第081話 旅の目的
眠れたのか、眠れなかったのか。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、やけに眩しい。ベッドから半身を起こしたまま、エミルは乱暴に自分の髪をかきむしった。
目を閉じれば、昨夜の光景が勝手に再生される。
——『教会で待ってるわ』
どこか助けを求めるような、けれど最後にはすべてを諦めたような、あの痛々しい微笑みが、瞼の裏にこびりついて離れない。
酒場の喧騒に背を向け、消えていくサラの後ろ姿。
——おれはただ、見送ることしかできなかった。何も言えなかった。
アヤメの父を救うというタイムリミット。それを言い訳にして、足が動かなかった。
かつての自分を重ねた? 同情した?
結局、口先だけじゃないか。おれは確かに、サラを見捨てたんだ。
じわりと、奥歯に力がこもる。
重い体を引きずるようにして部屋を出ると、宿の食堂にはすでにアヤメとバルディアが座っていた。
「あ、エミル様。おはようございます」
「おはよーさん、エミル」
「おはよう……」
向かいの席に腰を下ろすと、アヤメが心配そうに覗き込んでくる。
「……あまり眠れませんでしたか?」
「あ、ああ……。まあ、な」
出されたスープに手をつける気にはなれなかった。湯気が立ち上る器をぼんやりと見つめていると、バルディアがずいっとパンを突き出してきた。
「なーに暗い顔してんだよ。腹が減ってるから元気が出ねえんだ! ほら、食え!」
強引にパンを皿に乗せられ、思わず苦笑がこぼれる。
「……おまえは相変わらずだな」
「当たり前だろ。アタシが暗い顔してたって何も解決しねえんだからさ」
その単純明快な言葉が、妙に胸に響いた。
「ま、それもそうだな」
「バルディアちゃんらしいです」
アヤメも微笑んでいる。
もしかしたら、アヤメも自分と同じだったのかもしれない。
ふっと息をつき、エミルは気を取り直した。
やり残している問題がある。いつまでも沈んでいる場合じゃない。
「よし、じゃあ星読師のことなんだが」
「おう、早速本題だな」
「時間もないしな。あの司教にもう一度頭を下げるか、それとも……」
「エミル様」
アヤメが、エミルの言葉を遮った。真っ直ぐな瞳が、こちらを射抜く。
「わたし……このまま、あの人を見過ごして先に進むことはできないです」
「お前の親父さんのことがあるんだぞ。寄り道してる時間は……」
「わかっています」
エミルの現実的な反論を、アヤメは強い意志で押しのけた。
「たとえ、このままシオン国に戻って父が助かったとしても……わたしはきっと後悔します。あの人を見捨てたことを、一生」
その声には、一切の迷いがなかった。
父を救うという焦りすらも、目の前の一人を見捨てる理由にはしない。
「父の命は……まだ時間があります。ですが、彼女は『明日』と言っていました。わたしはもう……後回しにはしたくない」
「……」
エミルは言葉に詰まる。
——正論だ。あまりにも真っ直ぐで、眩しい。
いや、アヤメはそういう子だ。きっとそう言うだろうと思っていた。
でも、その真っ直ぐさがどれだけ危険かも、もう知っているつもりだ。
二人のやり取りを見ていたバルディアが口を開く。
「……でもよ、アイツ言ってたじゃねえか。貴族にメイドとして雇われるって。それって良いことなんじゃねえのか? 今よりずっと生活は良くなるんだろ?」
「バルディアちゃん、おそらくそれは……」
「多分だけどな。『メイド』ってのは表向きの理由で、実際は慰み者とか、半分奴隷みたいな感じなんじゃないかな……」
——確信はない。
だが、地球でいくつものアニメや漫画を読んできたからこそわかる。こういう場合、大抵良いように扱われるわけがない。
もちろん、貴族がそんな連中ばかりとは限らない。しかし、あの司教を見ていると、なんとなく察しが付いていた。
「奴隷!? そりゃ放っておけないな……アタシもアヤメに賛成するぞ!」
バルディアがテーブルを叩かんばかりに身を乗り出した。
「バルディア、これは勢いで決めることじゃないぞ。いいのか?」
「当たり前だ。エミルもアヤメも、どこの馬の骨ともわかんねーアタシを見捨てなかったんだ。そうだろ?」
「バルディアちゃん……」
——そうだったな。
こいつらも、おれも、そうやって進んできたはずだ。
最初にアヤメに助けられ、今度はおれが助け、次はバルディア。そしてそのバルディアにも助けられた。
元の世界に戻る。復讐を果たす。
目的はそれだけだったはずなのに、いつの間にか、それだけじゃなくなっていた。
……ああ、そうか。
これは、そういう旅なんだ。
「……はぁ」
エミルは深く息を吐き出すと、がしがしと頭を掻いた。
胸の奥で燻っていた重苦しい霧が、二人の言葉で少しだけ晴れていく気がした。
「……わかったよ。おまえらの言う通りだ」
顔を上げたエミルの目にも、迷いは消えていた。
「ただ、サラを雇うにしても情報がなさすぎる。もしその貴族がいい奴だったら、それはそれであいつの幸せかもしれない」
「ですが、サラ様の表情は、あまりそれを望んでいないように見えましたよ……?」
「ああ。だからあいつの言ったように、教会に行ってみよう」
「賛成です、エミル様!」
「にししっ! そうと決まりゃ話は早いぜ!」
ようやく、いつもの調子が戻ってきた。エミルは苦笑いを浮かべながら、残っていたパンを口に放り込む。
——貴族が買いに来るとなると、一筋縄ではいかないかもしれない。
……厄介ごとに首を突っ込むのは、もう慣れっこ、か。
引きこもっていた頃には考えられなかった感情が、確かに胸の内にある。
それは、決して悪い気分ではなかった。
—————
朝食を済ませた三人は、足早に教会へと向かった。
「明日がその貴族が来る日。今日しかないわけですね」
「あのクソ司教、ちゃんといりゃあいいが」
「いようがいまいが、サラを呼び出すだけだ。いくぞ」
重い扉をゆっくりと押し開ける。
中を覗くと、不気味なほど静かだった。薄暗い礼拝堂に、人の気配がない。
「あれ? 今日はいないのか……?」
「タイミングが悪かった、とかですかね……」
「おーい、司教さん。いるかー?」
バルディアの声が、高い天井に反響して消えていく。
司教の姿を求めて中へ足を踏み入れた、その時だった。
「……っ!?」
ぐらり。
エミルの視界が大きく揺れた。
「な……んだ、これ……?」
体の中の血流が逆流するような感覚。魔力の流れが、内側からぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。
これまでに感じた魔力切れや、暴走とも違う。
もっと根本的な……そう、ひどい船酔いみたいに、平衡感覚そのものが奪われていく。
「……エミル? どうしたんだよ、顔色悪いぞ……って、うぐっ……!?」
バルディアも同じだった。獣人の鋭い感覚が、逆に強烈な不調となって襲いかかっているのか、小さな体がぐらぐらと揺れている。
「バルディアちゃん!? エミル様!?」
魔力を操れないアヤメだけが、この異常の影響を受けていない。彼女が慌てて駆け寄ろうとするが、エミルの体はすでに限界だった。
「くっ……!」
膝から崩れ落ち、教会の冷たい床に手をつく。
視界が霞む。アヤメの焦った声が、水の底から聞こえるように遠い。
——まずい……毒ならスキルが効くはず。何かの罠か……?
必死に【魔力探知】を試みるが、自分の魔力が乱れすぎて何も感じ取れない。感覚器官を全て塞がれたような、圧倒的な無力感。
「……っ、バルディア!」
かろうじて意識を保ち、隣を見る。
バルディアはすでに床に倒れ伏していた。小さな体が、小刻みに痙攣している。
「エミル様! バルディアちゃん! しっかりして……きゃっ!?」
アヤメの悲鳴が、礼拝堂に響いた。
朦朧とする視界の端で、アヤメが何者かに首筋を打たれ、糸が切れた人形のように崩れ落ちるのが見えた。
「ア……ヤメ……」
声を出そうとしても、喉が動かない。
手を伸ばそうとしても、指一本動かせない。
急速に意識が闇に沈んでいく。
——誰だ。誰がこんなことを。
薄れゆく意識の中で、ひとつの声が聞こえた。
「思ったとおりね。あなたたち、お人好しそうだもの。……悪く思わないでね」
それは、聞き覚えのある声だった。
昨日自分たちを侮辱した、あの傲慢な男の声でも、司教のねっとりとした声でもない。
もっと……。
——この、声は……。
エミルの脳裏に、一人の姿がよぎる。
確認しなければ。
この声の主を、確かめなければ。
しかし、その顔を見る間もなく、エミルの意識は完全に途切れた。




