第040話 あなたを斬ってでも
狭い坑道は、まるで巨大な獣の食道のようだった。
じっとりとした湿気と、濃密な魔力の澱みが肌にまとわりつく。グラナイト・ケルベロスを撃退してから、どれくらい歩いただろう。
エミルは無意識に、自分の拳へ視線を落としていた。
黒い焔の残滓はもうない。土の感触も消えている。だが、さっきの戦闘で岩塊に力を込めた瞬間——あの、意思を離れて暴走しかけた感覚だけは、胸の奥にべったりとこびりついて離れなかった。
今回は、なんとか制御できた。暴れ出そうとした力を、逆に叩き込んで押さえ込んだ。
でも次は? その次は?
いつか本当に暴走して、取り返しのつかないことをしでかすんじゃないか。そんな不安が、じわじわと這い上がってくる。
「……エミル様」
不意に、隣を歩くアヤメが顔を覗き込んできた。
「ずっと難しい顔をしてますよ? もしかして、またエミル様の力が……」
「ああ、そう……だな」
つい、言葉を濁してしまう。
「……無理をしなくてもいいんですよ。エミル様はいつも、一人で抱え込んじゃうので」
その真っ直ぐな言葉に、思わず足を止めかけた。
いつだってそうだ。こちらの心の壁などお構いなしに、ずかずかと踏み込んでくる。自分だって父親のことで頭がいっぱいなはずなのに。
「……さっきの攻撃だ」
ポツリと、自分でも驚くほど素直な言葉が漏れた。
「あれを使うとき、正直……少しだけビビってたんだ。また力が暴走して……今度はお前たちを傷つけるんじゃないかってな」
俯きがちに告げられた言葉に、アヤメは何も言わず、ただ静かに隣を歩き続けている。
「だから、ちゃんと前に進みたいんだ。この力の正体がわからないままじゃ、おれはいつまでも自分の力に怯え続けることになる。……足手まといになるだけだからな」
「足手まといだなんて、一度も思ったことはありませんよ」
アヤメがきっぱりと言い切った。その声には、一点の曇りもなかった。
「むしろ、わたしは……わたしの力が足りないことが、悔しいんです」
「え……?」
「エミル様が命懸けで活路を拓いているのに、わたしはそれを支えることしかできない。もっと力があれば、エミル様だけにそんな重荷を背負わせずに済むのに……」
ぎゅっと握りしめられた彼女の拳が、悔しさで震えている。彼女もまた、自分の無力さと戦っているのだ。
「だから、一人で抱え込まないでください」
アヤメは一歩踏み出し、覚悟を決めたようにエミルの目を射抜いた。
「もし……もし、またエミル様が暴走するようなことがあれば、その時は、わたしがこの剣であなたを斬ってでも止めます。だから、安心してその力を使ってください」
時間が、止まった。
いや、止まったように感じた。
冗談や気休めではない。彼女の本気の覚悟が、痛いほど伝わってきた。
胸の奥で、何かが軋んだ。
信じてもいいのか。
この言葉を、この覚悟を、信じてもいいのか。
——ああ、こいつはもう、おれにとってただの「利用価値のある存在」でも、「取引相手」でもないんだ。
そんなこと、とうにわかっていたはずなんだけれどな。
「……はは、そりゃ頼もしいな。手加減はしてくれよ」
「ふふ、最終奥義、使っちゃうかもしれません」
「それだけは勘弁してくれ……」
照れくささと込み上げる感情を隠すように、エミルは苦笑した。
人を信じるのはまだ怖い。
だが、この少女が差し伸べてくれた手だけは——振り払いたくないと、心の底から思った。
「さっきから何こそこそ話してんだ、オマエら?」
前方でヘパイストスと話していたバルディアが後ろを振り向く。
「え? ああ、ちょっと……腹が減ったなって話をしてたんだ」
「はい。エミル様ったらずっとお腹を鳴らしていて」
「いや、そりゃお前だろうが……」
口裏を合わせるように言いながら、アヤメと顔を見合わせて小さく笑った。
「そうじゃな、まだ少し先はあるが……この辺で一度、腹ごしらえにするかの」
ヘパイストスが足を止め、荷物をおろした。彼はリュックをゴソゴソと探ると、干し肉の包みを取り出した。
「あれ? 師匠、携帯食まだ持ってんのか?」
「何を言っておる、そんなもんとっくに尽きとるわい。作ったんじゃよ」
「え……?」
「ほれ、ダンジョンで取れるコウモリやトカゲの魔物肉じゃ、美味いぞ」
ヘパイストスはそう言って、綺麗に処理された干し肉を差し出した。
「いただきまーす!」
アヤメが嬉しそうに受け取る。エミルもひときれを口に放り込んだ。
「お。意外といけるなこれ……!」
魔物の肉特有の臭みが完全に消され、香草の香りが効いている。
「意外とはなんじゃ。下処理にぬかりはないし、しっかり仕上げとるわい」
「へへっ、美味いだろ? 師匠の干し肉は。毎回ダンジョンに潜るときは現地調達なんだぜ」
バルディアが得意げに胸を張る。慣れた様子で肉を噛みちぎる姿を見ると、こういう生活がこの師弟にとっては日常なんだと実感する。
「ダンジョン探索は現地調達が基本じゃ。火を出せるバルディアがおらんかったから、火の魔力がこもった魔石を持ち歩いとったんじゃ」
そう言いながら、ヘパイストスは懐から小さな赤い石を取り出した。中心から淡い炎のような光が揺らめいている。
「へえ、そんな便利な魔石もあるんだな」
「なんじゃ、お前さんそんなことも知らんで冒険者をやっておるのか……!」
「あ、エミル様は旅の道中で事故にあって、少し記憶が曖昧で……」
アヤメのフォローに、エミルは曖昧に頷く。
この設定、いい加減どこかで破綻しそうだ。
「そうなのか。それならそれで、知識を入れとかんと危ないぞ」
「そ、そうだよな……肝に命じておくよ……」
「この際だからちゃんと覚えておけ。火属性魔法が使えるやつとパーティを組むのが一番じゃが、簡易的に火を出すだけなら魔石でも事足りる。魔力が尽きれば力を失うがの。一度の探索くらいなら問題はない」
「火を使えないと干し肉も作れねえからな。風が必要なら風の魔石、水の魔石も便利だし、いろんな属性の魔石を組み合わせていくのがダンジョン攻略のキホンだぞ」
バルディアも誇らしげに説明に加わる。
「ところでエミルよ。お前さん、さっきケルベロスに使っておった土魔法のようなもの……あれは一体なんなのじゃ?」
いつか聞かれると思っていた問い。
ヘパイストスの隻眼が、探るようにこちらを見ている。ただの好奇心じゃない。あれが尋常な力ではないことを、この伝説の職人は見抜いている。
「……さあな。おれにもよくわからないんだ。ギルドじゃ“無属性”って言われたしな」
「ふむ……不思議な力を使うと思いきや、基本的な知識は抜け落ちてるときてる。実に興味深い……お前さんは一体、何者なんじゃ?」
ヘパイストスの目が、好奇心で輝き始めた。
職人気質というのか、未知への探究心は相当なものらしい。
「……まあ、詳しい話はダンジョンから戻ったらゆっくりと、な……。いまはドワーフ捜索に集中しようぜ」
苦しい言い訳だ。だが、この好奇心旺盛なドワーフ族を前に話し始めたら、根掘り葉掘り聞かれるのがオチだ。今はひとまず逃げるに限る。
「ふん、まあいいわい。後で聞かせてもらうからの」
ヘパイストスは不満そうだったが、ひとまず矛を収めてくれた。
腹ごしらえを終えた一行は、そのまま休むことにした。
ダンジョンの中だからわかりづらいが、地上の時間ではすっかり深夜だ。連戦の疲労は無視できない。交代で火の番をしながら、束の間の休息を取る。
寝袋に入っても、さっきのアヤメの言葉がまだ頭から離れなかった。
——『わたしがこの剣であなたを斬ってでも止めます』
重い言葉だ。だが、その重さが——今は、どこか心強かった。




