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黒焔の復讐者は禁忌を宿して異世界を往く  作者: 美希昌希
第二章:グロムハルト編
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第059話 取引をしよう

 槍で貫かれた脇腹が、脈打つように熱い。魔力が枯渇しかけた身体は鉛のように重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。


「はぁ……っ、はぁ……」


 静まり返った空間に、荒い息遣いだけが響く。


 ——勝った。あの変幻自在の化け物に、勝ったんだ。


 だが、勝利の昂揚感なんて欠片も湧いてこない。あるのは張り詰めていた糸が切れた後の、ひどく重い疲労感だけ。


 ゆっくりと顔を上げる。


 目に映るのは、うつ伏せに倒れているアヤメと、壁にもたれかかるバルディア。


 ——二人とも、無事か?


 さっきまで声を張り上げていたバルディアも、さすがに限界が来たんだろう。決着がついたことで、緊張の糸が切れたのかもしれない。


 胸の奥がずきりと痛む。


 ——無茶を、させたな。

 おれがもっと強ければ。もっと上手く立ち回れていれば。

 こんなボロボロになるまで戦わせる必要はなかったはずだ。


 一人じゃ、絶対に勝てなかった。その事実が、誇らしさよりも先に、自分の不甲斐なさとして突き刺さる。


「……っ、ぐ」


 痛む身体に鞭打ち、壁に手をつきながらよろよろと立ち上がる。


 まだ終わってない。戦いの元凶は討ったが、本当の目的——囚われたドワーフたちの救出が残っている。


 広間の奥、鉄格子がはめられた牢獄へ向かう。


 そこには、投げ出された人形みたいに折り重なって倒れる、十数人のドワーフたちの姿があった。


「奴が倒れたことで拘束は解けたのか……。全員、生きてるのか?」


 確認しようと鉄格子に手を伸ばした、その時だった。


「……見事だったよ、エミルちゃん」


 背後から聞こえた声に、心臓が跳ね上がる。


 振り返ると、先ほど倒したはずのアレスが壁にもたれかかって座り込んでいた。もはや人の形すら留めていない。全身の泥はカサカサに乾き、あちこちがひび割れ、顔の半分が崩れ落ちている。


「お前……あれだけのダメージで、まだ……!」

「かろうじて、ね」


 けほり、と咳き込むと、口元から乾いた泥の塊がぼろりと落ちた。


「君との戦いで魔力をごっそり削られちゃったから、もう身体を維持するだけで精一杯だよ」


 それでも戦闘態勢を取ろうとするが、指先が震えて力が入らない。アレスは崩れかけた泥の腕をひらひらと振った。


「そう睨まないでほしいな。悔しいけど勝負はついた。もう君と戦う力なんて残ってないよ」


 アレスの視線が、牢の中のドワーフたちへ移る。


「ああ、彼らのことは心配いらないよ。今は首輪で眠らされているだけさ。強引に外そうとすれば首が飛ぶけど、君の力なら解除できるんじゃないかな」


 ——おれの、力。

 敵の魔力そのものを塗り潰すような、あの謎の力。確かにこれなら首輪の呪いごと無力化できるかもしれない。


 張り詰めていた肩から、わずかに力が抜ける。最悪の事態だけは避けられたらしい。


 しかし、かといって油断はできない。こいつは一体、何を企んでいる?


 エミルの警戒心などお構いなしに、アレスはまるで世間話でもするかのように口を開いた。


「いやぁ、まいったな。僕はただ、楽しく仕事がしたいだけなんだけどね」

「仕事だと? ドワーフを攫い、戦争の火種をばら撒く。それがお前の『楽しい仕事』かよ」


 声に、隠しきれない怒りが滲む。アレスは意に介さず、自嘲するような笑みを浮かべた。


「そうだよ。刺激的で、自分の力を好きに振る舞える。最高の仕事さ。でもね……」


 崩れかけた身体を見下ろす。その瞳に初めて、人間らしい恐怖が宿った。


「……死んでまで組織に忠誠を誓うほどじゃないかな」


 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

 アレスは泥だらけの顔を上げ、エミルの目をまっすぐに見据える。


「エミルちゃん、取引をしよう」

「……取引?」

「僕と、そこで伸びてるキャラコちゃんを見逃してくれないかな。そうすれば……僕らの組織の情報を、知っている限り教えてあげるよ」

「組織の、情報?」


 思わぬ提案に、思考が停止する。


 こいつが所属し、これだけの事件を引き起こしている組織。その情報を得られれば、元の世界に戻れる方法だけでなく、この世界に自分を呼んだ者の正体に近づけるかもしれない。


 喉から手が出るほど欲しい情報。しかし、目の前にいるのはバルディアの師匠を拉致し、自分たちを殺そうとした男だ。


「……どうしてお前を信じられる? 口先だけで逃げおおせるつもりじゃないだろうな」

「はは、疑り深いね。でも考えてみてよ。このまま組織に戻ったって、待ってるのは失敗の責任を取らされる処分だけ。君たちに殺されるのも、組織に消されるのも、僕にすりゃ大差ない。だったら、生き残れる可能性に賭けるのが合理的だと思わない?」


 理路整然とした言葉。だからこそ、たちが悪い。


 答えに詰まっていると、背後で微かな呻き声がした。


「……ぅ……エミル、様……?」


 振り返ると、アヤメが薄目を開けてこちらを見上げていた。まだ意識は朦朧としているようだ。


「師匠たちを……早く、解放しねえと……」


 反対側では、バルディアも身じろぎして起き上がろうとしている。


「さあ、どうする? ああ、エルビラちゃんは好きにしていいよ。彼は何も知らない、ただの雇われ傭兵だからね」


 情報を得る絶好の機会。だがそれは同時に、息を吹き返したばかりの二人を再び危険に晒す行為かもしれない。それに、こいつの口車に乗っていいものか。


 ——どうする……。どうすればいい……?


 脳内で、天秤が激しく揺れる。


 『この世界の情報』と、『二人の安全』。

 どちらも、今の自分にとっては捨てられないものだ。


 壁に身体を預けながら、アヤメが真剣な眼差しでエミルを見ている。


「……エミル様、敵を逃がすのは……わたしは反対です」

「おい、エミル」


 今度はバルディアの声。憎しみに燃える琥珀色の瞳が、まっすぐにアレスを射抜いている。


「アヤメの言うとおりだ。迷うことはねえ。コイツは瀕死なんだ、無理やり吐かせることだってできるぞ」


 ——確かに、それが一番確実だ。

 どんなことをしたって元の世界に帰り、復讐を果たしたいのは本心だ。

 だが、そんなことをすれば……。


「ふふふ、怖いねえバルディアちゃん。でもね、僕が瀕死だってことを忘れないでほしいな」

「んだと……?」

「このまま黙って自害する手もあるってことさ。そうなったら、君たちには何のメリットもないけどね」


 アレスは挑発するように笑う。


 足元を見てやがる。だが、選択肢は限られている。


「アヤメ、バルディア。おれは——」


 決断の言葉を口にしかけた、その瞬間だった。


「……ぁれ?」


 アレスの口から、間の抜けた声が漏れた。


 彼の不完全な泥の身体が、突如として内側から淡い光を放ち始めたのだ。


「な、なに……これは……?」


 狼狽えるアレス。


 光は瞬く間に全身へと広がっていく。それは神々しい光などではない。存在そのものを否定し、この世界から消し去ろうとするような、冷たく無慈悲な輝きだった。


 泥の身体が、光の粒子となってサラサラと崩れ落ちていく。


 もはや消滅は避けられない。それを悟ったのだろう。アレスは最後の力を振り絞るように、エミルを見据えた。憎悪と、ほんのわずかな憐れみを込めた目で。


「ふふふ、そう来たか……。エミルちゃん、どうやら君も……」


 その言葉が、呪いのように響き渡る。


「……『追われる側』のようだね」


 不敵な笑みを残したまま、アレスの身体は完全に光へと変わり、塵一つ残さず消え去った。


 後に残ったのは、ただの静寂だけ。


「……」


 誰もが言葉を失っていた。最初からそこに誰もいなかったかのように、アレスの気配が綺麗さっぱり消滅している。


「おい、エミル! あっちのデカブツもだ!」


 バルディアの叫び声に、はっとして振り返る。


 彼女が指差す先、広間の入り口付近で倒れていたはずのキャラコの巨体もまた、同じ光に包まれて静かに消滅していくところだった。


 しかし、その隣で気を失っていたエルビラの身体に変化はない。


「……どういう、ことだ」

「クソ……師匠たちも危ねえ!」


 バルディアがドワーフの元へ走る。何者かの襲撃に備え、エミルとアヤメは即座に臨戦態勢を取った。


 ——見られている?

 どこかから、得体の知れない何かが、おれたちを見ているのか?


 アレスの最期の言葉が、耳の奥で粘り着くように繰り返される。


 ——『どうやら君も……追われる側のようだね』


 背筋を冷たい汗が伝った。


 そこからどれくらいの時間が経っただろう。


 警戒を続ける三人を嘲笑うかのように、広間は不気味な静寂に包まれたままだった。

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