第026話 ラグネシアの夜
「は? ひと部屋しか空いてない?」
宿に着くなり告げられた現実に、エミルの酔いは一瞬で吹き飛んだ。
「すまねぇな、お客さん。うちは冒険者御用達だから埋まりが早くてよ。別の宿もあるにはあるが、ここからかなり歩くぜ」
宿の主人が申し訳なさそうに頭を掻く。
冗談じゃない。
中身は三十五のおっさんでも、身体は血気盛んな十七歳だ。そして隣にいるのは十五歳の美少女。
同じ部屋で夜を明かすなんて、どう考えてもまずい。
「……仕方ない。おれは床で寝る。アヤメはベッドを使ってくれ」
これが大人としての精一杯の解決策だ。
そう判断して荷物を置こうとしたが、アヤメはぶんぶんと首を横に振った。
「なりません! エミル様はダンジョンに模擬戦にと、一番お疲れのはずです。わたしこそ床で……」
「馬鹿言うな。お前だって長旅でボロボロだろ」
「う……でも……」
アヤメは何か言い返そうとして、言葉を探すように視線を泳がせた。
「じゃ、じゃあ、ベッドで一緒に寝るとかは……」
「ぶっ……!?」
思わず、変な声が出た。
「……却下だ」
「で、ですよね! わ、わたしは何言ってるんだろ……ははは」
アヤメは真っ赤になった顔を両手で覆った。
その隙間から、ちらりとエミルの反応を窺っている。
「へいへい、痴話喧嘩なら部屋でやってくんな。ほら、鍵だ」
生暖かい視線に見送られながら、二人は部屋へと向かった。
通された部屋は決して広くはない。ベッドが一つと、小さなテーブルがあるだけ。
扉が閉まった瞬間、妙な緊張感が二人を包む。
「……あの、エミル様。やはりわたしが」
「あのな。いい歳した大人が、年頃の女の子を床で寝かせて平気で寝れるわけないだろ」
「いい歳した大人って、わたしと二つしか変わらないじゃないですか! い・や・で・す!」
こうなるとアヤメも引かない。
しばらく子供じみた押し問答が続いた後、エミルは大きくため息をついた。
「……わかった。コイントスで決めよう。勝った方が床だ」
「……変な勝利条件ですね」
「文句は言わせないぞ」
ピンと弾かれた銀貨が宙を舞い、エミルの掌に落ちる。
「表だ。おれの勝ちだな」
「うう……」
アヤメは不服そうに頬を膨らませたが、渋々ベッドに向かった。
—————
「ふぅ……日本人はやっぱ風呂だよなぁ」
宿に併設された公衆浴場。
エミルは湯船に肩まで浸かり、天井を仰いで至福のため息を漏らした。この世界に来て初めての、まともな入浴。温かい湯が、戦いで凝り固まった筋肉をじんわりとほぐしていく。
——やっぱ風呂とトイレは現代日本が最強だな……。
湯気の中で、エミルは自分の身体に起きた変化に思いを巡らせる。
——おれのあの黒いモヤは、明らかにこの世界の理から外れた代物だ。
そして何より危険なのは、あの力が自分の憎しみや怒り、過去のトラウマといった負の感情に呼応して増幅すること。
ブラドとの模擬戦で暴走したときは、自分じゃないようだった。
憎しみと後悔に呑まれ、ただ破壊をまき散らすだけの獣だ。
もし、あの力の矛先が、アヤメに向いていたら?
考えただけで、血の気が引いた。
制御しなければ。この力に呑まれたら、復讐を果たす前に自分自身が怪物になってしまう。
無事に元の世界に帰るためにも、母さんのためにも、そして、アヤメを傷つけないためにも。
エミルは湯の中で、固く拳を握りしめた。
—————
部屋に戻ると、アヤメはすでに小さな寝息を立てていた。
音を立てないよう、そっと床に敷いた毛布の上に横たわる。固い床が背中に当たるが、これくらいはどうってことない。
しかし。
——眠れん。
同じ部屋に年頃の少女。小さな寝息も、衣擦れの音も、いちいち意識してしまって心が落ち着かない。
——これが十七歳の肉体か……。
精神は三十五歳でも、身体は正直だ。理性と本能のギャップに、一人悶々とする。
もう考えるのをやめようと無理やり目を閉じた、その時だった。
「……ンちゃん……リンちゃん……」
震える声が、静寂を裂いた。
「ごめんね……わたしの、せいで……」
アヤメの声は涙に震え、深い後悔と苦しみに満ちていた。
「うっ……うう……」
抑え殺すような嗚咽が続く。
エミルは思わず身を起こしかけたが、寸前で踏みとどまった。
——今、声をかけてどうする?
『大丈夫か?』
聞けるわけがない。大丈夫じゃないから泣いているんだ。
『気にするな』
言えるはずがない。彼女にとって、忘れられない痛みなんだ。
安易な慰めが、かえって傷を抉ることもある。
人と関わることから逃げ続けてきた自分には、他人の心の傷に触れる資格なんてない。
——そういや、大切な人を守れなかったって言ってたな。
彼女の心の聖域に、土足で踏み込んでしまったような罪悪感。高ぶっていた身体の熱は急速に冷え、代わりにやるせない思いが胸を満たしていく。
それでも。
せめて、そばにいることくらいはできる。一人じゃないと、感じてもらうことくらいは。
わざと大きく寝返りを打ち、シーツを音高く擦らせた。
そして、ゴホン、とわざとらしく咳き込む。
「ん……」
アヤメの嗚咽がぴたりと止まる。
しばらくして、また静かな寝息に戻っていった。
——これでいい。
エミルは目を閉じた。いつの間にか、意識は深い眠りへと落ちていった。
◆◇◆◇◆◇◆
同じ頃、ラグネシアの夜の街を、二つの影が歩いていた。
一人は、丸太のような腕に巨大な戦槌を担いだドワーフ族。S級冒険者『グリア・バナザード』。
もう一人は、頭上に二本の角を誇り、夜風に金色の長髪をなびかせるオーガ族。同じくS級冒険者にして、冒険者総ギルド長『ブラマンテ・グーリン』。
その圧倒的な威圧感に、夜遊びに興じていた酔っ払いたちが、蜘蛛の子を散らすように道を空けていく。
「強い魔力を感じてギルドに寄ってみたが……面白い御人がいたようですな」
グリアが立派な頬ひげを撫でながら、ニヤリと笑う。
「はっはっは! だがブラドは冒険者を引退して何年になる? ブランクのあるおっさんに勝っただけなんじゃないか」
「彼は全盛期の力こそないが、腐っても元A級ですぞ。それを圧倒したあの冒険者……なんと無属性のE級なんだとか」
「ほう……無属性のE級が、ねえ……」
ブラマンテの金色の瞳が、獲物を見つけた猛獣のように鋭く光る。
「だがブラドからは推薦が上がってこなかった。手加減でもしてたんじゃないか?」
「吾輩もそこまではわかりませんがな。だが、あの眼……ただの弱者の眼じゃありませんでしたぞ」
「ほう、グリアがそこまで言うとはな、面白い。冒険者なら、いずれどこかで会うこともあるだろうさ」
ブラマンテは義手の右腕を軽く鳴らした。
「ではブラマンテ殿。吾輩は教会の方で用がありますので、これにて失敬」
「ああ、例の件か。俺も弟に久しぶりに会いたいが、嫌われているからな……。大人しく戻るとしよう」
二人は軽く手を挙げて別れ、それぞれの方向へと消えていった。




