第043話 バルディア・バルール
バルディア・バルールの一番古い記憶は、師匠の顔だった。
茶色い肌に刻まれた深いシワ。肩に大槌を載せて、口ひげを触りながら笑っている——世界一の鍛冶師と呼ばれる男、ヘパイストス・バルール。バルディアにとっての唯一の父親であり、いつか必ず超えてやると決めた、巨大な壁。
その出会いは——十三年前に遡る。
鍛冶の都グロムハルト。
その地下深く、陽の光も届かない鉱山の片隅に、ポツンとボロボロの籠がうち捨てられていた。
中にいたのは、まだ目も開かないくらいの小さな赤子。薄金色の柔らかな毛並みと、ぴんと立った大きな耳、そしてか細い尻尾が、彼女が狐の獣人であることを示していた。
「なんだこりゃあ。獣人の赤子か」
「グロムハルトで獣人の子なんざ、まともにゃ育たんだろう」
「どこぞの一攫千金を夢見た親が捨てていったか、事故に巻き込まれたか……」
「どっちにしろ可哀想だが、見なかったことにするしかあるめえ」
周りを取り囲むドワーフの鉱夫たちは、誰一人として手を差し伸べようとしない。それが、閉鎖的で排他的なドワーフ社会において、優しさでもあった。
岩肌からしみ出す冷気が、小さな体温を奪っていく。このままでは、夜を越せまい。
その時だ。
「どけ」
振り返った鉱夫たちの顔が、一瞬で青ざめる。
ヘパイストス・バルール。
当時、既に世界屈指の鍛冶師としてその名を轟かせている、生ける伝説がそこにいた。S級冒険者はもとより、オラクルズの総帥や最高幹部である四法典すら彼を訪ね、武具の製作を依頼する。現に、世に流通する優れた装備の設計図の多くが、遡ればヘパイストスの原案に辿り着くとまで言われている。
そんな伝説の職人が無言で籠に近づくと、中の赤子を覗き込んだ。
赤子は、まるで彼の尋常ならざる気配を察したかのように、か細い声で泣き始めた。
「鍛冶しか知らねえ旦那が、そんなのどうするんですかい……」
「黙れ」
ヘパイストスは鉱夫の言葉を遮ると、ごつい指をそっと赤子の顔に近づけた。
すると——。
小さな手が、その指を掴んだ。
ありったけの力を込めて、離すまいとするように。
「……ほう」
ヘパイストスの眉がぴくりと動く。
ふと、おくるみに粗末な刺繍で縫いつけられていた名前が目に入る。
『バルディア』
名字は書かれていない。ただ、その名前だけがあった。
ヘパイストスは赤子を籠ごと抱え上げると、呆気に取られる鉱夫たちを尻目に言い放った。
「こやつはわしが拾う。今日からわしの子じゃ。名はバルディア。バルディア・バルール」
それが、後の天才鍛冶師と、世界一の鍛冶師との出会いであった。
—————
カン、カン、カン——。
リズミカルに響く槌の音。飛び散る火花。真っ赤に焼けた鉄塊が、ヘパイストスの手で形を変えていく。
三歳になったバルディアは、工房の柱の陰からじっとその光景を見つめていた。
「バルディア。そこにおるのはわかっとるぞ」
ぎくりとして、恐る恐る姿を現す。ヘパイストスは槌を下ろし、苦笑した。
「お前さんは何度言っても、覗き見をやめんのう」
「だってよぉ! 父ちゃん、全然触らせてくんねえじゃんか!」
「馬鹿者。火床は遊び場じゃないぞ。火傷したくなくば、あっちへ行っておれ」
「やだ! アタシもやりたい! そのカンカンってやつ、やりたいんだよ!」
駄々をこねるバルディアに、ヘパイストスは大きなため息をついた。
彼は幼いバルディアを鍛冶場から遠ざけようとしていた。だが、何度追い払っても、柱の陰から、道具棚の隙間から、小さな狐耳がぴょこんと覗いている。
バルディアにとって、工房は世界のすべてだった。
ヘパイストスの背中を見て育った彼女が、鍛冶に興味を抱くのは当然のことだったのかもしれない。
そしてとうとう、ヘパイストスの方が根負けした。
「……一度だけじゃぞ」
「いいのか!?」
ヘパイストスはバルディアを抱え上げると、踏み台の上に立たせた。
渡された小槌は、子供の手にはずっしりと重い。目の前には、赤熱する鉄。顔が焼けるような熱気が吹き付けてくる。
「鉄はな、生き物じゃ。力任せに叩いてもへそを曲げるだけじゃぞ。声を聞け。ここを叩いてくれと、鉄が言っとる場所をな」
「鉄の……声……?」
バルディアは息を飲み、小槌を振り上げた。
直感が閃くままに、振り下ろす。
キィンッ!
腕にずしりと響く衝撃と、ぱちんと弾ける火花。手に残る痺れ。
鉄と心が通じ合ったような、不思議な感覚。
鉄を打つという行為が、どれだけ熱く、重く、そして命懸けであるかを、バルディアは全身で理解した。だが、怖くはなかった。むしろ心地よかった。父と同じ音を、同じ熱を共有できたことが、ただ嬉しかった。
「ほほほ、なかなか筋が良い。どれ、わしの動きをもっとよく見ておれ」
この日を境に、バルディアは正式に鍛冶場への出入りを許された。
だが、外の世界はそう優しくはなかった。ヘパイストスから買い出しを頼まれたある日の出来事。
「よう、獣人」
背後から飛んできた嫌味のこもった声に、バルディアは振り返った。
そこには、ドワーフの子供たちが立っていた。全員、バルディアより年上で体も大きい。
「お前、獣人のくせして、なんかドワーフの真似事してるんだってな?」
「え……」
「あのな。鍛冶場は神聖な場所なんだぜ? 汚れた血の奴が入っていい場所じゃねえんだ!」
石ころが投げられ、バルディアの額に当たる。手から買い物袋が滑り落ちた。
「痛っ……! なにしやがる!」
「うるせえ! 母ちゃんが言ってたぜ。お前、人間と獣人の子なんだろ? それを汚れてるって言うんだよ、この半端者が!」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。息が、うまくできない。
周囲の大人を縋るように見ても、誰もが見て見ぬふりをした。それが、この街の彼女に対する答えだった。
「アタシは、汚れてなんか……!」
「はっ。誰も助けちゃくれねえよ。お前なんかここから——」
「ここから、なんじゃ?」
低くしゃがれた声が、子供たちの背後から響いた。
恐る恐る振り返る。
仁王立ちしたヘパイストスが、鬼の形相で見下ろしていた。
「汚れた血と言うたな。あやつの額を見てみい。お前さんらの投げた石で血が流れておる。お前さんらの血と何が違う? どれ、わしに確かめさせてくれんか?」
ぬっ、と巨大な手が伸びる。
「ひ、ひぃぃッ!」
「逃げろオオオ!」
ただそれだけで、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ふん、鍛冶場に誰を入れるかはわしが決めるわい」
「……なんで出てくんだよ。アイツらくらい、アタシ一人でぶっ飛ばせたのに」
「ほほ、そうじゃったな。お前さんは強いからのう」
ヘパイストスはごつごつした手で、乱暴に、けれどどこか不器用に、バルディアの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「……当然だ」
強がってはいた。けれど、バルディアの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
—————
汚れた血。半端者。
バルディアが人と獣人の混血であることがわかって以来、周囲の風当たりは日に日に強くなっていった。
ドワーフの誇りである神聖な工房に、獣人の、それも「半端者」の子供を入れることへの反発。伝統を重んじる鍛冶師ギルドからの執拗な圧力。
悔しかった。情けなかった。
そして、何より怖かった。
自分には、この街に居場所がないのではないか。父がいなくなったら、自分は一人ぼっちになってしまうのではないか。
その恐怖を振り払うように、バルディアは鉄を打った。
「半端者」じゃない。「汚れた血」なんかじゃない。アタシはヘパイストスのたったひとりの娘、バルディア・バルールなんだ。
その証明が欲しかった。鍛冶の腕を磨き、誰にも文句を言わせない結果を出すこと。それだけが、彼女がこの世界で自分の居場所を勝ち取るための、唯一の戦いだった。
「違う! 腰が入っとらん! 槌は腕で振るんじゃない、魂で振れ!」
「やってるよ! こうだろッ!」
「甘いわ、たわけ!」
ヘパイストスの指導は容赦がなかった。怒号が飛び、ゲンコツが落ちる。
呼び方も、自然と「父ちゃん」から「師匠」へと変わっていった。
「だから違うと言っておろうが! なんべん言ったらわかるんじゃ!!」
「だ、だってよ、師匠……!」
「なんじゃ、わしに向かってその口の聞き方は!」
口答えをすれば、さらにゲンコツ。
「うぇ……えーん……っ」
「泣いとったって鉄は冷めるだけじゃ! ほれ、腕を振れ!!」
ヘパイストスは決して甘くはなかった。
だが、バルディアも必死に食らいついた。泣いても、熱が出ても、それでも槌だけは離さなかった。
そのひたむきな姿を、ヘパイストスは誰よりも近くで見ていた。
そしてある日。
ヘパイストスの工房を、一人の男が訪れる。




