第085話 サラ・イネリア
温かいスープの湯気が、子供たちの小さな顔を包み込んでいた。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
「おいしい!」
「はい、ゆっくり食べなさい。おかわりはまだあるからね」
無邪気な笑顔を浮かべ、夢中になってスープを啜る子供たち。サラ・イネリアはその光景を見つめながら、胸の奥で何かが軋むのを感じていた。
——ごめんね。もうすぐ、この子たちとも……。
ここは教会本堂の裏手にある、表向きは孤児院として使われている小さな一室。親を失った子供たちが、肩を寄せ合って暮らしている場所だ。
貧困、魔物や野盗による殺害、親が奴隷……理由は様々だ。司教は保護を謳いながら、この子たちをいずれ労働力か、あるいは『商品』として売り捌くつもりでいた。
サラにできることは、世話係を名乗り出て、こうして僅かな食事を分け与えることだけ。
——『この地から、連れ出してほしいの』
昨晩、酒場でエミルに向けた自分の言葉が、頭の中で反響する。
——白々しい。よくもまあ、あんな嘘が言えたものね。
ずっと共に暮らしてきたこの子たちを見捨てて、一人だけ逃げ出す選択肢なんて、最初からなかったくせに。
——『辛かっただろう。こっちへ……』
ズキッ。
不意に走った頭痛に、サラはこめかみを押さえた。
——やめて。
昔のことを考えると、必ず"あの人"が出てくる。
もう、忘れたい。あたしを自由にしてほしい。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
胃の底から込み上げてくるものを必死に飲み込んだ。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
隣で食事をしていた子が、心配そうに見上げてくる。
「ええ、大丈夫よ。ちょっとぼうっとしちゃっただけ」
無理やり笑顔を作る。子供たちを不安にさせるわけにはいかない。
——『おい……!』
自分を呼び止めたエミルの顔が脳裏をよぎる。
嘘を見抜こうとするような、それでいてどこか心配そうな、熱を帯びた目。
彼らは今頃、リシャールに捕まっただろうか。
もし、もしあの時、全てを打ち明ける勇気があったなら。
——……馬鹿ね。
期待なんてするな。どうせ裏切られる。あたしみたいな“傷物”を、本気で救おうなんて人がいるはずがない。期待した分だけ、傷つくのは自分だ。
サラは湧き上がる未練を、乱暴に心の奥へ押し込んだ。
その時だった。
バタン、と乱暴に扉が開く。
「……まだそんな無駄な世話を焼いているのか」
冷めた声と共に部屋に入ってきたのは、ラグネシア支部の支部長、リシャール・グリエルだった。
その鋭い目が、子供たちとサラを不快そうに一瞥する。子供たちが怯えて身を寄せ合い、サラは反射的にその前に立ちはだかった。
「リシャール……」
「いくら貴様の魔力が強いからといって、自由に動き回りすぎだ。余計な真似はするなと言ったはずだが?」
返事も待たず、リシャールは無遠慮にサラの腕を掴んだ。そのまま奥の部屋まで引きずっていく。
掴まれた腕の感触が、忌まわしい記憶を呼び起こす。
「っ、離して……!」
「黙れ。貴様は表向きこそD級の星読師だ。だがな、同時にいつでも競売にかけられる“商品”だということを忘れるな」
壁に押し付けられる。リシャールの顔が近づき、その目が粘つくような欲望を宿した。
「例の冒険者どもを教会へ誘い込んだ手際は褒めてやろう。おかげで司教殺しの罪も、全部あいつらに被せられた」
サラは込み上げる吐き気に耐えながら、リシャールを睨みつけた。
「約束は守ったわ。あの子たちには手を出さないで」
「ああ、あのガキ共か。悪いな。予定が変わった」
「なっ……そんな、話が違う!」
絶望に声が震える。その反応を待っていたかのように、リシャールの手がサラの首を締め上げた。
「ぐ……っ」
「貴様、あの冒険者共に余計なことまで話したらしいな。バレてないとでも思ったのか?」
——『あたしを引き取りたいという貴族が来ることになってるの』
——あの会話、聞かれていたのか。あたしとしたことが……。
「ただでさえ最近この辺をうろちょろしているネズミ共がいるんだ。余計な口は慎むべきというのがわからんのか? ああ?」
「……っ」
「お人好しそうな連中だもんな。もしかしたらって希望でも抱いたか? ハッハッハッ」
リシャールは首に手をかけたまま、嘲笑った。だが、その目は笑っていない。
「貴様みたいな傷物、誰が好んで手を取るというんだ。勘違いするなよ? あのガキ共だって、大切な“商品”なんだからな……」
歪んだ視線が、サラの首筋から豊満な胸元へと這うように落ちていく。
「どうせ貴族のバカ共に売られるんだ。その前に俺が味見でもしてやろうか……」
いやらしい手つきで、サラの服に指がかかる。
「やめ……触らないでッ!」
「あぁん? 誰に向かって口を利いてる?」
パンッ!
乾いた音が響く。
頬を平手打ちされ、サラはその場に崩れ落ちた。
口の中に鉄の味が広がる。
「誰のおかげで人殺しの罪を見逃してもらってると思ってる? 貴様のような“傷物” を、星読師にしてやった恩を忘れたか? 奴隷として売った方がよほど金になるんだ。それとも、売り上げを着服してた司教みたいになりたいか?」
「……っ」
サラの瞳が、恐怖で見開かれる。
リシャールが下卑た笑みを浮かべ、サラの服を乱暴に剥がそうとした、その時。
「ねえ、リシャール支部長。何遊んでるの?」
部屋の入り口から、第三者の声が響いた。
感情の読めない、中性的な声。
リシャールの動きがピタリと止まった。
脂汗を浮かべ、錆びた機械のようにぎこちなく首を回す。
「あ、あなたは……!」
慌ててサラの体から手を離し、声の主に向かって直立不動の姿勢をとった。
入り口に立っていたのは、小柄な人影だった。
オラクルズの制服を身に纏い、顔は深いフードで隠されている。性別すら判然としないが、その華奢な体躯から放たれる威圧感は、リシャールの比ではない。
「任務はどうなってるのかな? 今日、君がここに来る予定なんて聞いてないんだけど」
「も、申し訳ございません……! ちょっとこの女への“教育”が必要でして……困ったもんです、ハハハ」
「ふーん。上に媚びることしか能がない君が支部長だなんて……やっぱり僕には理解できないなぁ」
声には抑揚がない。
だからこそ、その言葉がリシャールの顔から血の気を奪っていくのがわかった。
「そ、そんな……、はは。ちなみに今日はどうされたので……?」
「……ちょっと気になることがあってね。それより、下が騒がしいよ。地下牢で何かあったかもしれない。見てきてくれない?」
「はっ! 直ちに!」
リシャールは弾かれたように敬礼すると、逃げるようにサラの腕を掴み上げた。
「来い、サラ。貴様もだ」
有無を言わさず引きずられていく。サラは最後に一度だけ振り返った。
フードの奥。暗闇の中で、口元だけが三日月のように歪んでいるのが見えた気がした。
——この人は……? リシャールが、これほどまでに恐縮する相手……。
顔は見えなかった。
だが、その影から放たれる異様なまでの冷気だけが、サラの肌に焼き付いて離れない。
まるで、人の形をした『別の何か』を見ているような——。
背筋を這い上がる悪寒に、サラは思わず身震いした。




