第056話 世界一の弟子
全身が悲鳴を上げている。
視界がぼやけ、足元がふらつく。さっきまで体を包んでいた気持ち悪さが、まだ消えてくれない。
「げほっ、ごほっ……! はぁ……、はぁ……」
激しく咳き込みながら、バルディアは必死に空気を肺へと送り込む。
弾き飛ばされた泥の塊が、ぬるりと人の形を取り戻していく。
「……やっとアタシの体から離れやがったか……この変態ヤロウめ」
「驚いたよ。君にそれほどの力があるなんてね」
アレスは服の汚れを払いながら、涼しい顔で笑った。
対照的に、バルディアの膝はガクガクと震えている。
「君のそのガントレット、魔力を増幅させる機能でもあるのかな? だとしても、今の君は魔力制御がまだ完璧じゃない。そんな無茶な力を振るえばどうなるか……もう魔力切れも近いんじゃないかな?」
「敵の心配してるたあ……随分余裕だな、おい」
「ふふふ……何せ、一時的にでも君の師匠だったんだからね」
「テメエ……ッ!」
その言葉に、バルディアの顔が憎悪に歪む。
だがアレスの指摘は正しかった。
視界がぐらついて、立っているだけで精一杯だ。
——くそ……アタシの魔力じゃ、もうあと二、三発が限界か……。それじゃコイツを仕留めきれねえ……どうすれば……。
絶望が心を黒く塗りつぶしかけたその時、ふと脳裏にある光景が蘇った。
——待てよ。そういやコイツ、エミルの最初の攻撃は食らってたな。
バルディアは歯を食いしばり、必死に記憶を手繰り寄せた。
——アタシの攻撃は全部避けるか受け流してた。なのに、エミルの最初の一撃はまともに食らってた。そういや、コロシアムが崩れたときも、やっぱり食らってた。
食らったときと、避けたとき。何が違う?
「ふむ、考え事かい、バルディアちゃん」
思考に沈みかけた意識を、殺気が引き戻した。
アレスの両腕がぶわりと膨れ上がり、八本の鋭利な槍へと変形した。
「僕を前にして集中が切れるなんて……危ないよ。『触手多槍』!!」
八方向から、回避不能の槍が襲いかかる。
「ちっ!」
咄嗟に跳躍し、空中で身体を捻って致命傷を避ける。だが、数本の槍がわき腹と太腿を抉り、焼けるような痛みが走った。
「ぐっ……ああぁぁ!!」
「ふふふ……攻撃の手は止めないよ」
ドドドドドドドドドッ……!!
着地の隙を狙った追撃。再び泥の槍が降り注ぎ、バルディアの小さな身体が地面に叩きつけられた。
——ハァ……ハァ……くそ……死ぬほど痛ぇ……!
だけど……分かったぞ……!
バルディアはよろめきながら立ち上がり、狙いを定めるように爪をアレスへ向けた。
その瞳には、もう焦りの色はなかった。
「おや、まだやる気かい? その目……何か面白いことでも思いついたようだね」
「ああ。とっておきを見せてやるよ。くらえッ! 『炎爪弾丸』!」
ドン!!
ガントレットの爆発機構が作動し、一本の爪が弾丸のような速度で射出される。
「へえ、面白いギミックだ。爆発で爪を飛ばしたのか」
アレスはあくびが出そうな顔で、上半身を液状に変化させた。爪は泥の身体を素通りし、虚しく背後の壁に突き刺さる。
「くそ……避けんのかよこれも……!」
「だから言ってるじゃないか。君の視線で射線はバレバレなんだよ。あとは発射のタイミングに合わせて身体を変化させれば、当たるはずがない」
アレスは勝ち誇ったように笑う。
だが、バルディアもまた、口の端を吊り上げていた。
「はっ……! それで終わりだと思ったかよ?」
「何……!?」
ズドォッ!!
背後から、先ほど撃ち出したはずの爪が再び飛来し、アレスの脇腹を深々と貫いていた。
「がっ……!?」
「残念だったな。アタシの爆発は二段構えでセットできるんだ。一段階目で壁にぶつけて、その反動を利用した二段階目で、テメエの死角にぶち込む!」
「二段構え……? バカな、僕としたことが……!」
「オマエさ……“意識の外”から来る攻撃には、反応が遅れるんだろ?」
「……!」
アレスの顔から、初めて余裕の笑みが消えた。
——そうだ。だからエミルの攻撃を食らったんだ。
土魔法が途中で曲がるなんて、予想もしていなかったから。
そして、コロシアムの崩壊の時は別のことに気を取られたんだ。
「……ああ、その通りだよ。泥のように流動する体を持っていても、変形させるのはあくまで僕の意思だからね。しかし不覚だ。なるほど、一発目で僕の意識を前方に集中させ、その隙に背後から回り込ませるとは……考えたね」
「この小さな爆発くらいなら魔力はさほど使わねえ。次はアタシの最大火力を注ぎ込んでやる」
バルディアが両手のガントレットを構えた。
「覚悟しやがれッ! 『六爪弾丸』!!!!」
バシュッ——!!!!
両手から、炎と共に六本の爪が一斉に射出された。
それぞれが爆発の推進力を利用して、直線から斜めへ、直角から曲線へ——まるで六匹の獣が獲物を狩るように、予測不能な軌道を描いてアレスへと襲いかかる。
「なっ……!?」
アレスの目が泳ぐ。視線をどこに向ければいいのか分からないのだ。
正面からの一撃を泥で受け流した瞬間、時間差で回り込んだ爪が脇腹を抉り、死角の天井から跳ね返った爪が肩を貫く。
「ガハッ……! ば、かな……!!」
回避も防御も間に合わない。意識の外からの飽和攻撃に、アレスはなすすべなく切り刻まれていく。
ついにその膝が、地面についた。
「ハァ……ハァ……どうだ、ちくしょう……。傷一つはつけたぞ……」
——つっても、アタシももう限界だ……。
荒い呼吸、全身を走る激痛。もはや自分の身体じゃないみたいに感覚が曖昧になっていく。最後の力を振り絞った反動で、指一本動かすことすら億劫だ。
遠のきそうな意識を、師匠を助けるという執念だけで、かろうじて繋ぎ止めていた。
「……あ?」
ふと、違和感に気づく。
——アレスがいない?
膝をついていたはずのアレスの姿が、忽然と消えている。目を離したのはほんの一瞬。
——まさか、あのダメージで、地面に溶けたってのか……!?
「!?」
背筋に、冷たい何かが這い上がる悪寒。
「よくやったよ、バルディアちゃん」
耳元で、悪夢のような声が囁いた。
「本当に僕に傷をつけるとはね。君のその執念と才能に敬意を表しよう。でもね、遊びはもう終わりだ」
アレスの左腕が、蛇のようにバルディアの首を締め上げていた。
右腕は鋭利な斧へと変形し、その刃には彼女自身の血がべっとりと付着している。いつの間にか、腹部を浅く切り裂かれていた。
「ぐ……くそ……離せよ……」
「おかげで僕も少し本気になれた。……でも、もう魔力も尽きて動けないだろう?」
「く……」
「そういや君さ、ウォルコットに許可をもらってここまで来たんだろ? 僕が扮していたラモンはいないからね。この意味、わかるかい?」
「あ……?」
「わからないかな? なぜ君らだけを行かせたと思う? ドワーフが行方不明で、得体も知れないこのダンジョンへさ」
アレスの表情は歪んでいた。これまでの余裕の表情とは違う、薄い苛立ちが滲んでいる。
「君のような半端者、いつ死んでもいいからだよ。現に、君ら以外は向かわせていないよねえ?」
締め上げる力が強まる。
「ドワーフに混じって鍛冶師ごっこ。でも本物のドワーフには受け入れてもらえない。獣人にも属せない、どこにも居場所のない子供。ヘパイストスがいなければ、君の存在意義なんてない。それが君なんだよバルディアちゃん!」
「っ……!」
反論したい。違うと叫びたい。
アレスの目を睨み返すことしかできない。
それすらも、涙で滲んで、ぼやけていく。
「ああ……あああ……」
声を絞り出すも、それ以上は出ない。首を絞める力が、さらに強まる。
——意識を……意識を保てアタシ……。
諦めんな、最後まで……!
そんな想いとは裏腹に、涙がどんどん溢れてくる。
「ふふ、悔しいね。悔しいよねえ。でも言い返せない。何もできない。それが君の限界だよ、バルディアちゃん。その絶望の中で歌っておくれ!」
斧状に変化させた右腕が、頭めがけて振りかぶられる。
——避けられねえ。
くそ。くそくそくそ……ッ!
確かにアタシは半端者だ。
だけど、アタシには師匠に認められたこの腕があるんだ。
それでも今のままじゃまだ証明しきれてねえ。
……ごめん、師匠。
世界一の鍛冶師になるって、言ったのに。
師匠は間違ってなかったって証明したかったのによ。
こんなところで、こんな奴に……くそう……。
死の風切り音が迫る。
バルディアはギュッと目を閉じた。
ガキィィンッ……!
振り下ろされた斧が、金属音を立てて止まった。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
バルディアの鼻先数センチ。振り下ろされた刃を受け止めていたのは、漆黒の輝きを放つ“腕”だった。
「よく頑張ったな、バルディア」
低く、静かな声。
けれど底知れない怒気を孕んだその声が、バルディアの耳に届いた。
「後はおれに任せろ」
「エミル……!」
【硬化】スキルで硬めた腕でアレスの斧を弾き返すと、エミルは静かにアレスを見据えた。
「あらら……エルビラちゃんはやっぱり使えなかったかあ」
アレスの顔から、笑みが完全に消えた。




