第002話 未知との遭遇
——なんだ、この気配は。
ぞわ、と背筋に冷たいものが走る。
エミルが振り返ると、そこには視界を埋め尽くす黒い塊があった。
全身から針金のような剛毛を生やした、異形の獣。犬のようだが、決定的に違うのはその眼だ。額と両目、三つの眼球が別々にギョロギョロと動き、ピタリと同時に、エミルを捉えた。
グルルルッ……。
喉の奥から金属を削るような音が響く。
さっき誓った「元の世界に何としてでも帰る」という決意が、一瞬で吹き飛びそうになる。
——いや、ダメだ。
ここで死んだら、母さんの仇も討てない。
ここは逃げるしかない。
しかし脳が命令を出すより速く、獣が地面を蹴った。
「うおっ!?」
無様に身体を横へ投げ出す。
チリッ。
鋭い爪が頬を掠めた。痛みに反射的に手をやると、指先にべっとりと血がついている。
ガチンッ!!
直後、さっきまで自分の頭があった場所で、強靭な顎が空気を噛み砕いた。
一瞬でも避けるのが遅れていたら、首から上がなくなっていたかもしれない。
「なんだよ……なんなんだよこの状況……!」
地面に転がり慌てて後ずさりする。太ももの筋肉はプルプルと痙攣し、腰が抜けて力が入らない。
——くそ、身体が動かない。
十年間、部屋に引きこもってネットとゲームに溺れていた身体だ。こんな極限状態で、まともに動くはずがない。
獣は低い姿勢で唸り、次の跳躍の準備をしている。
三つの眼が不気味に光った。
——ヤバい。
このままじゃ本当に死ぬ。
母の最期の言葉が、笑顔が、脳裏に焼き付いている。
さっき誓ったばかりだ。
元の世界に帰る。仇を討つ。もう二度と、大切なものを失って後悔しない自分になる、と。
それなのに、こんな訳の分からない獣のエサになって終わりか?
冗談じゃない。
「動け……動けよ、おれの足……!」
言うことを聞かない太ももを、拳で殴りつけた。痛みで無理やり感覚を呼び戻し、震えながらも、なんとか片膝を立てる。
だが、もう遅かった。
獣が地面を蹴り、眼前に迫る。
——終わっ……。
グシャッ。
湿った音が響いた。
顔に、生温い液体が降りかかる。鉄臭い、どろりとした感触。
反射的に目を瞑り、また開けた時——先程までの獣の胴体が、横から現れた巨大な顎に噛み砕かれていた。
「……は?」
横合いから現れた、さらに巨大な影。
そいつの巨大な顎が、三つ目の獣の胴体を、まるで熟れた果実のように噛み砕いていたのだ。
ボキボキと骨が砕ける音の後に、ゴクンと飲み込む音。
そしてそいつはゆっくりと、こちらを見下ろした。
縦に裂けた瞳孔が、新たな獲物を値踏みしている。
——こいつは次元が違う。
さっきのが野犬なら、こいつは戦車だ。
ズン、と地面が揺れた。
巨大な獣が一歩、こちらへ近づく。
——終わった。
そう思った瞬間、心の中で嘲笑う声がした。
『ほら見ろ。また逃げて、また負けるのか?』
『努力しても無駄。頑張っても報われない。それがお前の人生だろ』
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい!
終われない、こんなところで終わってたまるか。
エミルの手が、足元に転がっていた木の棒を掴んだ。
武器になんてなるはずもない、ただの枯れ木。
それでも、ただ待って死ぬよりはマシだ。
「うおおおおおっ!」
やけくその咆哮を上げ、棒を獣の顔めがけて投げつけた。
同時に、逆方向へと全力で走り出す。
逃げる。今は逃げるしかない。
みっともなくても、無様でも、生きてさえいれば!
だが、その判断すらも遅すぎた。
ドォンッ!!
横薙ぎに振るわれた巨大な前脚が、脇腹を捉えた。
視界がぐるりと回転し、ボロ雑巾のように吹き飛ばされる。
背中から地面に叩きつけられ、肺の中の空気がすべて強制的に絞り出された。
「が、はっ……」
痛いというより、身体が焼けるように熱い。
霞む視界の端、獣がゆっくりとトドメを刺しに近づいてくるのが見えた。
——こんなところで、死ぬわけにはいかないのに……。
意識が闇に溶けそうになった、その刹那。
ザシュッ!
視界を、一筋の閃光が走った。
肉を断つ、鋭利な音。
——え?
さっきまでエミルを見下ろしていた巨大な獣の動きがピタリと止まった。
次の瞬間、その巨体が左右にずれる。
鮮血の噴水と共に、獣は真っ二つに両断され、どっと地に崩れ落ちた。
降り注ぐ赤い雨の中心に、一人の少女が立っていた。
肩でふわりと揺れる黒髪。風が吹くたび、その内側から鮮やかな緑が覗いている。和装を思わせる独特な剣士の装束。そしてその手に握られた一振りの刀。
彼女は無造作に刀を振るい、刃に付いた血を払った。
まだ十代後半、いやもっと若いかもしれない。
なのに、その立ち姿には年齢にそぐわない凄みがあった。あの化け物を一刀で両断した腕に、滑らかで一切の無駄がない足運び。
少女がくるりとこちらを振り返った。
整った顔立ちに凛とした眼差し。血飛沫を浴びながらも、その表情には微塵の動揺もない。
目が合うと、彼女は慌てたように駆け寄ってきた。
「……大丈夫ですか?」
澄んだ声だった。
鈴を転がすような、とでも言うのか。こんな状況でなければ、聞き惚れていたかもしれない。
——助かった……のか?
安堵した瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
少女が何か叫んでいるようだが、もう声が聞こえない。
意識が、遠のいていく。
——おれは、まだ死んでないんだな。
なら、まだ終わってない。
それだけを確認して、エミルの意識は暗転した。




