第031話 たった一人の家族
ダンジョンから地上に戻ると、グロムハルトの空はすでに夕暮れに染まっていた。
「おい、E級」
アイアン・ブルズのリーダー、ジムタイルが苛立たしげに頭を掻く。その足元には、意識を失った獣人の少女——バルディアが横たわっていた。
「こいつの家がこの先にある。一際でかい建物だからすぐわかるはずだ。そこへ運んで寝かせてやれ」
「なんだよ。さっきの治療といい、案外面倒見が良いんだな」
「はっ、勘違いするな。オレはただ、面倒事が嫌いなだけだ。これで貸し借りはなしだからな」
ジムタイルは捨て台詞を残すと、パーティメンバーを促してギルドに戻っていく。
その背中を見送りながら、アヤメがくすりと笑った。
「貸し借り、ですって」
「……それがどうしたんだよ」
「ふふっ、なんだかエミル様みたいなこと言うなと思って」
「……あいつと一緒にするなよ」
呆れるように返すと、アヤメは「わかってますよ」と言わんばかりの笑顔を向けてくる。
その視線から逃げるように、バルディアを背負い直した。ひょいと持ち上がるその体は、驚くほど軽かった。
—————
ドゥルガンの職人街の一角、ひときわ大きな建物があった。家というより、工房に近い。
「ここで間違いないんだよな……?」
「え、ええ、おそらく……」
恐る恐る扉を押し開けると、濃密な金属臭と古びた油のにおいが鼻をつく。壁一面に吊るされた無骨な工具、床に散らばる鉄屑、書き殴られた設計図の山。生活感など欠片もない。
「本当にここが、この子の家なのでしょうか……」
小さな女の子が一人で住むには、あまりに場違いな環境だ。それでも、バルディアが抱えて離さなかった鞄だけは、この風景に不思議と馴染んでいる。
荷物を二つも持たされていたと思いきや、一つは彼女自身のものだったのだ。
奥にあった寝室に彼女をそっと寝かせた。アヤメが濡れた布で顔を拭いてやると、苦しげだった呼吸がようやく穏やかになる。
それから、どれくらいの時間が経っただろう。
オイルランプの灯りが、壁の工具をぼんやりと照らし始めた頃。
「……ん、ぅ……」
大きな狐の耳が、ピクリと揺れた。
琥珀色の瞳がうっすらと開き、天井をぼんやりと捉える。
そして、視界の端に映る見知らぬ人影に気づいた瞬間。
「!?」
バッと布団を跳ね除け、獣の速さで壁際まで後退した。
「誰だっ! ……って、オマエら!?」
「あ、気がつきました? よかった!」
「なんで……なんでオマエらがここにいんだよ! アイアン・ブルズの連中は!?」
「彼らはもういないですよ。ここはあなたの家です」
「……あ? 家……?」
バルディアはきょろきょろと周囲を見渡し、ようやく見慣れた自分の住処だと認識した。ふぅと息を吐き、自嘲気味に呟く。
「そうかよ……。チッ、アタシとしたことが、気絶しちまってたのか」
それから、自分の肩に巻かれた真新しい包帯に気づいた。
「……この手当ては、姉ちゃんたちが?」
「はい。と言っても、ほとんどはロリッチ様がやってくれたんですけどね」
「そうか……」
バルディアの視線が、エミルの方を向く。
その瞳に、警戒と困惑が混じっていた。
「オマエらE級の癖に……なんであんな無茶したんだよ」
「お前を見捨てて逃げたら後味が悪い。それだけだ」
「バカじゃねえのか? 死んでたかもしれねんだぞ」
「そうだな。……礼の一言も言えないやつを助けたのは、後悔してるかもな」
「ちょ、ちょっとエミル様……!」
アヤメが慌てるが、エミルは表情を変えない。
これは、過去の自分への皮肉でもあった。
異世界に来てすぐのこと。アヤメに助けられたとき、すぐにお礼が言えなかった。それがしばらく後を引いていた。
だからこそ、この少女には同じ思いをしてほしくはない。
「……!」
バルディアは虚を突かれたように口を開き、バツが悪そうに俯くと、大きな耳をぺたんと伏せた。
「……確かにそうだよな。悪い、本当に助かったぜ。ありがとう」
「……君が無事ならそれでいい。用は済んだし、おれたちはもう行くよ」
「あ、おい! 待ってくれ!」
背を向けたエミルたちを、バルディアが必死な声で呼び止める。振り返ると、彼女は布団から転がり落ちるようにして立ち上がっていた。
「なあ、兄ちゃん。オマエ……強いんだろ? あのジムタイルが逃げ出しそうになったケルベロスを、追い払うくらいにはさ」
「強いつっても、結構ギリギリだったけどな……」
「頼む! 今度はアイツらじゃなくて……アタシとダンジョンに潜っちゃくれねえか?」
「君と……? どうしてだ? せっかく助かったんだ、今は大人しく休んでろよ」
「ダメなんだよ! もうオマエらしか頼れるやつがいねえんだ!」
バルディアの悲痛な叫びが、狭い室内に反響する。
「あの……何か急ぐ理由があるんですよね? よかったら、お話を聞かせてください」
アヤメが目線を合わせるように屈み込み、優しく問いかける。バルディアは唇を噛み締め、震える声で絞り出した。
「……アタシの師匠が、帰ってこないんだ」
「師匠……?」
「名乗るのが遅れたな。アタシは『バルディア・バルール』。これでも鍛冶師をやってる」
鍛冶師。その言葉に納得がいった。
ここは彼女の住処兼工房なのだ。
「アタシの師匠はこの国一、いや世界一の鍛冶師、『ヘパイストス・バルール』。その師匠がダンジョンに行ったきり……もう三週間も帰ってこねえんだよ」
三週間。
その期間の重みに、アヤメが息を呑む。
「普通なら、どんなに遅くても十日ありゃ戻ってくる。師匠は鍛冶師だけど、実力はA級冒険者並に強えんだ。そんな師匠が戻ってこないなんて、絶対におかしい……だから……」
「だからアイアン・ブルズに……」
「ああ。素材集めを手伝うって名目で、無理やり同行させてもらった。でも、アイツらじゃダメだった……!」
バルディアは悔しそうに床を叩いた。
「お願いだ。アタシと一緒に師匠を探しにいっちゃくれねえか! もちろん、タダとは言わねえ! ジムタイルに同行したってことは、魔石や鉱石が目的だったんだろ? アタシならたくさん採掘できる場所を知ってる! 案内だってできる! それに、装備だって最高のを仕立ててやるさ!」
差し出された条件は破格だ。世界一の鍛冶師の弟子。その技術と知識は、これからの旅において何よりの財産になる。魔石の情報も、アヤメにとっては喉から手が出るほど欲しいに違いない。
だが、そんな損得勘定以上に、自分の心を揺さぶるものがあった。
師匠を案じ、必死に頭を下げるその姿。
それは——血の海に沈む母を前にしたあの日の自分と、どこか重なって見えた。
「当然です!」
エミルが口を開くより早く、アヤメが力強い声で答えていた。彼女はバルディアの震える肩にそっと手を置き、強い意志を込めた瞳で微笑む。
「わたしも父を救うために旅をしています。大切な人を想うあなたの気持ち、痛いほどわかります。一緒に、お師匠様を探しに行きましょう!」
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
アヤメはくるりと振り返り、「ね?」と同意を求めてくる。
エミルはわざとらしく大きなため息をついた。
「……はぁ。面倒なことに巻き込まれたな。だがまあ、悪くない取引だ。引き受けさせてもらうよ」
「……! ほん、とか……っ!」
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。バルディアの大きな目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「ありがど……っ、ありがどう……! う、ううっ……」
獣人の少女は、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。必死に涙を堪えようと口元を強く結ぶが、一度決壊した堰は止まらない。安堵と喜びを示すように、ふさふさとした尻尾が大きく左右に揺れている。
「エミル、アヤメ……! 本当に、ありがとうな……!」
「バルディア、礼はいい。まだ助けたわけじゃないんだから」
「へへっ、そうだな……! でも、頼るアテがなかったから、嬉しくてよ……」
バルディアはごしごしと乱暴に目元を拭った。泣き顔を見られたのが恥ずかしいのか、真っ赤な顔で「さてと!」とパンと両手を叩く。
「兄ちゃんたち、宿はまだ取ってないんだろ?」
「ああ、そうだな」
「だったらウチに泊まっていけよ! 狭いけど、布団くらいは用意できるからさ! メシも……大したもんじゃねえけど、作ってやるよ!」
「いいのか? それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうかな」
「おう、お互い様だからな! 師匠はアタシのたった一人の家族なんだ。それに比べりゃ、これくらいなんてことねえよ!」
ニカッと笑うその顔には、もう迷いはなかった。
——家族、か。
その言葉が、エミルの胸を小さく抉った。
母を失い、孤独になった自分。だが今、こうして誰かの「家族」を取り戻すために動こうとしている。
それがなんだか、不思議な縁だと思わずにはいられなかった。




