第003話 女剣士
暗い水底のような場所だった。足元には、粘りつくような血の海が広がっている。
「……ミル……エミル……」
振り返ると、そこには母が立っていた。いつものエプロン姿で、優しく微笑んでいる——はずだった。
「母さ——」
駆け寄ろうとした足が、凍りつく。
母の腹部から、ドクドクとどす黒い赤が溢れ出していたからだ。そしてその顔から、表情が抜け落ちていく。
「なんで……助けてくれなかったの?」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「ごめん……ごめん、母さん……!」
謝罪の言葉しか出てこない。
助けられなくてごめん。守れなくてごめん。おれが弱かったから。おれが、何もできなかったから。
「あなただけ、生き残るの?」
母が、ゆらりと近づいてくる。血に濡れた手が、ゆっくりとエミルの首へ伸びてきた。
冷たい。死人の冷たさが、喉元に触れる。指が食い込み、息ができない。
「一緒にいきましょう、エミル」
視界がぼやける——。
「うわあああああああああああっ!!」
絶叫と共に、体を跳ね起こした。
呼吸は荒く、全身からは冷や汗が吹き出している。心臓がバクバクと暴れ、耳の奥で血流の音がうるさい。
「……はぁ……はぁ……夢、か……」
視界が定まってくると、そこは見知らぬ森の中だった。木漏れ日が差し込み、パチン、と乾いた音がして白い煙がたなびいている。
「気がつきましたか」
自分に向けて掛けられた声に、弾かれたように顔を上げる。
焚き火を挟んだ向かい側に、一人の少女が座っていた。
「大丈夫ですか? うなされていましたよ」
さっき化け物を一刀両断して救ってくれた、あの少女だ。
淡々と語る表情には、同情も興味もない。ただ事実を述べているだけ、といった様子だ。
ようやく意識がはっきりしてくると、肌に直接当たる風の冷たさに気づいた。
「……え?」
視線を落とす。
自分の上半身が、白日の下に晒されていた。
「っ……!」
エミルは咄嗟に両腕で胸を隠した。
三十五年の人生で、女性の前で裸になったことなど一度もない。いや、そもそも女性と二人きりになったこと自体、数えるほどしかない。それがこんな明るい場所で、見知らぬ美少女の目の前で。
情けなさで顔が熱くなる。
「な、なんで……服が……」
「傷を確認するために脱がせました。あれだけの血です。どこか深手を負っていると思いましたので」
少女の瞳には、羞恥も動揺もない。ただ合理的な観察眼だけがある。それが余計に、エミルの居心地を悪くさせた。
「き、君が……脱がせたのか……?」
「他に誰がいるんです? 安心してください、見たところ大きな外傷はありませんでした。打撲と擦り傷程度ですよ」
少女はそう言うと、膝の上に置いてあった白い布をこちらに差し出した。
エミルのワイシャツだ。
「この服にはこれだけの血がついているのに……。何かあったのですか?」
ドクン、と心臓が跳ねた。羞恥心が、一瞬で冷え固まる。
差し出されたワイシャツには、べったりと赤黒い染みが張り付いていた。母の血だ。この生々しい証拠が、全てが現実だと突きつけてくる。
「……っ!」
エミルは少女の手から、ひったくるようにワイシャツを奪い取った。
「あっ……」
「触るな!」
気づけば叫んでいた。シャツを裸の胸に強く抱きしめる。血の付いた部分を、自分の肌に押し付けるようにして。
——これは、ただの血じゃない。
鉄臭い匂いが鼻を突く。ごわついた感触が、肌に張り付く。
——これが、これだけが、今の自分にとって唯一の……!
「……そうですか」
少女は驚いたように目を見開いたが、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、腰の鞄から小さな小瓶を取り出し、こちらへ差し出してきた。
「事情は聞きません。ですが、顔色が最悪です。せめてこれを」
「……いらない」
「ポーションです。飲めば体力も回復しますし、落ち着きますよ」
「いらないと言ってるだろ」
拒絶の言葉を吐き捨て、視線を逸らす。
だが、少女は引かなかった。眉をひそめ、呆れたようにため息をつく。
「はぁ……困りましたね。せっかく助けたのに、ここで野垂れ死にされてはわたしの寝覚めが悪いのです」
「それはそっちの都合だろ。おれはいらないと言って……」
「ええ、わたしの都合です。ですから——」
トン、と地面を蹴る音。
反応する間もなく、目の前に少女の顔があった。
「!?」
「飲んでください」
抵抗しようとした瞬間、細い指に顎を掴まれ、強引に上を向かされる。見た目に反して、万力のような力だった。
驚いて開けた口に、小瓶の液体が一気に流し込まれる。
「んぐっ……!?」
薬臭い液体が喉を滑り落ちていった、次の瞬間。
ドクンッ。
体の中で、何かが爆発した。
「が、はっ……!?」
熱い。熱い熱い熱い!
液体が胃に落ちた瞬間、それは灼熱のマグマとなって全身の血管を駆け巡った。血管という血管が沸騰し、皮膚の下で何かが暴れ回っている。
——まさか、毒か……!?
身体の奥深く、魂の中心。固く閉ざされていた何かの錠が、無理やりこじ開けられるような感覚。眠っていた何かが、強制的に叩き起こされる。
「ぐっ……う、あああああああっ!!!!」
喉の奥から、獣のような咆哮が漏れた。全身から玉のような汗が噴き出し、視界が明滅する。
「え? ちょ、ちょっと!?」
少女が慌てた声を上げた。先程までの冷静さが嘘のように、顔が強張っている。
だが今のエミルには、説明する余裕がない。
パチン。
体の中で、何かが弾けた。
その直後、嘘のように熱が引いていく。
重かった四肢が軽い。五感が研ぎ澄まされ、森のざわめきさえ鮮明に拾える気がした。
——なんだ、今の感覚は。
肩で息をしながら、エミルは少女を睨みつけた。
「……何を飲ませた?」
「わ、わたしは何も! 本当に、ただのポーションで……」
「ポーション? これが……?」
ゲームやアニメで見てきた「ポーション」とは明らかに違う。まるでガソリンを飲んでエンジンを点火されたような——そんな馬鹿げた例えしか浮かばない。
「あの、大丈夫ですか……? 魔力酔い、にしては反応が過剰すぎましたが……」
「ああ、多分……。身体は軽いし、痛みもなくなってる」
「そうですか。……とにかく、回復はしたようですね」
少女は安心したように息をつくと、手早く荷物をまとめ始めた。
「さて。これ以上、ここで油を売っている時間はありません。わたしは先を急ぎますので」
荷物を背負い、別れを告げるようにエミルとは別の方向を向く。
異世界で始めて出会った人間。この時間が終わってしまう。
そう思ったら、咄嗟に声が出ていた。
「おい、待ってくれ」
呼び止めると、彼女は足を止めて振り返った。
「あの、名前……君の名前、教えてくれないか。助けてくれたんだろ」
「……アヤメです」
「アヤメ……さんか……」
「わたしに"さん"は不要ですよ。ちなみにあなたは?」
「……エミルだ」
「エミル様、ですね」
「いや、おれだって"様"なんていらないんだけど……。それよりアヤメ、最後に教えてくれないか。ここはどこなんだ? おれは日本の、自分の家に帰りたい。帰り方を知らないか?」
一縷の望みをかけて問う。
しかしアヤメは、きょとんと首を傾げただけだった。
「ニホン……? 聞いたことがありませんね。辺境の村でしょうか?」
その答えに、心が急速に冷えていく。
唯一の手がかりだと思ったこの少女も、答えを知らない。やはり、ここは地球ではない。完全に別の世界なのだ。
「すみません、お力になれず」
「……いや、いいんだ。変なこと聞いて悪かった」
「ですが、落ち込むのはまだ早いかと」
アヤメは森の木々の隙間、北の方角を指差した。
「この森を抜けて北へ進めば、一日ほどで『セルディス王国』の首都、ラグネシアに着きます。そこには大きな冒険者ギルドがありますから、そこで情報を集めてみてはどうでしょう」
セルディス王国。ラグネシア。冒険者ギルド。
——冒険者ギルド、ときたか。
ゲームや漫画でさんざん見てきた単語だ。本当にそんなものがあるのか。いや、魔物がいる世界なら、冒険者がいてもおかしくない。
「……わかった。行ってみるよ」
「ええ。それでは、今度は魔物に気をつけてくださいね」
アヤメは一礼すると、迷いのない足取りで森の奥へと消えていった。
後に残されたのは、静寂と、焚き火の煙だけ。
「……北へ、か」
エミルは立ち上がった。
ワイシャツに腕を通し、ボタンを一つずつ留めていく。身体は軽いが、心には鉛のような重りがぶら下がっている。
行くしかない。こんなわけのわからない場所で、野垂れ死ぬわけにはいかない。
エミルは胸元のワイシャツを強く握りしめた。ごわついた感触に鉄のにおい。
「待ってろよ……」
母を殺した、あの男。
元の世界に戻って、必ず見つけ出す。この手で地獄へ叩き落としてやる。
そのためなら、どんなことだってしてやる。
エミルは焚き火を踏み消すと、アヤメが教えた方角へ、重たい一歩を踏み出した。




