第024話 力への嫌悪
消毒液のツンとした匂いが、エミルの意識を現実へと引き戻した。
重い瞼をこじ開けると、見慣れない木目の天井が視界に映る。全身を襲うのは、ひどい筋肉痛のような倦怠感と、体の芯から魔力がごっそりと抜き取られたような、空っぽの感覚だった。
「……っつ……」
「エミル様! 目が覚めましたか!」
すぐ傍らから聞こえた声に視線を向ける。ベッドの脇に置かれた丸椅子に、アヤメが腰掛けていた。
「……ここは?」
「ギルドの医務室です。あの後、エミル様が気を失ってしまって……」
アヤメの言葉で、模擬戦の記憶が生々しく蘇る。
燻っていた過去のトラウマが一気に噴き出した。理性のタガが外れ、制御できずに暴走した己の醜態。あの黒い焔は復讐の誓いなんかじゃない。ただの癇癪だ。
「……っ」
エミルはシーツを強く握りしめた。自己嫌悪が黒いヘドロのように胃の底からせり上がってきて、吐き気すら覚えた。
「エミル様、どこか痛みますか?」
心配そうに身を乗り出すアヤメに、エミルは顔を背けた。彼女の真っ直ぐな瞳が痛い。この純粋な優しさに触れる資格が、今の自分にあるのか。
「……ブラドはどうなった?」
「ブラド様ならご無事です。お怪我は……その、されましたけど、命に別状はないと」
「……そうか」
最悪の事態だけは避けられた。安堵と同時に、そんな状況に追い込んでしまった罪悪感が再び胸を締め付ける。
「おれ、どのくらい倒れてたんだ……?」
「四、五時間くらいでしょうか……。ギルドの治癒術師の方が言うには、極度の魔力枯渇と精神疲労、だそうです」
「そっか、すまん」
力を振るった代償がこのザマか。暴走した挙句、また倒れて世話になるとは、情けないにも程がある。
「いえ、タルマ村の時よりお目覚めが早くてよかったです」
「……よく倒れるな、おれは。君の前で」
「ふふふ、もう慣れちゃいました。エミル様が倒れた時は、わたしが支えますから」
屈託のない笑顔。
いじめられ、裏切られ、人を信じることをやめた。他人と関われば、ろくなことがない。そうやって心を閉ざしてきたはずなのに。
アヤメの献身は、そんなエミルの頑なな心を、温かい陽だまりのように溶かしていく。
だからこそ、怖い。この温もりに慣れてしまったとき、また失うのが。あるいは、この自分の手で壊してしまうのが。今回の暴走は、その可能性を十分に感じさせるものだった。
そんな考えを思い巡らせていた時、ガチャリ、と扉の開く音がした。
入ってきたのは、腕を包帯で吊り、額に大きな絆創膏を貼ったブラドだった。
「……目が覚めたか」
重く低い声。エミルは身の置き所がない思いで、再びシーツを握りしめた。
「ブラド……その、すまなかった。おれは……」
「いや、いい。俺も久々の戦いで熱くなっちまった。気に病むな」
ブラドは椅子を乱暴に引き寄せると、ベッドの横にどかりと腰を下ろした。
「筋書き通り、事は進んでいる。『無謀なE級冒険者エミルがギルド長に決闘を申し込み、ギルド長は善戦虚しく敗北。その規格外の実力を認めた上で、緊急クエストであった地底の暴君の討伐を正式に依頼し、エミルは見事それを達成した』。当初と少し変わったが、これで組合への報告書は上げておく」
淡々と語られる言葉に、エミルは顔を上げられない。
「だが、それはあくまで“表向き”の話だ」
ブラドの声のトーンが、一段と低くなる。
「エミル、単刀直入に聞く。……お前、一体なんなんだ?」
その問いに、エミルは唇を噛む。答えようがなかった。自分でも、この力の正体が皆目見当もつかないのだから。
「あの力はなんだ? 無属性と診断されたお前が、なぜあんな真似ができる?」
「……そんなこと、おれが一番知りたい」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。
「後でもう一度測定していくか? 前例はないが……測定器のエラーという可能性もゼロではない」
「い、いや、もういい。魔物の討伐が認められるなら、それでいい」
冗談じゃない。もし再測定して「土属性」なんてものまで検出されたら、それこそ話がややこしくなる。無属性という今の評価は、この得体の知れない力を隠すための、好都合な隠れ蓑だ。
「そうか……地底の暴君を倒した功績は認める。素材の分や依頼達成の報酬は、後で受付に寄って受け取れ」
「……ああ」
「だがな、今回の件でお前の冒険者ランクがすぐに上がるわけじゃない。筋書きはそうだが……あんな姿を見て、今の段階で昇級させるのは危険だと俺が判断した。……一旦、保留だ」
「……わかった。当然の判断だと思う」
「そんなに気を落とすな。地底の暴君を倒した事実は変わらない。地道に実績を重ねていけば、昇級なんざすぐに追いつくさ」
ブラドはポン、と軽くエミルの肩を叩く。その掌は、驚くほど温かかった。
—————
「すごいですよ、エミルさん! あのギルド長に勝っちゃうなんて……! 私、ファンになっちゃいそうです!」
「は、はは……まあ、運が良かっただけ……かな、はは」
受付嬢ベリンダは、頬を上気させ、目をキラキラと輝かせながら身を乗り出していた。最初の事務的な態度はどこへやら、その瞳にはあからさまな憧れの色が宿っていた。
エミルは苦笑いで受け流すが、ふと背中に冷ややかな視線を感じた。
「ん、どうした? アヤメ」
「……べつに。なんでもありません」
素っ気ない返事。プイと顔を背けるその横顔は、明らかに不機嫌だった。
「そうだ、エミルさん。ギルド長から預かっていたものがありました」
そんなエミルの戸惑いをよそに、ベリンダはカウンターの下から、ズシリと重そうな革袋を取り出した。ジャラリ、と硬貨の立てる重厚な音が響く。
「地底の暴君の討伐報酬、素材の買い取り、薬草採集のクエスト報酬、合わせて――七百万ルミナです。C級冒険者でも、一度に手にする額じゃありませんよ!」
七百万ルミナ。その途方もない数字に、エミルは息を呑んだ。隣のアヤメも、不機嫌だったのも忘れたように目を丸くしている。
「な、七百万ルミナ……!? すごいですよ、エミル様! 二年は働かなくても暮らせる大金ですよ、これ」
「へえ、これで当面の資金の心配をせずにすむな。それならベリンダさん、腕のいい武器屋を知らないか? おれは武器を使わないが、アヤメにはちゃんとした剣を持たせたいんだ」
「えっ!? いえ、わたしはこれで十分ですよ? せっかくエミル様から頂いたものですし……!」
慌ててアヤメが首を横に振るが、エミルは聞かない。
「そうですねえ……予算をしっかり取るのであれば、グロムハルトへ向かわれてはいかがでしょう? ドワーフの鍛える武具は、質実剛健でどれも一級品ですよ!」
ドワーフの国「グロムハルト」。奇しくも、アヤメが次に向かうと話していた場所だ。
「なるほど……、こりゃちょうど良いな」
「ちょ、ちょっとエミル様? わたしのを勝手に決めないでくださいよ……」
「まあ、いいじゃんか。どうせ次はグロムハルトに向かうんだろ」
「それはそうなんですけど……むむむ」
アヤメが不満げに頬を膨らませる。
「あ、そうだ。ブラドはもういないのか?」
「ギルド長なら先ほど……。なんでも、この国で人身売買が密かに行われている噂があるとかで、オラクルズと連携して調査に向かわれました。エミルさんたちも、あまり夜中は出歩かないほうが良いですよ」
ため息混じりにつぶやくベリンダに、エミルは頷く。
「そっか……。ブラドによろしく伝えておいてくれ。世話になった、と」
「はーい、がんばってくださいね!」
ベリンダに見送られ、エミルとアヤメはギルドを後にした。
ラグネシアの空は、いつの間にか茜色に染まっている。
「もう遅いし、明日出発しよう」
「そうですね!」
こうしてエミルたちはラグネシアで一泊し、翌日にはドワーフの国・グロムハルトへ旅立つことに決めた。




