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第008話 覚醒

 湿った土の匂いが鼻につく。


 セルディス王国を出て丸一日経つ頃、エミルはタルマの森の奥深くへと踏み入っていた。


 鬱蒼と茂る木々のせいで、昼間だというのに薄暗い。時折、どこからか聞こえる鳥の鳴き声に、ビクリと肩が跳ねる。

 画面越しに見ていたファンタジーの森とは、空気がまるで違った。


「……セーブもリセットもない現実、か」


 死ねば終わり。その当たり前の事実が、歩くたびにじわじわと精神を削っていく。


 エミルは湿った手のひらをズボンで拭い、ギルド長ブラドからもらった地図を広げた。


「薬草の群生地はこの辺り……か。だけど、酔っぱらいのおっさんが言っていた『ダンジョン』はもっと奥のはずだ」


 昨日、ギルドで聞いたおっさんの言葉が脳裏に蘇る。


 ——『タルマの森だ。そこにあるダンジョンの話をしたら、飛んでいきやがったよ』


 おっさんが言っていた「扉」。同じような服を着た、おそらく同じ地球から来た男が探していたという、ダンジョンの奥にある何か。


 薬草採集はもはや建前で、本命はその「ダンジョン」を見つけること。その男が探していた「扉」が何なのか、確かめなければならない。


 元の世界に帰る手がかりが、すぐそこにある。

 その焦りが、警戒心を鈍らせていたのかもしれない。


 ガサッ。


 背後の茂みが、大きく揺れた。


「!?」


 反射的に身を伏せたが、もう遅い。

 茂みから飛び出した二つの影が、すでにこちらを獲物として捉えていた。


 小柄な体に、緑色の肌。鉤爪のように尖った鼻と、節くれだった棍棒を握る汚れた手。ぎらぎらと欲望に濡れた濁った瞳が、エミルを値踏みしている。

 

 ——ゴブリン……か?


 ギギッ、ギャギャッ!


 下卑た笑い声が、森の静寂を引き裂く。


 ゲームならただの雑魚モンスター。だが今、目の前にいるそれは、明確な殺意と獲物を(なぶ)愉悦に満ちた、紛れもない捕食者だった。


「話が違う……。ブラドのやつ、魔物も出ない安全な場所だって言ってたじゃないか」


 恨み言を呟く間もなく、ゴブリンたちがじりじりと距離を詰めてくる。


 ——逃げるか?


 足は恐怖で重いが、まだ動く。

 全力で走って、体勢を立て直して、また明日——。


 ——『明日』?


 その甘い言葉が脳裏をかすめた瞬間、吐き気がするほどの自己嫌悪がこみ上げた。


 上司の嘲笑を背に、震える手で辞表を握りしめ、逃げ出したあの日。

 自室という殻に閉じこもり、モニターの光だけを見つめていた十年間。

 いつだって「明日から本気出す」と言い訳をして、嫌なことから目を背け続けてきた。


 ——その結果が、これだ。

 母さんは殺され、おれはこの訳の分からない世界で、ゴブリン相手にすら怯えている。


 ここで逃げて、ダンジョンまでたどり着けるのか?

 こんな体たらくで、母さんの仇を討てるのか?


 冗談じゃない。元の世界に戻るためには、戦うしかない。嫌でも前に進むしかないんだ。

 相手は所詮ゴブリンだ。こっちには短剣がある。やるしかない。


 ギリッ、と奥歯を噛み締める。

 震える足に無理やり力を込め、腰の短剣を引き抜いた。冷たい汗で滑りそうになる柄を、両手で強く握りしめる。


「そこを……どけぇぇぇぇっ!」


 叫びと同時に駆け出す。

 それを見て、一体のゴブリンが奇声を上げて迎撃してきた。


 ——速い。


 咄嗟に身体を横に捻る。

 棍棒が風を切る音が、耳元をかすめた。


 避けられた。

 その一瞬の安堵が、致命的な隙を生んだ。


 空振りしたゴブリンは体勢を崩すどころか、そのまま回転の勢いを乗せて、強烈な蹴りをエミルの脇腹に叩き込んだ。


 ドゴッ!


「がっ……!?」


 内臓が跳ねるような衝撃で息が詰まる。

 よろめいたところに、もう一体が容赦なく棍棒を振り下ろす。


 ガシャン!


 右腕に激痛が走り、短剣が手からこぼれ落ちた。


 ギヒッ、ギャハハハ!


 無様に膝をついたエミルに、嗜虐的な笑い声が降り注ぐ。


 棍棒が、何度も何度も背中に振り下ろされる。泥まみれの足で踏みつけられ、顔を地面に押し付けられる。口の中に、泥と血の味が広がった。


 ——痛い、痛い痛い痛い!

 これが現実だ。覚悟だけでどうにかなるほど、世界は甘くない。

 わかってたはずだ。十年も引きこもっていた人間が、いきなり戦えるわけがない。「所詮ゴブリン」だって? 笑わせる。一体何を夢見ていたんだ。


 ここで、死ぬのか?

 手がかりはすぐそこにあるかもしれないのに。母さんの仇に繋がる道が、この森の奥にあるかもしれないのに。

 何も知らず、何も成し遂げず、こんな森の中で、なぶり殺しにされるのか。


 ——嫌だ。


 薄れゆく意識の底で、どす黒い感情が渦巻いた。


 アヤメにポーションを飲まされた時に感じた、あの熱い奔流。でも今度は違う。もっと激しくて、もっと破壊的な衝動。


 ——邪魔をするな。

 おれは帰るんだ。

 おれの道を塞ぐやつは、誰であろうと!


「う、ああああああぁぁっ!!」


 喉が裂けんばかりの絶叫。

 それは死への恐怖に抗う、魂の咆哮だった。


 ドクンッ。


 心臓が跳ねる。


 エミルの身体から爆発的に溢れ出した漆黒の波動が、周囲の空気を震わせた。

 踏みつけていたゴブリンたちの動きが、一瞬、恐怖で硬直する。


 その隙を、本能が逃さなかった。


 すかさず身体を起こし、目の前のゴブリンの頭めがけて、右の拳を突き出す。


 ボッ。


 次の瞬間、拳が黒いモヤに包まれた。


 いや、モヤではない。もっと濃密で禍々しい、陽炎のように揺らめく、漆黒の焔。


 グシャッ。


 触れた瞬間、ゴブリンの頭部が風船のように破裂し、消し飛んだ。


 首から下だけになった死体が、ぐらりと揺れて崩れ落ちる。

 

 ギ……ギギ……。


 もう一体が、恐怖に引きつった声を漏らした。仲間があまりにもあっけなく死んだ光景に、完全に戦意を失っている。


 ——なんだ……? 何が起きた……?


 あまりの出来事に脳の処理が追いつかない。

 ただがむしゃらに殴ったつもりが、気づけば一体のゴブリンを倒している。


 残ったゴブリンが、悲鳴を上げて背を向けた。


 ——逃がすか。


 その思考が浮かぶより速く、身体が動いていた。


 ダンッ!


 地面を蹴る。以前の自分ではありえない速度で、一瞬にしてゴブリンの背後に追いつく。


 再び拳を突き出すと、さっきと同じように黒いモヤが拳を覆い、ゴブリンの背中を殴りつけた。


 ドォン!


 二体目も、悲鳴すら上げられずに絶命した。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


 拳を包んでいた黒い焔が、陽炎のように揺らめきながら消えていく。

 緊張の糸が切れ、エミルはその場にへたり込んだ。


「……倒した、のか」


 安堵と同時に、自分の身に起きた異常への混乱が押し寄せる。

 ギルドでの測定では「無属性」、魔力はないと言われたはずだ。だが、さっきの力を、魔力以外の何で説明する?


 ——この世界、まだ知らないことが多すぎる……。


 震える手で、地面に落ちた短剣を拾い上げる。


 それでも、確かなことが一つだけある。

 この力があれば、少なくともゴブリン程度なら一撃で倒せる。


 ——このままダンジョンの中も、進めるんじゃないか?


 未知の力への恐怖より、先に進めるという希望の方が、今のエミルには大きかった。


「もう一度、出せるか……?」


 ゆっくりと右の拳を握りしめ、さっきの感覚を思い出す。

 身体の奥底から噴き上がる、あの熱い奔流——。


「来る……来るっ!」


 ボッ。


 拳の周りの空間が歪み、再びあの黒い焔がゆらりと現れた。

 まるでエミルの意志に応えるように、その力は脈打っている。


「よし……! これで戦える。この力があれば、奥へ行ける。薬草探しはもういい」


 深く息を吐くと、エミルは森の深淵を見据え、力強く歩き出した。

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