそこにあった。
グリアが話していた「人身売買」。それが重い現実となってエミルの胸に突き刺さる。現代日本で生きてきたエミルにとって、どこか遠い世界の話だった。だが今、その現実がすぐ足元に広がっている。
——サラも、この中にいるのか。
無数の気配が混ざり合い、個人の特定はできない。それでも、彼女がこの異常事態と無関係であるはずがない。
「地下に通じる入口が、どこかにあるはずだ」
【魔力探知】の精度を限界まで高める。
地下牢で感じた、あの無数の魔力の気配。そのほとんどが建物の裏手、さらにその下から漂ってきている。
——こっちか。
警戒しながら、教会の裏手へと続く薄暗い通路を進む。
その時、背後から足音が聞こえた。
咄嗟に柱の影に身を滑り込ませ、息を殺し、気配を消す。
二人の足音が近づいてくる。鎧の軋む音。オラクルズの連中だ。
「地下牢が破壊されたって本当か?」
「ああ。囚人が逃げ出したらしい。支部長がお怒りだ」
「支部長は怒らすと面倒だからな……。早く捕まえないと」
足音が遠ざかっていく。
エミルは柱の影で、静かに息を吐いた。
——時間がない。
裏手への通路を進むと、簡素な木製の扉を見つけた。
「こんなところに裏口が……。ちっ、やっぱ密室じゃなかったか」
扉に手をかけながら、舌打ちする。
この裏口を使えば、司教の死体があったホールへの出入りは容易いだろう。
扉を開けると、そこは表通りの荘厳さとは対照的な、ゴミが散乱し悪臭が漂う裏庭だった。魔力の気配は、この裏庭の一角、ひときわ鬱蒼と茂った草むらの下から漂ってくる。
「……あった」
草をかき分けると、地面に設置された古い鉄製の扉が姿を現した。地下からの魔力は、間違いなくここから漏れている。
「こんなところに……。つくづくヤバいとこだな」
エミルは息を殺して扉に手をかけた。鍵はかかっていない。
扉を開けると、冷たい石造りの階段が地下へと続いていた。
音を立てないよう、慎重に階段を下りていく。
下へ行くほどに、空気が変わった。湿った土の匂いが薄れ、代わりに、華やかな香水の匂いが漂ってくる。そして、楽しげなざわめきと、カチャン、カチャンというグラスが触れ合う音。
やがて、通路の先がぼんやりと明るくなった。
エミルは壁に張り付き、そっと中の様子を覗き込む。
「……なんだ、ここ」
息を呑んだ。
予想していたものとは、全く違った。
薄暗い地下牢なんかじゃない。地下とは思えないほど広大な空間が広がっていた。天井には無数の魔石がシャンデリアのように輝き、床には真紅の絨毯が敷き詰められている。
そして、そこにいる人間たち。
ざっと見て、五十人は下らない。全員がドレスやタキシードに身を包み、酒を片手に談笑している。そして、全員が仮面でその顔を隠している。白い仮面、金の仮面、鳥のくちばしを模した仮面。誰一人として素顔を晒していない。
——なんか見たことあるぞこんな風景……。オークション会場か?
【魔力探知】で感じた人の多さは、こいつら買い手も混じってたのか……。
フィクションでしか見たことのない、異様な光景。
背筋に冷たい汗が流れた。
最初は単に、貴族が奴隷を買い付けに来るような、小規模な市場をイメージしていた。
しかし、これほどの大規模な奴隷売買が、セルディス王国の中枢、それも教会の地下で行われている。リシャールだけでなく、王国の、あるいは教団の上層部までグルだとしてもおかしくない。
オークションはまだ始まっていないようだ。仮面の客たちは開始を待ちながら歓談している。つまり、まだ“商品”は無事だということだ。
——今なら、間に合う。
壁際を這うように移動し、広間の奥へと続く薄暗い通路を見つけた。
悪趣味な広間とは対照的に、湿っぽくカビ臭い通路だ。華やかな照明はなく、壁に設置された灯がぼんやりと青白い光を放っているだけ。
そして、その両脇には、無数の檻が並んでいた。
鉄格子の向こう。
薄闇の中に、人影が蠢いている。
怯えた目をした子供たち。すべてを諦めたように虚空を見つめる女。獣人らしき者もいる。彼らは“商品”として、値踏みされるのを待っていた。
檻の中から、幼い少女がエミルに気付いた。その瞳には光がない。涙を流す力さえ、もう残っていないのだろう。
エミルの足が、無意識に前へ出た。
その瞬間。
檻の奥から、誰かがこちらを見た。
暗闇の中で、銀色の髪がかすかに揺れる。
虚ろだった目が、エミルを捉えた途端、わずかに見開かれた。




