第025話 不器用な二人
セルディス王国の首都・ラグネシア。
夕暮れに染まる大通りは、一日の仕事を終えた人々の安堵と熱気で満ちていた。屋台から立ち上る肉の焼ける匂い、酒場から漏れ聞こえる笑い声。行き交う人々は誰もが明日を信じて生きている。
——平和な日常、か。
エミルの胸に、鋭い痛みが走った。
復讐だ、新たな力だと息巻いていたくせに、結局は自分を見失い、醜態を晒しただけ。こんな日常を味わう資格が、自分にあるのだろうか。
ふいに、裾を引かれる感触があった。
「あの、エミル様」
立ち止まって振り返ると、アヤメが上目遣いにこちらを覗き込んでいた。夕陽を背負ったその表情は、どこか遠慮がちだ。
「……なんだ?」
「その……せっかくですから、今夜はお祝いをしませんか?」
「祝い? 何の?」
「だって、わたしにとっては初めてのダンジョンで、初めて誰かと一緒に魔物を倒したんですよ?」
「……おれだって、そうだよ」
アヤメの気持ちはわかるものの、どうにも祝う気分にはなれない。
自分の力も制御できず、感情の赴くままに暴走した。挙句の果てに何時間も気を失い、アヤメにとっても貴重な時間を徒に消費させている。
「エミル様、さっきからずっと暗い顔をしています。きっと、わたしにまた迷惑をかけたと思っているのでしょう?」
図星だった。エミルがバツが悪そうに視線を逸らすと、アヤメは強引に一歩踏み出してきた。
「ダメです! 今日はとことん付き合ってもらいますよ。せっかくの初報酬、パーッといきましょう!」
「お、おい……」
強引に腕を引かれ、小さくため息をついた。
彼女だって、父親の病気を治すための旅の途中だ。不安がないわけがない。それでも、沈んでいる自分を励まそうとしてくれている。
この真っ直ぐな優しさに、薄汚れた心が焼かれるようだ。
「……わかった。付き合うよ」
「やったあ!」
アヤメが子供のように喜ぶ。その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
—————
「いらっしゃい!」
冒険者たちが集う酒場の扉をくぐると、熱気と喧騒が波のように押し寄せてきた。
むせ返るような酒と肉料理の匂い、屈強な男たちの荒々しい笑い声。冒険者たちが今日の戦果を自慢し合い、明日への英気を養う場所。その全てが、この異世界で自分が生きているのだと、否応なく実感させた。
「お客さん、こちらへどうぞ!」
案内された奥のテーブル席に腰を下ろし、早速エールと肉料理を注文した。
討伐報酬の袋をテーブルに置く。七百万ルミナ——元の世界で考えれば、一流企業に勤める人がもらう年収に相当するだろうか。命懸けで得たこの金は、ただの数字以上の重みを持っていた。
「お待たせしました!」
ほどなくして運ばれてきたのは、黄金色に輝くジョッキと、皿からはみ出んばかりの骨付き肉。カリストラでは十六歳から飲酒が可能なため、十五歳のアヤメの前には搾りたての果実ジュースが置かれた。
「では、改めて。お疲れ様でした、エミル様。わたしたちの、最初の祝杯ですね」
アヤメが両手でグラスを持ち上げ、少しはにかむように微笑む。
「ああ。おれたちの、な」
カコン、と杯が触れ合う。
エミルはジョッキを煽り、エールを一気に喉へ流し込んだ。冷たい刺激と麦の苦みが、渇いた喉を駆け抜けていく。
「……ぷはっ」
思わず息が漏れる。
その瞬間、押し込めていた自己嫌悪もまた、泡のように浮き上がってきた。
——元の世界に戻る手がかりはゼロ。訳も分からず暴走して、ギルドの連中に迷惑をかけた。目の前の少女には、二度も心配と迷惑をかけた。そんな男に、祝杯を上げる資格なんて、あるはずがない。本当に、おれはここで笑ってていいのか?
「エミル様?」
アヤメの声で現実に引き戻される。彼女が心配そうにこちらを見つめていた。
「大丈夫ですか? お口に合いませんでしたか?」
「……いや、久しぶりの酒が効いただけだ。美味いよ」
嘘だった。
酒は美味いが、この温かい空間が居心地悪くて仕方がない。誰かと一緒にいることの温もりを感じれば感じるほど、自分の中の空虚さが際立ってしまう。
「あの……」
アヤメが躊躇いがちに口を開いた。
「わたしだって……父は今頃、病気と戦っているはずです。国のみんなだって苦しんでいる。なのに、わたしだけこうして、美味しいものを食べて、笑っていて……」
彼女は一度言葉を切り、唇を噛んだ。
「わたしが誘った手前、こんなことを言うのは間違っていますよね。でも、心のどこかで、本当に楽しんでいいのかなって……」
その言葉は、エミルの胸にも深く突き刺さった。だからこそ放っておけなかった。
エミルは無言でナイフを手に取ると、大皿の肉を切り分けた。一番柔らかそうな部分をアヤメの皿に放り込む。
「食え」
「え?」
「腹が減ってちゃ、戦えないだろ。お前が倒れたら、それこそ親父さんも兄貴も悲しむ」
「でも……」
「……すまん。おれが暗い顔してるから、お前にまで気を遣わせたな。せっかく元気づけようとしてくれていたのに……悪かった。考えたって、仕方ないのにな」
「エミル様、わたしは……」
「だから、今は食え。次に進むための力を蓄えるんだ。楽しむべき時は、楽しむ。……それで、いいんじゃないか」
自分にも言い聞かせるように話した。
アヤメの大きな瞳が、みるみる潤んでいく。だが、彼女は俯かなかった。涙で濡れた瞳のまま、それでも精一杯の笑顔を作って、こくりと頷いた。
「……っ、それも、そうですね!」
アヤメは涙を拭うと、勢いよく肉にかぶりついた。リスのように頬を膨らませ、もぐもぐと咀嚼する。
「ん〜っ! 美味しい、です……っ!」
「……そうだな。食ってりゃなんとかなる、な」
その健気な姿を見て、エミルは微かに口元を緩めた。
——この子を守りたい、とか。そんな大それたことは言えない。おれにはそんな資格はない。
でも、せめてこの旅の間だけは、この子が笑っていられるような自分でありたい。それくらいの願いは、許されるだろうか。
重い空気が霧散し、二人の間に穏やかな時間が流れ始めた。
—————
酒が進むにつれ、意識が徐々に朦朧としてきた。
「エミル様、もう十分では……」
「まだ、飲める」
強がりだった。
本当は、酔って何も考えたくなかった。暴走した自分の醜態も、母への罪悪感も、全部忘れてしまいたかった。酔いに逃げるのは最低だとわかっている。でも、素面でいると、頭の中がうるさくて仕方がない。
「お顔が真っ赤ですよ? もう、無理しないでください」
心配そうなアヤメが、エミルの手からジョッキを取り上げようとする。
「……! 無理なんてしてねえよ」
強がって立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。久々の酒は、想像以上に体にこたえていた。
「おっと……」
「もう、いわんこっちゃない!」
ドサリ。
倒れそうになった身体を、柔らかな感触が受け止めた。慌てて支えてくれたアヤメの、華奢な肩と、微かな甘い香り。
その不意の接触に、心臓が跳ねる。
ずっと気を張っていた反動か、それとも酒のせいか。密着した彼女の温もりが、空虚だった胸の奥に染み込んでくる。
「す、すまん……」
「しっかりしてください。宿まで肩を貸しますから」
耳元で囁かれる声。その無防備な優しさが、孤独に慣れきったエミルの理性を、甘く、危険なほどに揺さぶっていた。




