第069話 五里霧中
パチパチと焚き火が爆ぜる音が、夜の静寂を柔らかく包んでいる。
鍛冶の都グロムハルトを背にしてから、三日が過ぎた。街道を外れた森の中、見上げれば満天の星。空気は澄み、虫の声が遠くで響いている。
——悪くない。
エミルはスープを啜りながら、そんなことを考えていた。
「エミル様! 見てください、キノコが採れましたよ!」
アヤメが瞳を輝かせて駆け寄ってくる。その手には、どう見ても禍々しい紫色の斑点が浮き出た物体が握られていた。
「これ、焼いて食べてみませんか?」
「おいアヤメ! それ、腹壊すやつだぞ! エミルに変なモン食わせんな!」
バルディアが慌てて割り込んでくる。
「あれっ、てっきりエミル様なら【毒耐性】スキルがあるから平気かと……ダメでしたか」
「ダメに決まってるだろ。バルディアも食べるんだ。大丈夫なやつを持ってこい」
「しょうがねえな。アタシが採ったやつ、分けてやるよ」
「なんでおれが施し受ける側になってんだよ……」
エミルは苦笑いを浮かべた。
歳の近いアヤメとバルディアはすぐに打ち解け、まるで姉妹のようにじゃれ合っている。ここにエミルが加わることで、三人のやり取りは不思議な一体感を生み出していた。
——『仲間』か。
まだ、その言葉には慣れない。
かつて日本で味わった裏切りと孤独。その傷は、異世界に来てからもまだ疼いている。
誰も信じない。利用できるものは利用して、元の世界に帰る。そう誓ったはずだった。
なのに——。
アヤメを助けたい。バルディアの師匠を救いたい。そうやって必死になるうちに、いつの間にか彼女たちといることが、復讐と同じくらい大きなものになっていた。
ふと、首から下げているお守りを、服の上からそっと握りしめる。母が作ってくれた、手作りのお守り。
復讐を忘れたわけじゃない。元の世界に戻って、母を殺したあの男を見つけ出す。その決意は、今も胸の奥で燃えている。
だが、それと同時に——この温かい時間を守りたいと思う自分も、確かにここにいた。
「おいエミル! ぼーっとしてると、全部アヤメに食われるぞ!」
「ちょっと、人聞きの悪い! わたしはそんなに食べませんよ!」
「……おれの分は残しておけよ」
呆れつつスープを受け取る。野菜とキノコの素朴な味が、疲れた体に染み渡った。
こんな時間が、今は何より温かかった。
—————
翌朝、一行は早々に野営を切り上げ、旅を再開した。
彼らの移動手段は、馬車ではない。
「よし、今日も頼むぞ、クマ吉」
エミルが声をかけると、木陰で丸まっていた巨体がのっそりと身を起こす。グロムハルト近くの森で遭遇し、エミルが従えた熊型の魔物だ。
体高は馬の数倍はある。三人が乗ってもまだ余裕があるほどの巨体は、頼もしい限りだった。
「エミル様、その呼び方なんとかなりませんか……」
「いいだろ、わかりやすくて」
グルゥと低く唸るクマ吉。
「ほら、本人も気に入ってる」
「完全にペット扱いだな。師匠が見たら腰抜かすぜ」
バルディアが呆れたように笑う。
エミルに続き、アヤメとバルディアも広々とした背中に乗り込む。
これは、グロムハルトのダンジョンで獲得したスキル【念話】のおかげだった。といっても、「背中に乗せろ」とか「真っ直ぐ進め」といった簡単な指示を送るのが精一杯だ。それでも、魔物に命令ができるこのスキルは、旅において絶大な効果を発揮していた。
「この調子なら、あと一日もあればセルディスに着きそうですね」
「悪りいな、グロムハルトから出てる馬車は少ないからよ。クマ吉に頼ることになっちまった」
「いえ、それは仕方がないことなので。まだ時間には余裕がありますし」
アヤメとバルディアの会話を、エミルは黙って聞いていた。
——アヤメは笑っているが、どこか無理をしているのがおれでもわかる。
病に倒れた父親のこと。一日でも早くシオン国に戻りたいはずなのに、彼女はそれを表に出さない。強がりで、背伸びしていて。でも、だからこそ——。
そんなことを考えながら進んでいた、その時だった。
異変は、唐突に訪れた。
「なあ、エミル。道合ってるのか? なんか……ニオイが変わってきたぞ?」
バルディアが鼻をひくつかせ、狐の耳をピクリと動かす。
気づけば、さっきまで晴れ渡っていた空が曇り空に変わっている。それだけではない。じっとりと肌にまとわりつくような、濃い湿気を含んだ空気が流れ込んできた。
「霧、ですかね……?」
アヤメが不安げに空を見上げる。
白い霧が、みるみるうちに周囲の景色を飲み込んでいく。数分もしないうちに、数メートル先も見通せないほどの濃霧になった。
「おい、クマ吉のスピードも落ちてるぞ」
バルディアの言う通り、魔物の足取りも明らかに鈍くなっている。巨体が小刻みに震え、怯えているのが伝わってきた。
「このスキルは一方通行で、こいつの意思までは読み取れないからな……。ひとまず止まれ!」
【念話】で魔物を止め、三人は背中から降りた。足元の草が、異様に冷たく湿っている。
「ニオイもそうだが魔力の感覚まで変だ。どこだここはよ……」
「【魔力探知】もダメだ。霧自体に微弱な魔力が混じってて、ノイズがひどい」
「セルディスへの道中でこんな濃霧……聞いたことねえ……」
「バルディアちゃんも知らないなら、闇雲に進むのは危険ですね……」
バルディアが炎のガントレットを構え、警戒を強める。アヤメも刀の柄に手をかけた。
「エミル様、どうしますか?」
「食料はまだある。一旦ここで野営して様子を見よう。それでも霧が晴れなかったら……進むしかないが」
「そうですね、霧はいずれ晴れるでしょうし」
「にしし。食料が尽きそうになったら、ここにちょうどいいのもいるしな!」
バルディアは笑顔でクマ吉を見る。クマ吉はびくっと震え、怯えた目を向けた。
ひとまず、簡単な野営準備をして時間を潰すこととした。下手に動くわけにもいかないので、調理はせず【アイテムボックス】に収納していた携帯食料を取り出す。
アヤメとバルディアに渡し、食べようとしたその瞬間だった。
ゾクリ。
【魔力探知】に引っかかった不穏な気配。エミルは咄嗟に右手に意識を集中させた。
「エミル様、どうしました?」
「誰か近づいてくる。距離は五十メートル……いや、もう近い……」
「え?」
ドシュッ!
鋭い音が霧を裂いた。
グオォォォォォ……!
「クマ吉!?」
振り返ると、そこには苦悶の声を上げて地面に伏すクマ吉の姿があった。巨大な背中に、太い矢が深々と突き刺さっている。
「敵襲か……!?」
即座に戦闘態勢に入る。三人は背中合わせになり、霧の向こうを警戒した。
——どこから飛んできた?
こんな霧の中、的確にコイツを狙って……?
くそ、ノイズがひどくて方向がわからない……!
ザッ、ザッ、ザッ……。
足音が、静寂の中に響く。
ゆっくりと、確実に近づいてくる。
やがて霧が揺らぎ、一つの人影がゆらりと姿を現した。
弓を構えた、長身の人影。
「——動くな」
霧の向こうから、凛とした声が響いた。




