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黒焔の復讐者は禁忌を宿して異世界を往く  作者: 美希昌希
第二章:グロムハルト編
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第052話 一人じゃない

 ——どこだ、ここは。


 意識が浮上する。体が重い。

 まるで泥の中に沈んでいるような——いや、実際に沈んでいた。


 ダンジョンの岩肌も、アレスの姿もない。


 見渡す限り広がるどす黒い泥の海と、頭上を覆うドーム状の粘膜。腐った土と鉄錆の臭いが、逃げ場のないこの空間を満たしている。


 足元を見下ろすと、ねっとりとした泥の海面に足首まで沈み込んでいた。抜こうとしても、沼のように吸い付いて離れない。


「くそ……なんだここ……」


 アレスの能力か。

 幻覚か、それとも実際に泥の中に取り込まれたのか。どちらにしろ、状況は最悪だ。


 焦って周囲を見回した、その時だった。


 ボコォ……ッ。


 数メートル先の泥の海面が、水疱のように膨れ上がる。

 盛り上がった土塊が、みるみるうちに人の形を成していく。


「……っ」


 エミルの喉が、引きつった。


 そこには、見慣れたエプロン姿があった。


 優しげな笑みを浮かべ、少し困ったように眉を下げる、記憶の中の母。目からは黒い雫がポタポタと垂れていた。


「母、さん……?」


 掠れた声が漏れる。


 偽物だ。頭ではわかっている。アレスが見せる幻覚に決まっている。


 だが、その口が動いた瞬間、エミルの思考は凍りついた。


『エミル……どうして、助けてくれなかったの……?』


 母の姿をした「それ」が、悲しげに呟く。その一言が、エミルの心を抉った。


『ひとりだった……寂しかった……。どうして、あんたはいなかったの?』

「やめろ……」


 戦意が、急速に萎えていく。


 ——そうだ。おれのせいだよ。

 十年も引きこもって、何もしなかった。いや、何もできなかった。

 面接に行ったあの日、もっと早く帰っていれば。

 いや、そもそも引きこもりになんかならなければ……。


 ——『どうか……生きて……幸せに……』


 最期の言葉が、頭の中で反響する。


 ——母さんは、おれに幸せになれと言った。

 十年も部屋に閉じこもって、何の役にも立たなくて、孫の顔すら見せてやれなかったのに。最期までおれの心配をしてくれた。


 なのに、おれは——。


 支えを失った膝が、折れる。


 ズブり。


 倒れ込んだ膝が、泥の海面に深くめり込んだ。

 硬い床の衝撃はない。生温かい肉に包まれるような、気味の悪い感触。


 ——このまま沈んでしまえば、楽になれるんじゃないか。


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。


 ——母さんに会える。謝れる。

 もう、苦しまなくていいんだ。


 抵抗する気力すら湧かず、エミルの体はズブズブと泥の底へ沈んでいく。泥が口元を覆い、意識が暗い底へと落ちかけた——。


 その時だった。


 パリンッ!!


 鼓膜を揺さぶる音と共に、頭上の泥壁に亀裂が走った。熱波が吹き込み、湿った空気を一瞬で乾燥させ、焼き払う。


「え……っ!?」


 ボロボロと泥の人形が崩れ落ちる。


 こじ開けられた穴から、眩しい光が差し込んだ。


 そこに立っていたのは、炎を纏う小柄な影。


「大丈夫か、エミル!」

「エミル様、無事ですか!」


 バルディアの炎が泥を焼き尽くし、アヤメの剣閃がドームを切り裂いていた。


 二人が、外側から無理やりこじ開けてくれたのだ。


 周囲を見渡せば、アレスの作った泥人形たちはただの土塊に戻り、無様に転がっている。


「泥つっても無敵じゃねえ。炎で包めば固まるし、そうなりゃ脆いもんだ」

「固まったところを、わたしの剣で!」


 バルディアが得意げに笑い、アヤメが力強く頷く。


「……そうか。ふふ、ははは」


 乾いた笑いが漏れた。


 情けない。また、自分の弱さに殺されるところだった。幻覚ひとつで心が折れて……。


「エミル様?」

「おいおい、急に笑いだしてどうしたよ」

「いや……なんでもない。ありがとうな、二人とも」


 ——そうだ。おれはもう、一人じゃないんだ。

 こんなに頼もしい連中が傍にいてくれる。


「やれやれ。感動の再会は済んだかい?」


 玉座の上で、アレスが呆れたように肩をすくめる。飄々とした態度は崩れていない。むしろ、楽しそうにすら見えた。


 指をパチンと鳴らすと、破壊された泥の破片が再びドロドロと溶け始め、蠢き出す。


「僕の人形はいくらでも再生するよ。魔力が続く限り、この舞台は終わらな……」

「もう、遅いよ」


 エミルの低い声が、アレスの言葉を遮った。


 ドンッ!


 エミルは地面に手をつき、自らの土の魔力をコロシアム全体に広げた。アレスの支配に抗う、異分子を叩き込むように。


「この力は……!?」


 アレスの顔色が変わった。


 支配していたはずの泥が、言うことを聞かない。それどころか、地面から染み出したエミルの魔力が、泥をどす黒く侵食していく。


「お前の泥だって、所詮は魔力で動いてるんだろ? だったら、それより強い魔力で上書きすればいい」

「エミル様……! そんなに魔力を使っては……」

「大丈夫だ」


 両手から噴き出す黒焔が、止めどなく溢れ出ている。


 ——思えば、初めてアレスと対峙したあの時。バルディアを守りたい、その一心で能力を使った。無意識に力を制御できていた。力に呑まれることなんて、微塵も考えていなかったんだ。


「お前たちがいるから、おれは暴走しない。それに、いざとなったら斬ってでも止めてくれるんだろ?」

「もちろん!」


 アヤメが、満面の笑みで力強く頷く。その信頼が、今のエミルの力になる。


「くそ、泥のコントロールが……!」

「この舞台はフィナーレだ、アレス。『黒土遮覆(ロック・フィルダム)』!!」


 ズズズズズズッ……!


 黒焔を纏ったエミルの魔力が一気に広がり、泥の支配権を完全に奪い取る。アレスの創り出した泥のコロシアムはダンジョンの壁へと溶け込み、ただの広間へと戻っていく。


「だけどね、ドワーフを包んだ泥は消えちゃいないよ……!」


 アレスがドワーフの方へ視線を逸らす。この一瞬の隙を逃さない。


「よそ見したな?」


 エミルは、その場から動かなかった。

 ただ、大地を踏みしめ、遠くのアレスに向けて右拳を突き出す。


 ブンッ!


 拳が空を切る——いや、違う。


 突き出されたエミルの腕が、肘から先、空間に溶けるように消失した。


「『空間接続』!」


 『アイテムボックス』と『空間転移』の合せ技。エミルの手元と、アレスの眼前の空間を直結させる。


「え——」


 アレスが目を見開いた、その鼻先。


 何もない虚空がぐにゃりと歪み、そこから唐突に黒焔をまとった拳が飛び出した。


 回避不能。防御不可能の、ゼロ距離打撃。


 ドゴォォッ!!


 空間越しに、硬い手応えが拳に伝わる。


 顔面を深々と打ち抜かれたアレスは、悲鳴を上げる暇もなく玉座もろとも吹き飛ばされた。背後の岩壁に叩きつけられ崩れ落ちる。


 シュゥ……。


 エミルが腕を引くと、亜空間の穴が閉じ、消えていた右腕が元の位置に戻った。


「はぁ……はぁ……」


 エミルは拳を下ろし、荒い息を吐く。魔力を使いすぎた反動で、視界がぐらつく。


「ふふ……いやあ、楽しませてくれる。予想以上だよ、エミルちゃん……!」


 土煙の中、アレスがゆらりと立ち上がる。


 顔の半分が砕け、泥のようにどろりと崩れ落ちているのに、その口元だけは三日月のように吊り上がっていた。

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