第058話 エミル VS アレス②
「君のその力、素晴らしいじゃないか。僕らの組織に来れば、君の望みをすべて叶えてあげよう。富も、権力も、女も……君の思い通りさ。どう? もちろん、君の仲間の命も保障するよ」
泥まみれの空間に、アレスの声が反響した。
——望みを、叶える。
その言葉に、エミルの眉がぴくりと動いた。
一瞬、ほんの一瞬だけ、心が揺らぐ。
——なら、おれを元の世界に帰してくれるのか?
母さんの仇を……あのフードの男を、おれの目の前に引きずり出してくれるのか?
お前に、本当にそんなことができるというのか?
何も知らないくせに、簡単に望みを叶えるだなんて言うなよ……。
「……断る」
「おや、なぜだい?」
「おれの目的は、おれの力で果たす。お前みたいな奴の手は借りない」
エミルは泥を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「それに……目の前で誰かを失うのは、もうごめんなんだよ」
エミルから、どす黒い魔力がゆらりと立ち昇る。
それを見たアレスは、ふっと表情を消した。
「そっか。残念だよ」
笑みが消えた直後、アレスの肉体がボコボコと不快な音を立てて弾け飛んだ。
無数の泥の礫となって四方八方へ散らばり、エミルの死角へと回り込む。そして、それらが一斉に、鋭利な切っ先へと姿を変えた。
「『泥の千本槍』!!」
全方位から黒い槍の雨が襲いかかった。
「くそっ、スキル【硬化】……ッ!」
ドドドドドドドドドドドドドッ……!
瞬時に全身を黒い鎧で覆う。
だが、全方位からの攻撃に対応するには、あまりにも集中する時間が足りなかった。
「ぐっ……!」
硬化が間に合わなかった太腿と脇腹を、冷たく重い衝撃が貫く。
焼けるような激痛に、膝から崩れ落ちた。地面に赤い血が滴る。
「ははっ、なんだあ、ちゃんと攻撃食らうじゃん。今がチャンスってことかな?」
苦悶の表情を浮かべるエミルを見下ろし、アレスは八本の腕を生やした。その先端が、鋭い槍へと変形していく。
「終わりだよ、エミルちゃん。『触手多槍』!!!!」
勝負を決めにきた——まさにその瞬間だった。
「……ぐ、ふっ……」
不意に、アレスの口からどす黒い血がごぽりと溢れ出した。
突き出されようとしていた八本の槍が空中でピタリと止まり、ボロボロと泥に戻って崩れ落ちる。
「こ、これは……なん、だ……!?」
「なんだ……アレス。バルディアの攻撃、しっかり効いてるじゃないか」
バルディアの炎を練り込んだ攻撃は、泥の身体の奥深くまで浸透する。表面を泥に変えて逃げても、内部へのダメージだけは蓄積されていた。
「お前、殴っても泥に変化するからな……ちょっと戦い方を変えるよ」
「……今度は何をする気だい?」
アレスが訝しげに眉をひそめる。
エミルは答えない。代わりに、両手を軽く広げた。
次の瞬間——アレスの周囲に、無数の黒い歪みが浮かび上がった。
直径三十センチほどの、円形の虚空。まるで空間に穴が開いたかのような漆黒のゲートが、アレスを取り囲むように、虚空に静止している。
「これは……!」
「さっきお前がやってたやつ、参考にさせてもらった」
黒い歪みの奥から、『黒焔』を纏った岩の弾丸が姿を現した。拳大の弾丸が、その時を待つように不気味に浮かんでいる。
「『黒岩の散弾』——!!!」
全方位から、岩の弾丸が一斉に射出された。
「ふん、そんなもの——」
アレスは余裕の笑みを浮かべ、全身を泥に変えて岩を受け流そうとした。
だが。
「ぐっ……!?」
泥化した身体を、『黒焔』が焼く。岩に纏わせた漆黒の炎が、触れた瞬間にアレスの魔力を侵食していく。
アレスは舌打ちし、焼かれた部分を素早く切り離した。ボトボトと焦げた泥が床に落ち、残った身体が再び人型を形成していく。
「はぁ、はぁ……。ははは、やるじゃない、エミルちゃん」
息は荒いが、飄々とした口調は崩れない。
「でもね……こんな分散した攻撃じゃ、僕は倒せないよ? 一発一発のダメージなんて、たかが知れてるじゃないか」
「そう、だな」
エミルは、口の端をわずかに吊り上げた。
——これは、お前の意識を引きつけるためだけの攻撃だ。
アレスが岩を捌くことに集中している間、エミルは密かに別の魔力を練り上げていた。地面から、壁から、天井から——少しずつ、少しずつ、土くれを集めていた。
そして既に、アレスの頭上では巨大な球体が形成されていた。
「これは……?」
ただの土の球体ではない。その表面を、エミルの黒焔が漆黒の炎となって覆い尽くしていく。
「『夜帳・円』」
黒焔を纏った巨大な土の球体が、アレスを飲み込むように落下した。
「くっ……!」
アレスは咄嗟に泥の身体で防御壁を張るが、球体はその防御ごと彼を呑み込み、完全な球形となって閉じ込めた。
エミルが両手を握り込むと、球体は音もなく、じわじわと収縮を始めた。土の密度が高まり、重みと圧力が内側からかかっていく。
「ちょ、ちょっとエミルちゃん、これ……やばくない? 解いてくれないかな……ねえ?」
「……」
「許してくれよ……悪かったから……ねえ、エミルちゃん聞いてる?」
内部からアレスの焦った声が響く。だが、エミルは一切応じない。
「ちょ、ちょっと、ほんとに……なんて、命乞いするとでも思ったかい?」
「何……?」
声色が変わった。アレスは息を整え、再び余裕ある調子に戻る。
「君さ、僕の魔力を馬鹿にしてない? こんなの、内部から包み返して、支配力を僕に移すことだって……」
ゴゴゴゴ……と、球体が内側からの凄まじい力で膨張し始めた。しかし。
「……あれ? おかしいな、反応……しない……?」
「そんなの、とっくに想定済みだ」
——こいつの泥は、魔力でできている。なら、内側からこちらの魔力を支配し返すことくらい、考えていて当然だ。
それに、おれの『黒焔』はただの攻撃じゃない。あらゆる魔力を喰らい、支配する性質を持つ。
球体に『黒焔』を張り巡らせておけば、奴が泥で干渉しようとした瞬間、その支配力ごと相殺できる。
いわば、魔力干渉を封じるための結界だ。これで、お前はもはやただの泥団子だ。
エミルは両手をぎゅっと握り合わせる。球体を維持していた力を、一気に圧縮へと切り替えた。
「や、やめ……ぐぎ……ぁ……!」
断末魔の叫び。
そして——。
バキィィィンッ!!
圧縮の限界を超えた球体が、内側から弾けるように崩壊した。
ボトッ……。
崩れた球体の隙間から、原型を留めない泥の塊が流れ出す。かろうじて人型を保とうとはしているが、その身体は黒く濁り、もはや力の気配は欠片も残っていなかった。
「はぁ……はぁ……」
ゆっくりとその場に座り込む。壁にもたれかかり、荒い呼吸を整えた。




