第018話 巨大な魔物
視界を埋め尽くすのは、絶望的なまでの存在感。
十メートルを超える巨体に、大地そのものを削り出して命を与えたかのような圧倒的な質量。全身を分厚い岩の鱗で覆ったその姿は、生物というより動く要塞だ。
「うわ……おっきぃ……」
隣でアヤメが息を呑む。
怪物はギョロリとした金色の瞳で二人を睨むと、威嚇するように近くの岩壁へと巨大な顎を突き立てた。ガリガリと、硬い岩盤を飴細工のように噛み砕く不快な咀嚼音が、広い空間に反響する。
エミルは恐怖をねじ伏せるように拳を握りしめた。
「アヤメ、いけるか!」
「はいっ!」
合図と共に、アヤメが疾風となって駆ける。
踏み込みと共に放たれる、渾身の一閃。
「『翠風流剣技・天津風』!!」
流れるような剣筋が、怪物の胴体を正確に捉える。
しかし。
ガキィィィン!!
甲高い金属音と共に激しい火花が散った。
アヤメの刃は分厚い外皮に阻まれ、傷一つついていない。
「硬い……!」
「こいつはどうだ! 『黒焔・業』!!」
エミルは『空間転移』で一気に頭上へ跳ぶと、重力を乗せた渾身の拳を叩き込んだ。
だが、それすらも鈍い音を立てて分厚い外皮に阻まれる。
「……効かないのか」
焦りが全身を駆け巡る。
——こいつ、本当に生き物なのか?
まるででかいビルと戦っているようだ。
次の瞬間、巨体がずるりと地面に沈み始めた。
泥沼に溶けるように、あっという間に地中へ消えていく。
「消えた!? どこに——」
ゾクッ。
背筋に悪寒が走る。
【魔力探知】が警告を鳴らした時には、もう遅かった。
ドォンッ!
「わあっ!?」
真横の壁から、巨大な岩の槍が突き出してきた。
間一髪、体を捻って回避するも、休む間もなく今度は頭上の天井が割れた。
「エミル様、上!」
「くそ……!」
降ってくる巨大な岩塊。
『空間転移』で瞬時に退避するが、着地点の床が既に隆起を始めていた。鋭い岩の牙が、足元から生えてくる。
どこにも逃げ場がない。
安全な足場を探す暇もなく、エミルはアヤメの手を引いて高所の岩棚へと転移した。
荒い息を吐く間もなく、今度は頭上から土塊の礫が雨のように降り注ぐ。
——強い。
順調に魔物を倒した程度で慢心していた自分が恥ずかしい。
まるで、ダンジョンが牙を剥いているかのようだ。
焦りで思考が白く染まりかけた、その時。
「『翠風流剣技・飛花落葉』!!」
アヤメがその場で回転した。
剣が旋風を生み、降り注ぐ岩の雨を優雅に受け流していく。
「エミル様、この魔物はおそらく土属性です! 地面や岩を自在に操っている! 振動で私たちの位置を把握しているから、動きが読まれているんです!」
「なるほど、土属性……」
言われてみれば、奴の攻撃は全て環境を利用したものだ。それに、あの異常な物理防御力。ゲームでよくある設定だ。土や岩のモンスターは、物理攻撃に対して強い耐性を持つ。
「硬い鱗を狙っても無駄です……。狙うなら、装甲の薄い場所……下腹部。あそこなら、あるいは……!」
アヤメの視線が、怪物の腹の下を捉える。
確かにあの巨体だ。腹の底まで甲殻で覆われているとは限らない。
一筋の光明が見えた。
「……よし」
腹の底から、闘志が再び湧き上がる。
——やるしかない。
こいつを倒せば、その先に「扉」がある……!
「アヤメ、奴の動きを少しでも止められるか? 一瞬でいい」
「わかりました。時間を稼ぎます!」
アヤメが岩棚から飛び降り、怪物の正面に躍り出た。
その華奢な身体で巨大な敵の注意を引きつけるなど、自殺行為に等しい。
だが彼女は、自分を信じてその身を危険に晒してくれている。
——無駄にはしない。絶対に。
アヤメが怪物の鼻先を掠めるように剣を振るうが、ダメージはない。だが、その挑発は奴の怒りを買うには十分だった。
怪物が怒りの咆哮を上げ、大きく口を開く。
——そこだ。
意識がアヤメに集中した、一瞬の隙。
エミルは『空間転移』を発動し、怪物の巨体の真下、がら空きになった腹の下へと滑り込む。
見上げた下腹部は、確かに他とは違っていた。
鱗が薄く、生々しい肉の質感が透けている。
——ここだ。ここに全部叩き込む。
右の拳に、ありったけの魔力を集中させる。
ただ殴るだけじゃない。もっと鋭く、もっと深く、内臓ごと抉り取るように、螺旋を描いて黒焔を練り上げる。
「『黒焔・九壞ノ弔鐘』——!!」
鋭利なドリルと化した『黒焔』が、怪物の柔らかい下腹部に深々と突き刺さった。
グチュッ、と肉を抉る生々しい感触と同時に、温かい体液が腕を濡らす。
ギシャアアアアアアアアッッ!!
鼓膜をつんざく絶叫。
初めて通った、会心の一撃。
——まだだ。
手応えはあったが、致命傷には程遠い。
こいつはまだ動ける。まだ、生きている。
予感は的中した。
発狂した怪物が絶叫と共に、足元の地面を爆発的に隆起させた。
咄嗟に転移しようとするが、大技の直後で体が反応しない。
——間に合わない……!
ドゴォッ!!
「がはっ……!」
地面から突き上げた岩の拳に弾き飛ばされ、体が宙を舞う。
そのまま岩壁に叩きつけられ、肺から空気が絞り出された。
「エミル様!」
アヤメの悲痛な声が遠くに聞こえる。
土煙の向こうで、怪物がのたうち回りながらも、憎悪に満ちた目でこちらを睨んでいた。
——もう一発、同じ攻撃を当てられるか?
体がもつか? 魔力は……足りるのか?
朦朧とする意識の中、ふと視線が天井へ向いた。
散々暴れまわった影響か、ひび割れた巨大な岩盤が、今にも剥がれ落ちそうにぶら下がっている。
——あれを……落とせば。
自分たちの攻撃で倒せないなら、この環境そのものを武器にすればいい。
「アヤメ! もう一度だ! もう一度あいつの注意を引き付けられるか!?」
アヤメは一瞬エミルの視線を追い、天井の岩盤を見ると、力強く頷いた。
「わかりました! お任せください!」
説明なんていらなかった。
彼女は即座に意図を察し、ボロボロの体で再び怪物の正面へと躍り出た。
鋭い剣閃が、怪物の鼻先を執拗に攻め立てる。
彼女も限界が近いはずだ。それでも必死に、怪物の注意を一身に集めている。
——ここしかない。
エミルは『空間転移』を使い、怪物の頭上、あの最も脆い岩盤の真下に移動した。
そして残る魔力のほとんどを右拳に集中させる。
狙うは、亀裂の核。
「『黒焔・幽冥』!!」
魂の叫びと共に放たれた一撃が、漆黒の破壊槌となって天井の岩盤に深々と突き刺さる。
ミシミシッ……!
バキィッ!
天井全体が軋み、亀裂が一気に広がっていく。
数千トンの岩塊が、支えを失って傾いた。
「ぐっ……!」
大技の反動と短時間での転移の連発で、魔力が一気に枯渇していく。
宙に転移した身体が、重力に引かれて落下を始めた。
「『空間転移』ッ……!」
歯を食いしばり、最後の気力を振り絞る。
落下しながらアヤメの位置を視界に捉え、残った魔力の最後の一滴まで燃やし尽くす。
——頼む、届け。
エミルの姿が天井の下から消えたのは、巨大な岩盤が剥がれ落ちる、まさにその直前だった。
シュッ。
アヤメの目の前に、エミルが転がり込むように着地した。
足がもつれ、床に膝をつく。
「エミル様!?」
「……走れ!」
「は、はい!」
アヤメがエミルの手を取り、崩落エリアから必死に飛び出した、その刹那。
ズドォォォォォン!!!!!!
世界が終わるような轟音と共に、巨大な岩盤が次々と崩れ落ちた。




