第007話 扉
「何年か前に会った男を思い出しちまってな。ちょうどお前さんと同じような、妙な服を着とった。ひょっとして同郷かい?」
ギルドの入り口で、赤ら顔の男が酒臭い息を吐きながらそう言った。
ドクン、と心臓が跳ねる。
——同じような服……だと?
エミルは慌てて扉から手を離すと、男の前に詰め寄った。
「おい、おっさん! その話本当か!? どんな奴だ!?」
「お、おいおい、なんだよ急に……嘘ついてどうすんだ、落ち着けよ」
男は目を丸くし、酒臭い息を吐きながら後ずさりした。
「何年か前だがはっきり覚えてる。あんたと同じような、妙な服を着た男がいたんだよ。整った顔立ちの優男だったが……変なこと言ってたな」
「変って何だ? 何を言ってた?」
「確か、『扉』を探してる、とかブツブツ言っててよ」
「扉?」
「ああ。なんだか要領を得なくてよ、魔物にやられて頭がおかしくなったかと思ったが……そいつの目はマジだったぜ」
男の言葉が、エミルの脳内を駆け巡る。
——扉だと?
おれと同じような格好をしていた男が探していた扉?
それってもしかして……、元の世界に通じる扉の可能性があるんじゃないか?
飛躍したこじつけかもしれない。ただの狂人の話かもしれない。
でも、もしそれが本当なら……。
「そいつは……その男は、どこへ行ったんだ!?」
気づけば、男の肩を掴んで揺さぶっていた。
男は目を白黒させながら、南の方角を指さした。
「だから落ち着けって! 南にある、『タルマの森』だ。そこにあるダンジョンの話をしたら、すっ飛んでいきやがったよ。そっから先は知らねえ」
タルマの森。
その名前に、エミルの動きが止まった。
ゆっくりと、手の中にある依頼書を見下ろす。ギルド長ブラドが渡してくれた、薬草採集の依頼書。
その場所は——タルマ村近くの森。
同じ場所だ。
「……偶然じゃ、ないよな」
運命なんて大層なものは信じない。神様が導いてくれるとか、そんな都合のいい話があるわけがない。
だが、そこに行けば何かがある。根拠のない予感が、背中を押していた。
「おい、お前さん大丈夫か? 顔色悪いぜ」
「……ああ、大丈夫だ。ありがとう、おっさん」
「礼を言われるようなことはしてねえがな。まあ、気をつけて行きな」
男はひらひらと手を振り、再び酒瓶に口をつけた。
エミルはギルドの扉を押し開け、夜の街に出た。冷たい風が頬を撫でる。
——今すぐ走り出したい。
だが、ダメだ。焦っちゃダメだ。ダンジョンに潜るなら、装備を整えないといけない。丸腰で行ってもこの間の二の舞いだ。
ふと目に入ったのは、冒険者ギルドの横にある換金所だった。
そういえばと、財布の中身を確認する。日本円の紙幣はこの世界では何の価値もないだろう。
——でも、もしかしたら。
「これ、換金できるか」
換金所のカウンターに紙幣を差し出すと、店主は怪訝な顔をした。
「なんだこりゃ。……紙切れか?」
「極東の、珍しい国の紙幣だ。精巧な透かしが入ってる。美術品としての価値はあるはずだ」
男店主はルーペでお札をじっくりと観察すると、やがて「ほう」と感心した声を漏らした。
「確かに、見たことのない紙とインクだ。この細密画は手書きじゃねえな……魔道具の類か?」
「さあな。で、いくらになる?」
「ふむ、そうだなあ……全部で八万ルミナでどうだ?」
——八万。
思わず声が裏返りそうになるのを、なんとか堪えた。
薬草採集の報酬が千ルミナ程度だった。単純計算でクエスト八十回分。当面の生活費には困らない大金だ。
「……頼む」
重みのある革袋を受け取り、エミルは夜の街へと繰り出した。
とはいえ無駄遣いはできない。次は宿だ。
路地裏を歩いていると、「一泊五百ルミナ」という看板を掲げた安宿が目に入った。
部屋は狭く、カビ臭い。ベッドは木枠に藁を敷いただけの粗末なものだ。
「……硬いけど、昨日の野宿よりかはマシか」
ギシギシと鳴るベッドに横たわると、どっと疲れが押し寄せてきた。
この二日間で、あまりに多くのことがありすぎた。
母の死。異世界転移。魔物との遭遇。アヤメという少女との出会いと別れ。そして今日、冒険者になった。
展開の速さに、頭が追いつかない。
なのに、一人になると、考えるのは結局同じことだ。
「……母さん」
声に出すと、視界が滲んだ。
一人の部屋は、静かすぎる。
日本にいた頃は、薄い壁の向こうから母の生活音が聞こえていた。テレビの音に、食器を洗う音。時々聞こえる鼻歌。
今はもう、何も聞こえない。
エミルは枕に顔を埋め、声を押し殺して夜を明かした。
—————
翌朝。
エミルは早起きして、市場の武具屋を訪れていた。
ショーケースに並ぶ煌びやかな剣や鎧には目もくれない。今の自分に必要なのは“英雄の装備”ではなく、“生き残るための道具”だ。
「短剣をくれ。丈夫で、扱いやすいやつ」
「あいよ。予算は?」
「使いやすいのなら何でもいい」
店主は少し怪訝な顔をしたが、樽に放り込まれていた鉄製の短剣を一本抜いて渡してくれた。
「ならこいつだ。三千ルミナでどうだ?」
受け取ると、ずしりと重い。
剣術なんて習ったこともないが、丸腰よりはマシだ。
「あと、防具も頼む。これも動きやすさ重視で」
結局、麻のシャツに革のベスト、丈夫なズボンとブーツ、それにベルトと収納袋を一式揃えた。
試着室で着替えると、鏡に映った自分はどこからどう見ても駆け出しの冒険者だ。
血と泥で汚れたワイシャツとスラックスは、丁寧に畳んで袋の一番奥にしまった。
母の血が染みたシャツだ。捨てることなんてできない。これがあれば、いつでも思い出せる。今の自分の原点だ。
最後に市場で干し肉と硬いパン、水袋を買い込み、準備は整った。
ラグネシアの南門。
巨大な石造りの門の両脇には、槍を持った屈強な衛兵が立ち、鋭い視線で人々を監視している。
武装した冒険者の一団が、慣れた様子でギルドカードを提示し、談笑しながら街の外へ出ていく。
「……次」
エミルも彼らに倣い、懐からカードを取り出して衛兵に差し出す。
衛兵はカードを受け取ると、『E級』の文字を一瞥し、鼻で笑ったような顔をした。
「死になさんなよ」
「……忠告どうも」
露骨な態度だったが、今さら気にしてもしょうがない。
巨大な石造りの門をくぐると、世界が変わった気がした。
街の喧騒が遠ざかり、代わりに風の音が耳に届く。目の前には、見渡す限りの草原が広がっている。
——行くか。
仲間はいない。魔法も使えない。剣の腕もない。
あるのは復讐心と、昨夜の酔っ払いがくれたわずかな希望だけ。
見当違いかもしれない。
空振りかもしれない。
だが、今はそれだけが頼りだ。
エミルは革のベルトをきつく締め直すと、広大な草原へと一歩を踏み出した。




