第073話 運命は巡る
セルンに渡された石の欠片に触れた瞬間、意識が飛んだ。
——なんだ……!?
視界が白く染まり、体の感覚が消える。
次に意識が戻った時、目の前に広がっていたのは、見たこともない美しい光景だった。
一面に咲き乱れる、名前も知らない色とりどりの花々。その奥には白亜の神殿のような建物がそびえ、どこからか清らかな滝の音が聞こえてくる。
——どこだ、ここ……?
ミストリアじゃ、ない……。
夢か、幻か。あまりにも鮮烈な色彩に眩暈がする。
そして——花畑の中心に、一人の人物が佇んでいた。
黒いローブを纏った、細身のシルエット。顔は見えない。
だが、その姿から立ち昇る気配に、エミルの背筋が凍りついた。
——おれと、同じ……?
いや、もっと濃い……『闇』の魔力か?
その人物が、何かを呟いた。風の音にかき消されそうになる、か細い声。
『……レン、なの?』
——レン? 人の名前か……?
聞き覚えのない名前。だが、なぜか心臓がざわついた。
「……ル様……ミル様……ッ!」
遠くから、誰かが叫んでいる。
「……ちょっと、エミル様! しっかりしてください!」
肩を強く揺さぶられた衝撃で、エミルは現実に引き戻された。
「うわっ……!?」
弾かれたように顔を上げる。そこはさっきまでいた、長老スランドルの広間だった。
目の前には真っ青な顔をしたアヤメと、その隣で、バルディアが心配そうに覗き込んでいる。
「お、おいおい大丈夫かよエミル……。急に棒立ちになって、顔真っ白だぞ」
「え、えっと……おれ、今……あれ……?」
心臓がバクバクと暴れている。全身から嫌な汗が噴き出していた。あの花畑も、黒いローブの人物も、もうどこにもいない。
「何か視えたのですか?」
セルンが静かに問う。その緑の瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいた。
「……よく、わからない。花畑と……神殿みたいな建物が見えた気がする。それと、誰かがいたような……くそ、記憶が曖昧で……」
「花畑……神殿……」
セルンは小さく首を傾げた。
「申し訳ありません、私にはその光景が何を意味するのか、見当もつかなくて……」
「いや、いいんだ。この先進んでいけば、わかることもあるはずだしな」
エミルは首を振った。
長老スランドルなら何か知っているだろうが、倒れたばかりだ。これ以上負担をかけるべきではない。
「……とにかく、おれたちは一日でも早くセルディス王国に向かわないといけないんだ。悪いが、道案内を頼めるか」
「かしこまりましたわ。森の出口までお送りしますので、ついてきてくださいませ」
セルンに導かれ、一行はミストリアを後にした。
巨木の間を縫うように歩きながら、エミルはポケットに入れた石の欠片を握りしめた。
だんだん記憶がはっきりしてくる。さっきのビジョン。あの花畑にいた、黒いローブの人物——。
——あれは誰だったんだ?
なにか呟いていた。『レン』と。人の名前だとは思うが、その響きは……。
考えを巡らせているうちに、鬱蒼としていた木々が徐々に開けてきた。
「私がご案内できるのはここまでですわ。ここからまっすぐ進めば、セルディス王国へと続く街道が見えてくるはずですの」
「色々と助かった。ありがとう。スランドルさんにも、よろしく伝えてくれ」
「ええ。エミル様………どうかお気をつけて」
エミルが聞き返そうとしたが、セルンは深く一礼すると、まるで霧に溶けるように森の奥へと姿を消した。
残された三人は顔を見合わせた。
「なんか、最後まで謎だらけだったな」
「まさか、エミル様が闇属性だなんて……」
アヤメが不安そうにエミルを見上げた。だが、その目には怯えではなく、心配の色が滲んでいる。
「でも、エミル様はエミル様ですから。どんな力を持っていたって、それは変わりません」
「アタシも同感だぜ! つーかよ、闇属性とか響きがカッケーじゃねえか! 世界から消された禁断の力なんてよ!」
バルディアが腕を組みながらニヤリと笑った。
「……ああ、まあ、それもそうだな」
二人の言葉に、強張っていた心がふっと軽くなる。
「よし。じゃあ行くぞ。真っ直ぐ行けばセルディスに着くんだろ」
三人は森の出口から、最後の一歩を踏み出した。
森を抜けた瞬間——。
「「「うわっ!?」」」
目に飛び込んできたのは、強烈すぎる太陽の光だった。
「な、なんだよ!? さっきまであんなに霧が濃かったのに……!」
バルディアが目を擦りながら叫ぶ。
慌てて振り返るが、ミストリアへ続く入口らしきものはどこにも見当たらない。ただ、どこにでもあるような鬱蒼とした森が広がっているだけだった。
「なんだか……狐につままれたみたいですね。わたしたちだけ、夢の世界にでも迷い込んでいたような……」
アヤメが呆然と呟く。
「白昼夢……にしては、リアルすぎたな……」
ポケットの中の石の欠片を、もう一度強く握りしめる。まだ微かな冷たさと脈動を伝えている。
これが、あの不思議な森での出来事が現実だったことを、静かに物語っていた。
「……とにかく、進もう。立ち止まってる暇はないしな」
アヤメとバルディアも頷き、三人は再びセルディス王国を目指して歩き始めた。
◆◇◆◇◆◇◆
エミルたちが去った後。
ミストリアの最奥、巨木に守られた長老の私室。
「ハル、只今戻りましたわ。スランドル様のご容態は?」
セルンが静かに入室すると、ベッドの傍らで腕を組んでいたハルが顔を上げた。
「セルンか。今は眠っておられる。ひとまず安心だ」
「そう……良かったですわ……」
「おお、セルンか……。すまぬのぅ……」
ベッドの上で、スランドルがゆっくりと目を開けた。
「彼らは、セルディスへ向かったか」
「はい。森の出口まで、確かにお送りしましたわ」
「そうか……」
スランドルの安堵したような声に、ハルが堪えきれない様子で口を挟んだ。
「スランドル様……本当によろしかったのですか? あのような素性の知れぬ者を、聖域であるこの森へ招き入れるとは……。お言葉ですが、長老らしくないご判断かと」
「ちょっとハル! あなた一体誰に向かって……」
「ほほほ、良い」
スランドルは枯れ木のような手で、ハルを制した。
「でもスランドル様、ハルも口ではこう言っておりますが、心配しているのですわ。どうか無茶はなさらないでくださいませ。もう、お体に障るようなことは……」
セルンが心配そうに眉を寄せる。
スランドルは、天井の向こう、遥か遠くを見つめるように目を細めた。
「案ずるな、セルン。懐かしくて、つい、のう……。あやつ、どことなく……レンに似ておる」
「レン……?」
聞き慣れない名前に、セルンとハルが顔を見合わせる。
スランドルは、それ以上何も答えなかった。ただ静かに、遠い昔の友を懐かしむように微笑んでいる。
やがて、老いた唇が小さく動いた。
「運命は巡る……か」
その呟きは、誰にも聞こえないほど小さく、森の風に溶けて消えた。




