第017話 ダンジョン下層の異変
ミノタウロスを倒してから、どれくらい進んだだろうか。
ダンジョンの構造は深部に進むほど複雑さを増し、出現する魔物も凶悪になっていく。だが、今のエミルたちの足止めにはならなかった。
「ふぅ……。これでこの層の魔物は片付いたか」
襲いかかってきた魔物の群れを片付け、エミルは短く息を吐いた。
「そろそろ休憩にしませんか? エミル様も連戦続きでお疲れでしょう」
「……そうだな。少し休むか」
アヤメの提案に頷き、岩陰の安全なスペースに腰を下ろす。
どっと疲れが出たわけではないが、ずっと神経を張り詰めていた反動だろうか。座った途端、ふっと力が抜ける感覚があった。
「どうぞ、お水です」
「ああ、悪い」
差し出された革袋を受け取り、喉を潤す。
隣に座ったアヤメが、乱れた黒髪をかき上げた。
「エミル様、また助けられちゃいましたね」
「……別に。咄嗟だっただけだ」
ぶっきらぼうに答えて、水を煽る。
そんなエミルの横顔を、アヤメはじっと見つめていた。
「ま、その、なんというか……おれの方も、ありがとうな」
「え?」
「その……ちゃんとお礼、言えてなかったから。最初に助けられたときの、やつ」
「ふふっ。今さらですよ、そんなの。それに、お礼ならこの短剣をいただいたじゃないですか」
「いや、だからその短剣は……まあ、それでも、な」
しどろもどろになるエミルを見て、アヤメがクスクスと笑う。
「照れなくてもいいのに」
「照れてない」
「またまたぁ」
軽い笑い声が、薄暗いダンジョンに響く。
殺伐とした空間のはずなのに、妙に空気が柔らかい。
「村の方に頂いたパン、食べましょうか」
「ああ、そうだな」
タルマ村の村長から強引に渡された硬いパンを齧る。
——こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
ふと過った甘い思考を、エミルは即座に振り払った。
——この先に進めば「扉」があるはずだ。
元の世界へ帰るための、たった一つの希望。
それを見つければ、おれは帰る。この世界とも、この子ともお別れだ。
アヤメは「一人でも大丈夫」だと言っていた。セルディスに戻って素材を換金すれば、彼女は父のための魔石を探せるだろう。
おれが気に病むことなんてないはずだ。考えなくていい。
おれの目的は、元の世界に帰って母さんの仇を討つことだけだ。
「エミル様?」
急に黙り込んだエミルを、アヤメが不思議そうに覗き込んでくる。
その純粋な瞳を直視できず、逃げるように立ち上がった。
「……いや、なんでもない。休憩は終わりだ、行くぞ」
パンの残りを口に放り込む。
ダンジョンの奥へと続く通路。その先には、底知れぬ闇が口を開けて待っている。
——迷うな。絶対に見つけ出してやる。そして、帰るんだ。
自分に言い聞かせながら、エミルは暗闇へと足を踏み入れた。
—————
休憩を終えてさらに奥へと進むと、空気の質が変わっていくのがわかった。
肌にまとわりつくような濃密な魔力。通路は迷路のように入り組み、気配だけで強力だと分かる魔物が徘徊している。
だが、今の二人なら障害にはならない。
「右だ!」
エミルの警告と同時に、闇の中から石像のような魔物が飛び出してきた。
——『空間転移』
即座に背後へ移動し、黒焔を纏った拳を叩き込む。
ドゴォッ!
体勢を崩した魔物の首筋へ、翠色の閃光が走る。
アヤメの剣が、硬い皮膚を切り裂いた。
「ふぅ……。ナイス連携です、エミル様!」
「ああ、お前もな」
言葉を交わさなくても、互いがどう動くか分かる。
戦いを重ねるたびに、二人の息は合っていった。
そうして、どれほどの時間が経っただろう。
五層へと続く階段を降りた瞬間、エミルの足が凍りついたように止まった。
「……っ!?」
そこは、巨大なドーム状の空間だった。
天井は高く、湿った空気が肺に重くのしかかる。壁を伝う水滴の音が、不気味なほど大きく反響していた。
そして何より、魔力の密度が、これまでの階層とは比較にならなかった。
「ここだ……。ここから、とんでもなく強い魔力を感じる」
【魔力探知】スキルが強い反応を示している。最初の微かな反応は、今や肌をピリピリと刺すようなプレッシャーに変わっていた。この先にいる存在は、ミノタウロスなんかとは次元が違う。
「何も出てきませんね……」
「ああ、だが魔力は消えていない。間違いなくこの近くに……いる」
足元には無数の亀裂が走り、砕けた岩が散乱している。
まるで、巨大な何かが暴れ回った痕跡のようだ。
その時だった。
足元が、微かに震え始めた。
振動は急速に大きくなり、地鳴りのような唸り声が響く。
「アヤメ、下がれっ!」
叫ぶと同時にアヤメの腕を掴み、大きく後ろへ跳ぶ。
ドゴォォォォォンッ!!
二人が立っていた場所の地面が、内側から爆ぜた。
土煙が舞い上がり、岩塊が飛び散る。
地底から突き出されたのは、人間など容易く握りつぶせるほど巨大な、岩の剛腕だった。
グルゥゥゥゥゥ……ァァァァァァッ!
耳をつんざくような咆哮と共に、土煙の中からその全貌が現れる。
全身をいかにも硬そうな岩の鱗で覆い、溶岩のような赤い瞳をぎらつかせた、山のように巨大な化け物がそこにいた。




