第030話 馬鹿なやつら
「おいおいなんだ!?」
エミルに追いついたジムタイルが叫ぶ。
開けた空洞の中心に鎮座していたのは、黒曜石のような硬質な体毛に覆われた異形の魔獣。三つの頭を持ち、それぞれが紅い瞳を爛々と輝かせている。
その足元で、バルディアが倒れ伏していた。肩口から鮮血が溢れ出し、石畳を赤黒く染めている。片腕を押さえてうずくまる彼女の顔は、苦痛で歪んでいた。
「嘘だろ……グラナイト・ケルベロスだと!? なんでこんな化け物がこの階層に……!」
ジムタイルの顔から血の気が引く。B級冒険者である彼ですら、この魔物が規格外の存在であることを一目で理解した。
「リーダー、こいつはヤバい! あたしらじゃ手に負えない!」
「わかってる! 応援を呼ぶぞ、全員撤退だ!」
「だがバルディアの師は……。恩を売れるチャンスでもあるぞい」
パレニイが何事か囁くが、ジムタイルは首を横に振った。
「馬鹿言え! 奴はA級数人で挑むような奴だ。死んだら恩もクソもねえ!」
ジムタイルは決断を下し、踵を返そうとした。
「ま、待ってください! あの子を助けないんですか!?」
アヤメが悲痛な声を上げる。だが、ジムタイルは足を止めない。
「このままじゃこっちが全滅だ! 見捨てるしかねえんだよ!」
——見捨てる?
その言葉が引き金となった。脳裏に、血まみれの母の姿がよぎる。
救えなかった命。間に合わなかった後悔。床に広がる赤黒い血溜まり。
目の前で、また同じことが繰り返されようとしている。
「……ふざけるな」
気がついたら、声が漏れていた。地を這うような、低い声。
「ああ?」
「お前らは先に行け」
エミルは荷物をその場に投げ捨て、ジムタイルの前に立ちはだかった。
「おれは、あの子を助ける」
「……はっ、馬鹿じゃねえのかテメェ。死にてえのか? E級の雑魚が出張ったところで、犬の餌が増えるだけだぞ」
「それでも、だ。できる限りのことはする」
綺麗事じゃない。復讐を果たすまでは死ぬつもりはない。
だが、母を救えなかった後悔だけは、今もこの胸で燻り続けているのだ。もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
「……エミル様」
アヤメが息を呑んで見つめた。そして、静かに短剣を抜いた。
「わたしも残ります」
「おいおい、お嬢ちゃんまで狂ったか! 死ぬのは勝手だが、オレたちを巻き込むんじゃねえぞ!」
「行きましょう、エミル様!」
「ああ!」
ジムタイルの怒声を背に、二人はケルベロスに向かって駆け出した。
「ちっ、馬鹿な奴らだ……! 勝手に死んでろ!」
「リーダー、何してるの? 早く逃げないと……!」
ジムタイルは悪態をつきながらも、その場を動けずにいた。E級のひよっこと、か弱そうな娘。その二人が、B級の自分ですら逃げ出す相手に、ためらいもなく立ち向かっていく。その無謀な姿が、彼の冒険者としてのプライドを激しく揺さぶっていた。
「『翠風流剣技・木枯らし』!」
アヤメが風のように駆け、ケルベロスの注意を引きつける。鋭い剣閃が、魔獣の硬い体毛に火花を散らした。
グルォォォッ!
致命傷には程遠い。だが、一瞬だけ、ケルベロスの意識がバルディアから逸れた。
その隙を、エミルは見逃さない。
——暴走の危険はあるが……、やるしかない。
ブラドとの模擬戦で、憎しみに呑まれたあの感覚が蘇る。制御を失う恐怖。自分が自分でなくなる恐怖。だが今は、その恐怖を押し殺すしかない。
『空間転移』でケルベロスの頭上に移動する。眼下に見える三つの頭。中央の脳天を狙い——。
「『黒焔・業』!!」
渾身の一撃を振り下ろした。
ズドォォォォンッ!!
洞窟全体を揺るがすような、重く鈍い衝撃音。ケルベロスの頭蓋骨に亀裂が走り、巨体が大きくよろめいた。
ガアアアアアア!!
激痛と怒りに、残る二つの頭が絶叫する。憎悪の矛先が、手傷を負わせたエミルへと向けられた。空中でまだ体勢を立て直せない隙に、左右の頭が牙を剥いて襲いかかる。
「ちっ……!」
咄嗟に『空間転移』で地面に着地する。だが、ケルベロスの反応速度が想像以上だった。着地の隙を狙った巨大な前足が、容赦なく薙ぎ払う。
「がはっ……!」
スキル【硬化】で咄嗟に防御した腕が、ミシミシと悲鳴を上げる。体が岩壁に叩きつけられ、肺から空気が絞り出された。
ケルベロスは、エミルに追撃を仕掛けようとした。だが——その足が、ピタリと止まる。中央の頭からはドス黒い体液が流れ出し、傷口が再生する気配はない。
グルルルル……。
ケルベロスは低く唸ると、忌々しげにエミルたちを一瞥し、踵を返した。ズシン、ズシンと地響きを立てながら、ダンジョンの奥深くへと姿を消していく。
「はぁ……っ、はぁ……」
静寂が戻った空洞に、二人の荒い息遣いだけが響く。遠巻きに見ていたジムタイルたちが、信じられないものを見たという顔で、呆然と立ち尽くしていた。
「……嘘だろ。あいつら、あのケルベロスを追い払いやがった……」
「E級と……素人の女が……?」
エミルは痛む体を叱咤し、倒れているバルディアのもとへ這うように駆け寄った。アヤメもすぐに追いつく。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か!」
「……ぅ……」
バルディアの琥珀色の瞳が、うっすらと開く。
「テメェら……なんで……逃げなかったんだよ……」
「気にするな。それより自分の身を案じろよ」
エミルは着ていた服を破き、彼女の肩の傷口をきつく縛って止血する。傷は深いが、致命傷ではない。早く治療すれば助かるはずだ。
「へへっ……馬鹿なやつら……」
バルディアは力なく笑うと、そのままガクリと意識を手放した。
「おい、バルディア!?」
慌てて彼女を抱きかかえる。まだ息はある。だが、このままでは危険だ。
エミルは振り返り、まだ棒立ちになっているジムタイルたちを睨みつけた。
「おい、ジムタイル!」
「っ……!」
さっきまでの見下した態度はどこへやら、ジムタイルは気圧されたように肩を震わせた。
「こいつを助けるぞ! 手を貸せ!」
「あ……ああ、わ、わかったよ……」
ジムタイルはバツが悪そうに顔を背け、大きくため息をついた。
「……おいロリッチ、手当てだけしてやれ」
「はあ、貸しにしとくかんね」
ヒーラーの猫獣人ロリッチが駆け寄り、バルディアの傷に治癒魔法をかける。淡い緑の光が傷口を包み込み、出血が止まっていった。




