第054話 アヤメ VS キャラコ
三つの戦いが、薄暗い広間で同時に火花を散らしていた。
エミルはエルビラへ。バルディアはアレスへ。
そしてアヤメは——。
「……」
目の前に立ちはだかる巨漢、キャラコが無言でアヤメを見据えている。
獲物の価値を測るような、無感情な瞳。一歩、また一歩と間合いを詰めるたびに、石畳が重く軋んだ。
アヤメは柄を握る手にぐっと力を込める。
——『その子弱そうだし、そのままなぶり殺しちゃっていいよ』
アレスの言葉が、まだ耳にこびりついている。
タルマ村で捕まった時の無力感が、嫌でも蘇ってくる。ほんのわずかな油断、体力管理の甘さ。それが招いた屈辱的な敗北。
もしエミルが助けに来なければ、今頃どうなっていたか。考えるだけでぞっとする。
——こんな体たらくで、お父様を救うなんて言えるの?
エミル様もバルディアちゃんも、今この瞬間、命懸けで戦っているんだ。
わたしがここで膝をついたら、二人の邪魔になるだけ。
お父様を救うと誓って国を出た。その覚悟が、この程度で揺らいでいいはずがない。
ここでわたしが止める。必ず勝って国に戻るんだ!
決意を瞳に宿し、アヤメは地を蹴った。
狙うは巨体ゆえに生じるであろう懐の隙。
風のように滑り込み、最短距離で鋭い一閃を放つ。
「『翠風流剣技・天津風』——!!」
ガギィン!
硬い音が響き、手首が痺れた。
刃は戦斧の柄に弾かれ、火花を散らす。
キャラコは片手で攻撃を受け止めながら、もう一方の手で丸太のような剛腕を振るった。
「ッ!」
咄嗟に身を捻るが、風圧だけで吹き飛ばされる。
石畳を削りながら着地し、荒い息を吐く。
エミルからもらった大切な短剣が、すでに悲鳴を上げているのがわかった。
——一撃が重すぎる……!
まともに受けたら、体ごと持っていかれる。
思考する間もなく、キャラコが踏み込み、巨斧を横一文字に薙ぎ払う。
剣を盾にするように構え、衝撃を殺そうとするが——。
ガギンッ!
岩盤に叩きつけられたような衝撃。
刃の端が裂け、アヤメの体勢が大きく崩れる。
「くっ……!」
キャラコは追撃の手を緩めない。
上段から叩きつけるように斧を振り下ろす。
剣で軌道を逸らすのが精一杯。パキリ、と剣先が鈍く砕け、刃こぼれが広がっていく。
「剣が限界のようだな、女剣士」
「貴方こそ……力任せに振り回しているだけで、随分と大味ですね」
「ふん……」
挑発にも、キャラコは表情を変えない。
その瞳には、もうアヤメなど映っていないかのような虚無があった。
「はぁぁぁぁああ!!!!」
キャラコの猛攻が再び始まる。
斧の軌道が次々と描かれ、アヤメは必死に剣を滑らせて攻撃をいなす。わずかでも受け損ねれば、吹き飛ばされるのは確実だ。
質量そのものが武器のような一振り。アヤメの剣は、限界を超えようとしていた。
「そんな剣で、本気で勝つ気か?」
「……勝てるかどうかではありません」
震える膝に力を込め、血の滲む唇で言い返す。
「わたしが、貴方に勝つのです!」
「そうか。ならば——」
キャラコは巨斧を頭上高く振りかぶった。
周囲の空気が、重力に従うように一点へと収束していく。
「その気力ごと、叩き潰す。『増荒斧』——!!!」
ドゴォォォン!!!!
巨斧が振り下ろされると同時に、視界が土煙に覆われた。
直撃ではない。
だが、地面を伝う衝撃波がアヤメの身体を内側から揺さぶり、吹き飛ばす。
「きゃぁぁっ!?」
壁に叩きつけられ、肺から空気が絞り出された。
その余波は数メートル先にいるエミルやバルディアにまで達し、広間全体を地鳴りのように揺るがす。
「ちょっとちょっとキャラコちゃん、僕もいるんだから気をつけてよね」
アレスが皮肉めいた笑みを浮かべながら距離を取り直す。
「大丈夫か、アヤメ!!!」
「だから、よそ見してんじゃねえ!!!」
エミルの声。
直後に、エルビラが彼を捉えた激しい打撃音が響いた。
「エミル様、わたしは大丈夫です! ご自分の戦いに集中してください!」
アヤメは叫び返すが、その体には衝撃波の余波で無数の切り傷が刻まれていた。
キャラコの攻撃は振りが大きい。
だが、それを避けても今度は見えない刃——衝撃波が襲ってくる。
——攻撃が変わった……感覚がおかしくなる。
まるで遅れて届くかのような、この衝撃は……。
「貴様、もしかして魔法が使えないのか?」
キャラコは、アヤメの能力を値踏みするかのようにじっと見つめた。
「……それが何だと言うのですか」
「そうか。なら勝利は諦めるんだな」
冷たい宣告。もう殺すだけだという目。
「俺の魔力は風属性。もっとも、魔法にするほど器用ではないが……攻撃に風の魔力を纏わせ、衝撃そのものを操ることができる」
「……ずいぶんと饒舌になりましたね」
「奥の手を引き出させたんだ。誇るがいい」
今度は斧を突き出すように構え、空気を圧縮させた。
「『多魔之斧』——!!!」
ヒュンッ、と空気が裂ける音。
見えない真空の刃が幾重にも襲いかかる。
地面を削り、空気を裂きながら、アヤメの全身を切り刻んだ。
「あああぁぁぁぁああああ!!!!」
頬が切れ、肩が裂ける。
見えない。魔法が使えないアヤメには、魔力の刃を視認できない。
感覚だけで回避を続けるが、全身が朱に染まっていく。
そして——。
ガキンッッッ!!
攻撃が止むやいなや、キャラコは距離を詰め、斧でアヤメの胴を薙ぎ払った。
遠近自在の波状攻撃。近づけば剛腕で叩き潰され、離れれば見えない刃に切り刻まれる。
なすすべなく消耗し、アヤメは剣を杖代わりにして膝をついた。
「ハァ……ハァ……」
——風属性……斧を振るうと同時に、風の魔力で真空の刃を飛ばしている……。
まるで、お兄様の剣術のような……。
意識が揺らぐ。視界が霞む。
薄れゆく思考の中で、懐かしい光景が蘇ってきた。
—————
「アヤメは剣術だけならギースに勝つな」
「ふっふっふ。もうお兄様には負けませんよ!」
シオン国、カルフール城の道場。父・ネリスの言葉に、幼いアヤメは胸を張った。
だが、兄・ギースは悔しそうに言い放つ。
「ふん。あのな、剣術だけ強くたって実戦では勝てん! 俺が本気で魔法を使ったら、お前なんて一瞬だぞ!」
「わたしは魔法が使えないからしょうがないじゃないですか……!」
ギースの負け惜しみに、アヤメは唇を尖らせてそっぽを向く。
「アヤメ。ギースの言うことも一理ある。実戦で剣だけで向かってくる敵など、そうはおらんぞ?」
「そうだぜアヤメ。次の稽古からは、俺も魔法を使わせてもらうからな」
「むむむ……。そんなことしたら、わたしの勝ち星が……」
頬を膨らませるアヤメを見て、ネリスとギースは楽しそうに笑っていた。
「むう、二人してまたわたしをバカにして! 魔法が使えないのはお父様も同じではないですか! それならお兄様とお父様が戦えば、お兄様が勝つことになりますよ!」
ギースは静かに首を振った。
「アヤメ、それは違う。俺では父上には勝てん。俺の風魔法を纏った刀は、父上には届かんのだ」
「私とアヤメの戦い方は似ている。どれ、ギースと模擬戦をしてみようか。よく見ておくのだぞ、アヤメ。これが魔法が使えぬ者の戦い方だ」
かつて、父ネリスがアヤメに示した実戦。
刀一つで魔法と対峙するその姿を、アヤメは目に焼きつけていた。
—————
「女剣士、よく戦った。もう立っているのも限界だろう……楽にしてやる」
キャラコが斧を振り上げる。
逃げ場はない。防ぐ剣もボロボロだ。
「『増荒斧』——!!」
轟音とともに地が裂け、土煙と衝撃が波のように広がる。
「……!」
「衝撃波に指向性をもたせた……これならアレスの邪魔にはなるまい」
ドサッ。
アヤメの体が、ついにその一撃に抗いきれず崩れ落ちた。力のない音が響く。
キャラコはその場に倒れ伏すアヤメを確認し、踵を返した。アレスの支援へ向かおうとする。
その時。
「……!」
背後から漂う、静かだが鋼のように研ぎ澄まされた気配。
キャラコは思わず足を止めた。
「……まだ立つか、女剣士」
わずかに眉が動く。
血に塗れたアヤメが、よろめきながらも再び立ち上がっていた。
息は乱れ、今にも意識が途切れそうなほど。
だが、瞳の奥に宿る炎は——さっきよりも、強く燃え上がっている。
「ハァ、ハァ……。シオン国国主ネリス・カルフールの娘……アヤメ・カルフール。その名にかけて、貴方を……二人の元へは行かせません」
「アヤメ・カルフール、なぜそこまで粘る。もう限界だろう」
「ここで貴方に敗れたら……わたしに……彼らと共に戦う資格なんてない!!!!」
真っ直ぐにキャラコを見据えるアヤメの瞳に、怯えはなかった。
「……そうか」
キャラコがゆっくりと斧を構え直した。
「俺はキャラコ・ピータース。戦士として、アヤメ・カルフール、貴様の覚悟、受け止めよう」
二人の間に、張り詰めた空気が流れる。
キャラコが深く息を吸い、全身の筋肉を膨張させた。
風の魔力が嵐のように広間を渦巻く。
「いくぞ、『素戔嗚斧』——!!!!」
地を裂き、空気を震わせる衝撃波の塊が、アヤメを飲み込むべく押し寄せる。
アヤメは静かに目を閉じた。
——静かだ。
立っているのもやっとのはずなのに、不思議と体が軽い。
お父様は言っていた。
相手の魔力を力で打ち破るのではない。その流れを読み、受け入れ、己が力とする。
魔法が使えぬがゆえに到達した、剣の極致。
余計な力が抜けて、意識が研ぎ澄まされていく。
目を閉じたまま、キャラコの放つ風の魔力の奔流を、肌で、魂で感じ取る。
接触の瞬間。
アヤメは剣を、衝撃波の流れに逆らわず、添わせるように滑らせた。
「『翠風流奥義』——」
風圧が全身を叩く。だが今度は吹き飛ばされない。
その嵐のような魔力の流れを剣先で捉え、渦を巻くように自身の周囲へと受け流していく。
破壊の力が、アヤメの剣を中心に、美しい翠色の円を描く。
「なっ……!?」
キャラコの顔に、初めて冷や汗が流れた。
自分の放った全力の破壊力が吸収され、ありえない密度で練り上げられていく。アヤメはその増幅された力を一点に収束させ——踏み込んだ。
「——『燕霞月楼』!!!!」
翠色の閃光が、戦斧の刃を真正面から捉えた。
キャラコの力とアヤメの技、二つの力が一点で衝突する。
バキンッ……!
鋼鉄の戦斧が、飴細工のように砕け散った。
「斧が……!」
驚愕に目を見開くキャラコの胴体が、がら空きになる。
アヤメは最後の一歩を踏み込んだ。
技の反動で、全身の骨が軋む。
筋肉が悲鳴を上げ、意識が明滅する。
——これで、最後……!
エミル様、バルディアちゃん、ごめんなさい。わたしはここまで……。
あとは……お願いします!
力の残り火を振り絞り、最後の一閃を解き放った。
「『翠風流心法・吹花擘柳』!!」
「——!!!」
残光が軌跡を描き、空気を裂いて一直線に走った。
鋭い斬撃がキャラコの肩口から胸へと深々と抉る。同時に、アヤメの剣も限界を迎え、粉々に砕け散った。
時が止まったような静寂。
「……ハァ、ハァ……」
アヤメの荒い息遣いだけが響く。
キャラコの巨体が、ゆっくりと後ろに傾いた。
「見事……だ。アレスの言葉……代わって俺が、撤回しよう……」
短く呟き、巨木が倒れるようにどっと地に伏した。
無感情だったその瞳には、信じられないものを見たという驚きと、どこか満足げな色が浮かんでいた。
それを見届けた瞬間、アヤメの身体からも完全に力が抜けた。張り詰めていた緊張の糸が切れ、膝が崩れる。
——勝てた……の、かな。
ドッ。
二つの影が、ほぼ同時に石畳に倒れ伏した。




