第059話 取引をしよう
槍で貫かれた脇腹が、脈打つように熱い。魔力が枯渇しかけた身体は鉛のように重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。
「はぁ……っ、はぁ……」
静まり返った空間に、荒い息遣いだけが響く。
——勝った。あの変幻自在の化け物に、勝ったんだ。
だが、勝利の昂揚感なんて欠片も湧いてこない。あるのは張り詰めていた糸が切れた後の、ひどく重い疲労感だけ。
ゆっくりと顔を上げる。
目に映るのは、うつ伏せに倒れているアヤメと、壁にもたれかかるバルディア。
——二人とも、無事か?
さっきまで声を張り上げていたバルディアも、さすがに限界が来たんだろう。決着がついたことで、緊張の糸が切れたのかもしれない。
胸の奥がずきりと痛む。
——無茶を、させたな。
おれがもっと強ければ。もっと上手く立ち回れていれば。
こんなボロボロになるまで戦わせる必要はなかったはずだ。
一人じゃ、絶対に勝てなかった。その事実が、誇らしさよりも先に、自分の不甲斐なさとして突き刺さる。
「……っ、ぐ」
痛む身体に鞭打ち、壁に手をつきながらよろよろと立ち上がる。
まだ終わってない。戦いの元凶は討ったが、本当の目的——囚われたドワーフたちの救出が残っている。
広間の奥、鉄格子がはめられた牢獄へ向かう。
そこには、投げ出された人形みたいに折り重なって倒れる、十数人のドワーフたちの姿があった。
「奴が倒れたことで拘束は解けたのか……。全員、生きてるのか?」
確認しようと鉄格子に手を伸ばした、その時だった。
「……見事だったよ、エミルちゃん」
背後から聞こえた声に、心臓が跳ね上がる。
振り返ると、先ほど倒したはずのアレスが壁にもたれかかって座り込んでいた。もはや人の形すら留めていない。全身の泥はカサカサに乾き、あちこちがひび割れ、顔の半分が崩れ落ちている。
「お前……あれだけのダメージで、まだ……!」
「かろうじて、ね」
けほり、と咳き込むと、口元から乾いた泥の塊がぼろりと落ちた。
「君との戦いで魔力をごっそり削られちゃったから、もう身体を維持するだけで精一杯だよ」
それでも戦闘態勢を取ろうとするが、指先が震えて力が入らない。アレスは崩れかけた泥の腕をひらひらと振った。
「そう睨まないでほしいな。悔しいけど勝負はついた。もう君と戦う力なんて残ってないよ」
アレスの視線が、牢の中のドワーフたちへ移る。
「ああ、彼らのことは心配いらないよ。今は首輪で眠らされているだけさ。強引に外そうとすれば首が飛ぶけど、君の力なら解除できるんじゃないかな」
——おれの、力。
敵の魔力そのものを塗り潰すような、あの謎の力。確かにこれなら首輪の呪いごと無力化できるかもしれない。
張り詰めていた肩から、わずかに力が抜ける。最悪の事態だけは避けられたらしい。
しかし、かといって油断はできない。こいつは一体、何を企んでいる?
エミルの警戒心などお構いなしに、アレスはまるで世間話でもするかのように口を開いた。
「いやぁ、まいったな。僕はただ、楽しく仕事がしたいだけなんだけどね」
「仕事だと? ドワーフを攫い、戦争の火種をばら撒く。それがお前の『楽しい仕事』かよ」
声に、隠しきれない怒りが滲む。アレスは意に介さず、自嘲するような笑みを浮かべた。
「そうだよ。刺激的で、自分の力を好きに振る舞える。最高の仕事さ。でもね……」
崩れかけた身体を見下ろす。その瞳に初めて、人間らしい恐怖が宿った。
「……死んでまで組織に忠誠を誓うほどじゃないかな」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
アレスは泥だらけの顔を上げ、エミルの目をまっすぐに見据える。
「エミルちゃん、取引をしよう」
「……取引?」
「僕と、そこで伸びてるキャラコちゃんを見逃してくれないかな。そうすれば……僕らの組織の情報を、知っている限り教えてあげるよ」
「組織の、情報?」
思わぬ提案に、思考が停止する。
こいつが所属し、これだけの事件を引き起こしている組織。その情報を得られれば、元の世界に戻れる方法だけでなく、この世界に自分を呼んだ者の正体に近づけるかもしれない。
喉から手が出るほど欲しい情報。しかし、目の前にいるのはバルディアの師匠を拉致し、自分たちを殺そうとした男だ。
「……どうしてお前を信じられる? 口先だけで逃げおおせるつもりじゃないだろうな」
「はは、疑り深いね。でも考えてみてよ。このまま組織に戻ったって、待ってるのは失敗の責任を取らされる処分だけ。君たちに殺されるのも、組織に消されるのも、僕にすりゃ大差ない。だったら、生き残れる可能性に賭けるのが合理的だと思わない?」
理路整然とした言葉。だからこそ、たちが悪い。
答えに詰まっていると、背後で微かな呻き声がした。
「……ぅ……エミル、様……?」
振り返ると、アヤメが薄目を開けてこちらを見上げていた。まだ意識は朦朧としているようだ。
「師匠たちを……早く、解放しねえと……」
反対側では、バルディアも身じろぎして起き上がろうとしている。
「さあ、どうする? ああ、エルビラちゃんは好きにしていいよ。彼は何も知らない、ただの雇われ傭兵だからね」
情報を得る絶好の機会。だがそれは同時に、息を吹き返したばかりの二人を再び危険に晒す行為かもしれない。それに、こいつの口車に乗っていいものか。
——どうする……。どうすればいい……?
脳内で、天秤が激しく揺れる。
『この世界の情報』と、『二人の安全』。
どちらも、今の自分にとっては捨てられないものだ。
壁に身体を預けながら、アヤメが真剣な眼差しでエミルを見ている。
「……エミル様、敵を逃がすのは……わたしは反対です」
「おい、エミル」
今度はバルディアの声。憎しみに燃える琥珀色の瞳が、まっすぐにアレスを射抜いている。
「アヤメの言うとおりだ。迷うことはねえ。コイツは瀕死なんだ、無理やり吐かせることだってできるぞ」
——確かに、それが一番確実だ。
どんなことをしたって元の世界に帰り、復讐を果たしたいのは本心だ。
だが、そんなことをすれば……。
「ふふふ、怖いねえバルディアちゃん。でもね、僕が瀕死だってことを忘れないでほしいな」
「んだと……?」
「このまま黙って自害する手もあるってことさ。そうなったら、君たちには何のメリットもないけどね」
アレスは挑発するように笑う。
足元を見てやがる。だが、選択肢は限られている。
「アヤメ、バルディア。おれは——」
決断の言葉を口にしかけた、その瞬間だった。
「……ぁれ?」
アレスの口から、間の抜けた声が漏れた。
彼の不完全な泥の身体が、突如として内側から淡い光を放ち始めたのだ。
「な、なに……これは……?」
狼狽えるアレス。
光は瞬く間に全身へと広がっていく。それは神々しい光などではない。存在そのものを否定し、この世界から消し去ろうとするような、冷たく無慈悲な輝きだった。
泥の身体が、光の粒子となってサラサラと崩れ落ちていく。
もはや消滅は避けられない。それを悟ったのだろう。アレスは最後の力を振り絞るように、エミルを見据えた。憎悪と、ほんのわずかな憐れみを込めた目で。
「ふふふ、そう来たか……。エミルちゃん、どうやら君も……」
その言葉が、呪いのように響き渡る。
「……『追われる側』のようだね」
不敵な笑みを残したまま、アレスの身体は完全に光へと変わり、塵一つ残さず消え去った。
後に残ったのは、ただの静寂だけ。
「……」
誰もが言葉を失っていた。最初からそこに誰もいなかったかのように、アレスの気配が綺麗さっぱり消滅している。
「おい、エミル! あっちのデカブツもだ!」
バルディアの叫び声に、はっとして振り返る。
彼女が指差す先、広間の入り口付近で倒れていたはずのキャラコの巨体もまた、同じ光に包まれて静かに消滅していくところだった。
しかし、その隣で気を失っていたエルビラの身体に変化はない。
「……どういう、ことだ」
「クソ……師匠たちも危ねえ!」
バルディアがドワーフの元へ走る。何者かの襲撃に備え、エミルとアヤメは即座に臨戦態勢を取った。
——見られている?
どこかから、得体の知れない何かが、おれたちを見ているのか?
アレスの最期の言葉が、耳の奥で粘り着くように繰り返される。
——『どうやら君も……追われる側のようだね』
背筋を冷たい汗が伝った。
そこからどれくらいの時間が経っただろう。
警戒を続ける三人を嘲笑うかのように、広間は不気味な静寂に包まれたままだった。




