第051話 泥の狂宴
「師匠を返せえええええッ!!!」
爆発音のような踏み込みと共に、バルディアが宙を駆けた。小柄な身体から噴き出す怒りの炎。一直線に玉座のアレスへと肉薄する。
だが、アレスは玉座に腰掛けたまま、まるで動じない。
「まあまあ、そう焦らないでよ、バルディアちゃん」
パチン、と指が鳴る。その瞬間、ダンジョン全体が地鳴りを上げた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
足元がぐにゃりと歪む。硬いはずの岩盤が、まるで粘土のように柔らかく波打ち始めた。床も、壁も、天井さえも。視界にある全てが、粘つく褐色の泥へと変貌したのだ。
「な、なんだ……!?」
「足が……!?」
エミルとアヤメが体勢を崩す。
足首が、膝が、底なし沼のような粘土に飲み込まれていく。
「ぶへっ!?」
勢いよく飛びかかっていたバルディアも、目の前にせり上がった泥の壁に激突し、無様に地面へ叩きつけられた。
「ようこそ、僕の特設ステージへ」
アレスが両手を広げ、演劇の指揮者のように振る舞う。
「演目は『泥の狂宴』。観客は僕一人。さあ、最高の悲鳴を聞かせておくれよ!」
アレスが再び指を鳴らす。
今度は、ドワーフたちが囚われている鉄格子の檻が、禍々しい泥の柱へと姿を変え始めた。ヘパイストスたちの身体を、足元からじわじわと侵食していく。
「ぐっ……!」
「師匠ッ!」
泥は生きた蛇のように這い上がり、ドワーフたちの太い手足を拘束し、口を塞ぎ、じわじわと全身を呑み込んでいく。
「時間制限付きだよ。彼らが泥の人形に変わるのが先か、君たちが僕を楽しませるのが先か。急がないと、大好きな師匠が『舞台の一部』になっちゃうよ?」
「テメェ……ッ!」
バルディアの毛が逆立つ。
あれは脅しじゃない。リアルタイムで命が削られている。
「まだまだ、ゲストは増えていくよ!」
アレスの言葉に応えるように、泥の沼からゴブリンの形をした泥人形が次々と這い出してくる。サイズこそ小型だが、その殺意は本物だった。
「嘘だろ……こんなのまで作れんのかよ!?」
三人は押し寄せる軍勢を迎え撃とうとするも、泥沼に足を取られ思うように動けない。
「くそっ、足が重い……!」
エミルが土の魔力で足場を固めようとするが、アレスの泥がそれを上回る速度で侵食していく。同じ土属性なのに、練度が違いすぎる。
「あはは! いい顔だ、エミルちゃん。そうそう、その絶望した顔が見たかったんだよ!」
高みの見物を決め込むアレス。その余裕綽々な態度が、エミルの冷静さを削り取っていく。
——このままじゃジリ貧だ。
このふざけた舞台を終わらせるには、脚本家を直接叩き潰すしかない。
「二人とも耐えてくれないか。おれがあいつを止める」
「エミル様!?」
「頼むぜエミルッ!」
エミルは泥に沈む足に構わず、意識を研ぎ澄ませた。
狙うは玉座。距離は約二十メートル。
『空間転移』でアレスの眼前に移動しようとした、その刹那。
「……!?」
視界が消えた。
光も、音も、空気さえない。全身にまとわりつくのは、重く冷たい、息のできない泥の感触。
——な、んだ……これ……!?
手足を動かそうにも、まるでコンクリートに固められたかのようにびくともしない。ここは、アレスの玉座の前などではない。奴が作り出した、泥の牢獄の内部だ。
「『泥の揺籃』」
アレスの声が、泥を通して響いてくる。
『ははは、エミルちゃんったら、なんか不穏な魔力を練ってるなーって思ったらやっぱり。勘が当たっちゃったね。それにしても君の力、本当に面白いね。何の能力だい? でも残念、この泥の中じゃ視界も動きも封じられちゃうんだ。抜け出せるかな?』
『空間転移』を使おうとするが、発動する気配がない。
——くそ、思うように動けない……。
集中しようにも、全身を締め付ける泥の圧力が思考を奪う。
肺が潰されそうだ。息が、できない。
意識が、沈んでいく。
「エミル様!?」
「エミルが……消えた!?」
アヤメとバルディアの悲鳴が上がる。
広間の中央、空中に浮かぶ巨大な泥の球体。
その中に、頼みの綱であるエミルが封じ込められたのだ。
「ああ、彼なら今、あの中で冷静になってもらってるよ」
アレスがにこりと笑い、残された二人を見下ろす。
「でも心配しないで。すぐに殺したりはしないから。だってまだ第一幕が始まったばかりだもの。アヤメちゃんもバルディアちゃんも、もっともっと僕を楽しませてくれるよね?」
泥人形の猛攻が、残された二人に集中する。
「バルディアちゃん、しっかり!」
「わかってるよ!」
二人は背中を合わせ、必死に互いを守りながら戦う。その姿を、アレスは心底楽しそうに眺めていた。
「うーん、でも物量作戦だけじゃ芸がないか。……そうだ!」
アレスが嬉しそうに指を鳴らす。
「君たちには、もっと素敵な絶望を用意したよ」
その瞬間、二人を囲む泥人形が、急速に形を変え始めた。
「なっ……!?」
バルディアが息を呑む。
目の前に立ちふさがった泥人形。それは魔物ではなく——隻眼のドワーフ、ヘパイストスの姿をしていた。
「バルディア……」
「し、師匠……!?」
じりじりとバルディアの方へとにじり寄る。
「お前のせいで、わしの……わしの目は失われてしまった……」
泥人形の虚ろな瞳が、バルディアを責めるように見つめている。
「ちっ、偽物なんて寄越しやがって……!」
頭ではわかっている。ヘパイストスがこんなことを言うはずがない。これはアレスが作った悪趣味な人形でしかないと。
だが、師の姿をしたそれに、炎爪を振るうのを躊躇してしまった。
その隙を、敵が見逃すはずがない。泥のゴブリンが横合いから突っ込み、バルディアの小さな身体を弾き飛ばした。
「がはっ……!」
泥沼に転がるバルディア。その首を、今度は別の泥人形——見覚えのあるドワーフの姿をしたそれが、万力のような力で締め上げる。
「半端者で汚れた血のお前が鍛冶だと……? 笑わせんじゃねえ」
「オマエは……!」
昔、浴びせられた罵倒。心の奥底に封じ込めていた言葉が、泥の指と共に首を絞めつける。
——違う。アタシは、もう。
反論しようとしても、声が出ない。息ができない。視界が滲む。
「バルディアちゃん!」
アヤメが助けに入ろうとするが、彼女の足も止まっていた。彼女の目の前にもまた、幼い少女の姿をした泥人形が立っていたからだ。
「あ、あなたは……」
「アヤメちゃん。私ね、助けてほしかったんだ。ずっと、ずっと待ってたんだよ?」
アヤメの顔が青ざめる。
「痛かったよ、苦しかったよ……」
「やめて……やめてっ!」
アヤメの手から、刀が滑り落ちそうになる。
戦えない。
一番傷つけたくない相手の姿をした悪夢に、二人は心を折られかけていた。
「あはははは! 最高だね。その顔、その顔が見たかったんだよ!」
アレスの無慈悲な笑い声が、広間に響き渡る。
その時だった。
「バルディアアアアアアァァァッ!!!!」
雷鳴のような怒号が、檻の中から響き渡った。
本物のヘパイストスだった。
「そんなのに惑わされおって!」
「……師、匠……?」
「お前さんが積み上げてきたものはそんなものか!? わしの弟子なんじゃろうが。自分の目を信じんでどうする!」
「……!」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走った。
——そうだ。
アタシは、あの人の背中を見て育った。あの人の槌の音を聞いて育った。
お前らに何がわかる……! 知らねえだろ。あの人の背中のでかさをよ……!
熱くて、厳しくて、でけえんだ。こんな、冷たくて気持ち悪いもんなんかじゃねえ。
バルディアの瞳に火が灯る。
「……ああ、そうだよな。悪りぃ、師匠」
首を絞める泥人形の腕を、バルディアは両手で掴んだ。
「テメエみたえな冷てえだけの泥の塊共がよ……アタシの心に踏み込んでんじゃねえぞォォオオオッ!!!!」
ゴゥッ……!!
バルディアのガントレットから、これまでにないほどの灼熱の炎が噴き上がった。超高温の炎は、まとわりつく泥人形を一瞬で乾燥させ、ひび割れさせ、そして粉々に砕け散らせた。
「ちっ、余計なことを……」
アレスの顔から笑みが消える。
炎の中から現れたバルディアは、煤け、傷だらけだったが、その瞳だけは以前よりも強く輝いていた。
「わかったぜ。……このクソみてえな泥の攻略法がよ」
彼女は焼け焦げて陶器のようになった泥の残骸を踏み砕き、ニヤリと笑った。
「さあ、こっからはアタシの独壇場だな」




