第023話 暴走
演習場に、熱気が充満していた。
いつの間にか、詰めかけた野次馬が周囲を囲っている。誰もが固唾を呑んで、これから始まる"茶番"を見守っていた。
E級冒険者がA級相当のダンジョンボスを討伐した。そんな前代未聞の報告をごまかすため、ブラドが提示した筋書き——それがこの模擬戦だ。
『E級のランクに不満を持った新人が、ギルド長に無謀な挑戦。その実力を認め、特例で緊急クエストを許可。見事達成した』
茶番といえば茶番だが、今のエミルには渡りに船だった。面倒な詮索を躱せて、金も手に入る。断る理由はどこにもない。
適当に打ち合って、最後はブラドの顔を立てて負ければいい。それだけの話のはずだった。
「……悪いな。こんな茶番に付き合わせちまって」
「気にするな、しょうがないさ」
エミルは肩をすくめた。
「エミル様ー! 頑張ってください!」
人垣の中から、ひときわ通る声が飛んでくる。ぶんぶんと手を振るアヤメの姿が目に入り、エミルは思わず頬を掻いた。
だが、その声援が少しだけ、張り詰めていた肩の力を抜いてくれた気がした。
「さて、やるからには本気で行くぞ。お前も死ぬ気で来い」
「……あくまで模擬戦だよな?」
エミルの引きつった問いに、ブラドはニヤリと笑っただけだった。
ブラドが真剣を構えると、その瞬間、場の空気が凍りつく。その切っ先から放たれる殺気は、魔物とは質の違う、本物の強者だけが持つ圧を感じさせた。
「どうした。来ないならこっちから行くぞ!」
ドンッ!
踏み込んだのは、ブラドの方だった。巨体からは想像もつかない速度で距離を詰め、鋼の塊が眼前に迫る。
「なっ……!?」
反応が遅れた。思考と身体のズレ。そのコンマ数秒の隙間を、ブラドは見逃さない。
「『戴・武黎具』ッ!!」
「ちっ……!」
咄嗟に身を捻るが、シャツの肩口が弾け飛び、赤い線が走った。
「腕一本もらうつもりだったんだがな。……いい反応だ」
「……おいおい」
冷や汗が背中を伝う。
——速い。が、反応できないレベルじゃない。
数々のスキルで底上げされた身体能力が、常人ならざる反射神経を発揮していた。
——だけど話が違うぞ。適当にやってたら本気で死ぬやつじゃないか。
「おいおい、今の攻撃見えたか?」
「いや、全く……」
「あの小僧もあれを避けるとはな」
「俺なんかギルド長の戦いを初めて見られて興奮してきたぜ……!」
外野のざわめきが大きくなる。だが、エミルにそれを気にする余裕はない。
「反撃しないならいくぞ! 『刃元終幕』!!」
「くっ……!!!」
大気を斬り裂く、重い一撃。力任せに見えて、的確にエミルの腕を狙ってくる。紙一重で見切り、攻撃の範囲外へと身を滑らせた。
「す、すげぇ、あのガキあれもかわすのか……」
「だが、避けるので精一杯じゃないか?」
「ふん、所詮はE級。なんか姑息な手を使ってんじゃねえの」
野次馬の心無い言葉が、鼓膜を打ち始めた。
——手加減しながら反撃って、どうすればいいんだ?
エミルの右手が動かない。本気を出した瞬間、この茶番が崩壊する。
あくまで実力を拮抗させた上で勝負を付けないと、余計な詮索を呼ぶだけだ。あの黒い焔を、こんな大勢の前で晒すわけにもいかない。
「おいおい、そのスピードだけじゃ地底の暴君は倒せねぇだろ。もっと本気を見せてみろ!」
ブラドの挑発が、燻っていた苛立ちに油を注ぐ。
——焦るな。これはあくまで茶番だ。
頭では分かっている。適当に打ち合って、最後は負けたフリをすればいい。それだけの話だ。
それなのに、心の奥底で何かが軋んだ。
「いくぞ。『連続剣撃・羽廻猛牛』!!」
嵐のような連撃。必死で回避するが、次第に精彩を欠き、防御一辺倒になっていく。
「『抜刀術・枠内死遊』!!」
「……がっ!?」
鞘から放たれた閃光が、ついにエミルの脚を浅く切り裂いた。灼けるような痛みが走り、動きが一瞬鈍る。
——このままじゃ、ジリ貧だ……!
「なんだあいつ、避けるばかりでつまらねぇ」
「おーい、反撃しなきゃ勝負はつかねぇぞ!」
「結局E級なんかに期待するからこうなるんだ」
嘲笑が、容赦なく降り注ぐ。
会社で手柄を横取りされた時も、こうだった。
学生時代にいじめられていた時も、こうだった。
誰もが遠巻きに、無責任に面白おかしく、無力な自分を嗤っていた。
「はっ、なんだかんだやっぱE級かよ。逃げ足だけはS級ってな! ははは」
「ブラドさんの気迫にビビってんだよ、あんま言ってやんなって」
「違いねえ! 冒険者なんざ辞めて、ママのところに帰りな坊主!」
ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。
世界から音が消えたような錯覚。ただその言葉だけが、頭の中で反響し続ける。
——ママのところに?
帰れるものなら、帰りたいさ。
でも、もういないんだ。
おれが守れなかったせいで。
血の海に沈んだ母の姿が、網膜に焼き付いて離れない。
会社で手柄を横取りした同僚の嘲笑が、耳元で蘇る。
学生時代、無力な自分を囲んで笑っていた連中の顔が、観衆の顔と重なる。
——そもそも、なんでおれなんだ?
なぜおれだけがこんな目にあう? そこまで悪いことしたか?
母さんは理不尽に襲われ……こんな訳のわからない世界に飛ばされて……!
右も左もわからない。冒険者登録してみれば無属性だE級だと言われる。
おまけに、元の世界に戻れるかもしれない手がかりは空振りだ。
誰だ? 誰なんだ? こんな目にあっているおれを見て楽しいか?
なあ。なんでおればかりが貧乏くじを引かないといけない……!
後悔、絶望、憎悪。
これまで抑え込んでいたはずの負の感情が、黒い渦となって心を侵食していく。
心臓の鼓動に合わせて、視界が赤く染まっていく。身体の奥底から、熱い何かがせり上がってくる。
ブラドだけが、エミルの変化を敏感に感じ取っていた。纏う空気が、急速に禍々しいものへと変わっていく。
——なんだ、こいつ……?
長年の冒険者としての勘が、警鐘を鳴らし始める。
「……さっさと終わらせる。『大地隆盛』!!!!」
危険を察したブラドが、即座に勝負を決めにきた。
剣を地面に突き立てると、大地が軋み、無数の鋭い岩の棘がエミルを串刺しにせんと突き出す。全方位からの、逃げ場のない必殺の一撃。
だが、エミルの意識はもはやそこにはなかった。彼の心は、過去の悪夢と現在の屈辱が混じり合った、暗い奈落の底に沈んでいた。
「……ああああああああああああッ!」
獣の咆哮が喉からほとばしる。
思考するまでもない。本能だけが身体を動かしていた。
——『空間転移』。
岩の棘が体を貫く寸前、エミルの姿がかき消え、次の瞬間にはブラドの頭上へと転移していた。
もはや制御など効かない。禍々しい黒いオーラがエミルの全身を包み込み、その瞳は憎悪に燃える赤黒い光を宿していた。
「エミル様!?」
アヤメの悲鳴が聞こえた気がした。でも、もう止まらない。止められない。
——うるさい。お前らみたいな連中に、おれの何がわかる。
右手に凝縮された『黒焔』が、巨大な槌の形を成す。それは、エミルがこれまで積み重ねてきた後悔と絶望、その全てを叩き潰すかのような、破壊の塊だった。
「『黒焔・神喰奈落』ッ!!!」
理性を失った一撃が、ブラドへと叩きつけられる。
ドゴォォォォォォン!!!
地鳴りのような轟音と共に、演習場の壁が砕け散った。
巻き起こった爆風と砂埃が晴れた時、そこに立っていたのは、虚ろな目をしたエミルただ一人だった。
壁際には、瓦礫に半身を埋もれさせ、ぐったりと意識を失ったブラドの姿がある。その光景に、あれだけ騒がしかった観衆は声もなく立ち尽くしていた。
「……ぅ……」
エミルの口から、意味をなさない声が漏れる。黒い焔が霧散した瞬間、糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
「エミル様ッ!」
誰よりも早く駆け寄ったアヤメが、倒れるエミルを抱き止める。
「しっかりしてください……! エミル様……!」
必死に呼びかける声。だがエミルの意識は、急速に闇へと沈んでいく。
遠巻きに見つめる野次馬の目には、もはや侮蔑の色はない。あるのは、得体の知れない“怪物”を見るような、純粋な恐怖だけだった。




