第070話 迷いの森
霧を割って現れた人影を目にし、バルディアが息を呑んで呟いた。
「エルフか……!」
長く尖った耳に透き通るような白い肌。そして、こちらに向けられた瞳には、剥き出しの敵意が宿っていた。
「魔物の気配がしたと思ったら……他にもいたか」
エルフの女は弓を構えたまま、迷いなく距離を詰めてくる。その声は冷たく、感情が感じられない。
「貴様ら、何者だ」
「何者だってのはこっちのセリフだ。足を奪っておいて、随分なご挨拶だな」
エミルが一歩前に出る。
「何を言っている。ここはエルフ以外、足を踏み入れられぬ聖域だ。薄汚い人や獣風情が入ってきていい場所ではない」
「ああん? 気付いたらここにいたんだ。事情を知りてえのはアタシらの方だ。てめえから仕掛けてきたんだからな、文句は言わせねえぞ」
バルディアがガントレットを構え、一歩踏み出す。
その瞬間、女の瞳に明確な殺意が灯った。
「口の減らない獣だ。魔物を使役し、聖域を穢す連中め。生かしてはおけん」
女の指が、弦から離れた。
ヒュッ!
放たれた矢は、バルディアの眉間を目掛けて一直線に飛来する。
だが。
キンッ!
鋭い金属音と共に、矢が弾き飛ばされた。
アヤメが、いつの間にか前に出ていた。構えた刀の切っ先が、エルフの女を捉えている。
「こちらの言い分も聞かずに矢を放つとは……随分と短慮な方ですね」
「ほう……少しはやるようだな」
女の目がわずかに見開かれ、全身から魔力が膨れ上がった。表情から余裕が消え、本気で戦闘態勢に入っている。
一触即発の空気が張り詰めた、その時だった。
「ハル、お待ちになって!」
凛とした、それでいて柔らかい声が響いた。
霧の奥から、もう一つの人影が現れる。
先ほどの好戦的な女とは対照的な、優雅なローブを纏ったエルフの女性。銀色の髪を緩やかに流し、深い緑の瞳には知性と落ち着きが宿っている。
彼女は「ハル」と呼んだ弓使いの傍らに立つと、困ったようにため息をついた。
「ハル、あなたは本当に手がはやくて困りますわ……」
「セルン、どうして止めるんだ。こいつらは聖域に土足で踏み込んできた侵入者だぞ!」
セルンと呼ばれた女性は、ハルの抗議を軽く手で制すると、エミルたちに向き直り優雅に会釈した。
「同胞がいきなり失礼いたしましたわ。私は『セルン・マイヤー』と申します。こちらの短気なエルフは『ハル・ホワイト』ですわ」
「誰が短気だ!」
ハルが噛みつくが、セルンは涼しい顔で微笑んでいる。
「……エミルだ。こっちはアヤメと、バルディア」
簡潔に名乗りつつ、相手の出方を伺う。
敵なのか、味方なのか。少なくともこのセルンというエルフからは敵意を感じないが、油断はできない。
セルンはエミルたちの顔を順に見回すと、こくりと頷いた。
「皆様、お怪我はないようで何よりですわ。……申し訳ないのですけれど、私たちについてきていただけるかしら? ご案内いたしますわ」
「案内? ちょっと待ってくれ。一体どこへ連れて行く気だ」
エミルが問いかけると、セルンは少し不思議そうな顔をした。
「あら、皆様、もしかして知らずに迷い込んでいらしたの? 変ですわね……てっきり、呼ばれたのだと思ったのですけれど」
「呼ばれた……?」
「ここは『迷いの森』。霧が深く、一度入れば二度と出られないと言われている場所ですわ。けれど、この森にはもう一つの呼び名がございますの」
「もう一つの呼び名……?」
「ええ」
セルンは霧の奥を指差した。
「この先は——『エルフの森・ミストリア』。私たちエルフの隠れ里ですわ」
「エルフの……森!?」
エルフ自体はセルディス王国でも見かけたことがある。
その隠れ里に、迷い込んでしまったというのか。
「なんだ、客人だったか。セルン、それを先に言え」
「はあ……あなたが先走ったのでしょう、ハル。どうしていつも考えなしに矢を番えるのかしら」
セルンは指を額に当て、頭を抱えた。
「さ、参りましょう。長老が皆様をお待ちですわ」
セルンが歩き出そうとすると、バルディアが「おい、待てよ!」と待ったをかけた。
「エルフの森だあ? しかも他種族を嫌ってるエルフが、アタシらをわざわざ招くだと? どう考えても罠じゃねぇか! エミル、アヤメ、ついていくこたぁねえぞ!」
その剣幕に、ハルが再びこめかみに青筋を浮かべた。
「黙っていればゴチャゴチャうるさいチビだな。罠だと思うなら、今ここで死ぬか?」
「さっきも言ったが先に仕掛けてきたのはテメエだ。覚悟できてんだろうな」
「ハル! 煽らないの!」
険悪ムードの二人の間に、セルンが割って入る。
彼女は困ったような表情で、エミルに視線を向けた。
「ごめんなさい。正直に申しますと、私たちも長老がなぜ皆様をお招きになったのかは存じ上げないのです。ただ、あの方の仰ることに間違いはございません。害意はないとお約束いたしますわ。……どうか、信じていただけないかしら」
エミルは黙ってセルンの瞳を見つめ返した。
——罠かもしれない。
この世界には、アレスが言うような得体の知れない組織が暗躍している。
だが……。
エミルはアヤメとバルディアの顔を交互に見た。
——この霧だ。エルフの案内なしじゃ、ここを抜けるのは不可能に近い。
それに、エルフの長老、迷いの森……こういう場所には、決まって世界の謎に関わる情報があるのがお約束だ。
自分をこの世界に呼んだ何者か。元の世界に帰る方法。
手がかりがない今、向こうから招いてくれるなら、渡りに船とも言える。
——罠なら罠で構わない。どんな奴が出てきても、今のおれたちなら……。
エミルは覚悟を決め、セルンに向き直った。
「……わかった。案内してくれ」
「おい、エミル! 本気かよ!?」
「エミル様……!」
バルディアとアヤメが驚きの声を上げる。
「賢明なご判断、感謝いたしますわ」
セルンが嬉しそうに微笑んだ。
対照的に、ハルは「チッ」と舌打ちをして背を向けた。
「せいぜい長老の前で、粗相のないようにすることだな」
吐き捨てると、ハルは霧の中へと歩き出す。セルンも優雅に手招きをして、その後に続いた。
「付いていこう」
エミルの号令で、一行は二人のエルフの後を追う。
セルンが先頭を歩くと、不思議なことが起こった。
あれほど濃かった霧が、まるでカーテンを開けるように左右へ引いていく。
現れたのは、苔むした巨木が立ち並ぶ、神秘的な獣道。木漏れ日が柔らかく差し込み、空気はどこまでも澄んでいる。先ほどまでの陰鬱な雰囲気が嘘のように、森全体が穏やかな光に満ちていた。
「これが……ミストリアか」
エミルは思わず呟いた。
肌に触れる魔力の質が、明らかに変わっている。重苦しさが消え、代わりに清らかで濃密な力が全身を包み込むような感覚。
招かれた先で待つのが、希望か、それとも新たな厄介ごとか。
警戒を解かぬまま、深遠なる森の奥へと足を踏み入れた。




