第068話 旅立ち
宴の熱気が冷めやらぬ翌朝。
工房の前で、エミルは背負い袋の紐をぐっと締め直した。
「よし、荷物はこんなもんか」
確認すると、隣で小柄な狐獣人の少女——バルディアが、自分の体ほどもありそうな工具鞄をバンッと叩いた。
「アタシも準備万端だぜ!」
「では、ヘパイストス様にご挨拶に伺いましょうか」
アヤメが穏やかに促す。三人は石畳の道を、治療院へと歩き出した。
グロムハルトの朝は早い。鍛冶の槌音があちこちから響き、煙突からは黒い煙が立ち上っている。その活気ある街並みを歩きながら、エミルはずっと気になっていたことを口にした。
「そういえば、アヤメはどうやってシオン国からここまで来たんだ? デメテルの大地は、アプスの大地とは離れてるんだよな?」
「それはですね……『転移石』を使ったんです」
「転移石?」
「はい。一度使うと壊れてしまう消耗品なんですが、一瞬で空間を跳躍できる希少な魔石で……。父を看病してくれている仲間が持たせてくれたんです」
「おれが使う『空間転移』より広範囲な魔石か。便利な石があるんだな」
「転移石か……聞いたことねえ石だな。石は詳しいつもりだったんだけど、どんな石だ?」
バルディアが興味津々に身を乗り出す。
「わたしも詳しくは知らないんですけど、その仲間が元商人でして。なんでも、一部の商人にしか流通していない特殊な魔石なんだとか」
「へえ。まあ商人も神脈を渡るのは命がけだし、そういう石があるのもおかしくねえか」
納得したように頷くバルディアだが、エミルの方はちんぷんかんぷんだった。
「……おい待て。その神脈ってのはなんだ?」
エミルが聞き返すと、バルディアが呆れたような顔をした。
「オマエ、本気で言ってんのか? 大地と大地の間を移動するには、空を飛ぶ特別な船に乗るしかねえんだ。で、その船が通る道を神脈っていうんだよ。空に流れる魔力の川みたいなもんだな」
「空を飛ぶ船なんてあるのか……」
「ソイツがねえと他の大地に行けねえからな。神脈は神獣から流れる魔力が成してると言われてんだ。常識だぞ常識。……ったく、エミルは何も知らねえんだな」
「……悪かったな」
「でも、その神脈を渡るのはとても危険なんです。魔力が強いだけに、魔物の群れや、魔力の乱気流に巻き込まれれば、船ごと真っ逆さまですから」
エミルがふてくされると、アヤメがフォローするように微笑んだ。
「だから、安全な航路を読み解くのが必要なんです。それが、専門職である『星読師』。魔力の流れを読み、船を導く水先案内人です。彼らがいないと、わたしたちは空を渡ることすらできません」
「なるほど、特殊な環境には特殊な職業があるんだな……」
——地球で言えば、機長や船長のような、旅の命運を握る重要な存在、といったところか。
「だからよ、エミル。安全に航行したいなら、腕利きを雇わなきゃいけねえんだ」
「有能な方ほど人気で、雇うにも大金が必要なんです。だからまずは、セルディス王国に戻って星読師を探さないといけませんね」
「じゃあ行き先は決まりだな。……にしても、アヤメはやけに詳しいんだな。ずっと鎖国状態の国で暮らしてたんだろ?」
「えへへ……。小さい頃から、外の世界にずっと憧れていたんです。いつか旅に出る日のために、本を読んだり、たまに来る商人の方に話を聞いたりして……」
アヤメは少し照れたように笑った。
「さっきの元商人ってやつか。てっきり、完全に外部との交流を絶っているものかと……」
「アプス様の大地は、海に浮かぶ孤島という特殊な環境なんです。往来が難しいだけで、最低限の交易は行っているんですよ」
エミルは「なるほどな」と頷いた。そんな話をしているうちに、三人は治療院に到着した。
治療院の個室に入ると、ヘパイストスはすでにベッドの上で身支度を整えていた。
「退院おめでとう、ヘパイストスさん。これでまた鍛冶師として活動できるんだろ?」
「そうじゃな。ウォルコットのやつに、若いドワーフ共を育てる特別講師も頼まれてしもうてな。隠居する暇もなさそうじゃ」
ヘパイストスの笑顔は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだ。
「ヘパイストス様、お体、大事にされてくださいね」
「ほほ……なあに、ドワーフは長寿の種族じゃ。若い人族には負けやせんよ」
「へへっ。ボケてる暇なんてねえな!」
バルディアが照れ隠しのように軽口を叩く。
だが、その尻尾は不安げに揺れていた。
いよいよ、別れの時だ。
ヘパイストスが、ゆっくりとバルディアの方を向く。
その視線だけで、場の空気が変わった。
「……行くのか」
「ああ!」
短く、力強い返事。
だが、バルディアの大きな瞳には、すでに涙が溜まり始めている。
「じゃあ、師匠。その、なんだ……」
いつもは減らず口ばかり叩く口が、上手く回らない。
小さな手が、もじもじと裾を握りしめる。
「今まで……アタシを育ててくれて、ありがと。……本当に、ありがとな」
「……」
「師匠が拾ってくれなきゃ、アタシは……」
言葉が詰まる。
捨てられていた半獣人の自分を、偏見もなく、実の娘のように育ててくれた。技術を、生き方を、全てをくれた人。
その恩を、どうやって言葉にすればいいのか。バルディアは探しているようだった。
ヘパイストスは苦笑し、大きな手でバルディアの頭をガシガシと撫でた。
「ほほ……お前は本当に、泣き虫が治らんのぅ」
そう言うヘパイストスの目尻にも、光るものが浮かんでいる。
「アタシは……鍛冶師を辞めることはねえよ。これはアタシが決めた道なんだ」
バルディアは涙を拭いながら、それでも真っ直ぐにヘパイストスを見上げた。
「それでもきっと、これから見る外の世界は、鍛冶師として必ず欠かせないものになると思う。師匠の一番弟子はアタシだって、次の世界一はアタシだって……その証を立ててくるからさ……! だから、元気で待っててくれよな」
「ああ。ここはお前の家でもある。楽しみに待っとるぞ」
バルディアはたまらず、ヘパイストスの厚い胸板に飛び込んだ。
小さな体を、ヘパイストスは優しく抱きしめた。その背を撫でながら、目を閉じる。
「エミルにアヤメ。バルディアのこと、頼んだぞ」
「ああ、任せてくれ」
「はい! 絶対に後悔させませんから!」
二人が力強く頷くと、ヘパイストスは満足そうに頷く。
治療院を出ると、外は突き抜けるような青空だった。
グロムハルトの熱気を含んだ風が、三人の背中を押す。
「じゃあ師匠、元気でな!」
「ほほ、おねしょして迷惑かけるなよ」
「だからしねえっつの!」
軽口を叩き合いながら、三人はゆっくりと背を向け歩き出した。
その背中を、ヘパイストスはいつまでも見送っていた。
「まずはセルディスに戻って、星読師探しだな」
エミルの言葉に、二人の少女は力強く頷いた。




