第015話 S級冒険者
エミルがデュバルと戦った日の夜のこと——。
セルディス王国・ラグネシアの冒険者ギルドの執務室。書類の山と格闘していたギルド長のブラドは、背後でかすかに風が動くのを感じた。
「……おい。鍵、かけといたはずだぞ」
振り返ると、開け放たれた窓枠に男が腰かけていた。
仕立ての良い純白のコートに、深紅のマント。赤みがかった長髪を無造作に束ね、左耳には狼の牙を模したイヤリングが揺れている。
S級冒険者『ノアベック・ドイル』。“天狼会”パーティのリーダーでもある彼が、珍しくラグネシアに姿を見せた。
「久しぶりだね、ブラドさん」
「……おい。なんで窓から入ってくる」
「いやあ、正面から入ろうとしたら閉まっててさ。でも窓の建て付けが悪かったから、ついでに直しておいたよ」
「嘘つけ。絶対ぶっ壊しただろ」
ブラドは机の上の書類をどかし、深くため息をついた。
ノアベックという男は昔からこうだ。S級の肩書きを背負いながら、どこか少年のような無邪気さと——底知れない胡散臭さを併せ持っている。
「で? S級様がこんな夜更けに何の用だ。もう口説ける職員は帰ったぞ」
「人聞きの悪いことを言わないでほしいな。僕はただ、日々頑張っている女性に敬意を表しているだけさ」
「それを世間では『節操なし』って言うんだ」
「心外だね。……それに女性関係のトラブルなら、ブラドさんには負けるよ」
ノアベックは心外だと言わんばかりに肩をすくめる。
「いやいや、俺はさすがに職員には手をださねえぞ。これでも優しいギルド長で通ってるんだ」
「はあ、よく言うよ。パーティの女性メンバー全員と付き合った挙げ句、解散に追い込まれた話、まだ語り継がれてるよ?」
「……お前、その話どこで聞いた」
ブラドの顔が引きつる。ノアベックは「さあ」と笑って流した。
「さて、今日は昔話をしに来たわけじゃないんだ」
軽口を叩いていたノアベックの声が、不意にトーンを変えた。ブラドもペンを置き、真剣な眼差しでノアベックを見据える。
「仕事の話か」
「半分はね。少し、シオン国に用があってね。その道中、不穏な気配を感じたんだ」
「不穏な気配?」
「タルマの森の奥……あそこにあるダンジョンから、魔力の“歪み”を感じた。もしかしたら、ダンジョンの暴走が起きているのかもしれない」
「なんだと?」
ブラドの表情が険しくなる。
「おい、異変探知の水晶は反応してるか?」
ブラドは即座に、控えていた職員に確認する。
「い、いえ、今のところ異常は確認されていません」
「……そうか」
ギルドに設置された水晶が沈黙しているなら、まだ表面化していないか、ごく初期段階か。
「いや、ダンジョンが暴走しているのは間違いない。うちの優秀な星読師の目を信じてほしいな」
「もちろん、疑ってなんかないさ。だが暴走すりゃあ大事だ。調査隊を出す必要があるな」
ブラドは期待を込めた目でノアベックを見た。
「で? まさか報告だけで終わりじゃねえよな? S級様がひとっ走り行って、原因を潰してきてくれるんだろう?」
「あはは、耳が痛いな」
ノアベックは困ったように眉を下げ、ひらひらと手を振った。
「悪い、ブラドさん。僕は動けない。シオン国でどうしても外せない用事があるんだ」
「そうか、仕方ねえな。水晶が反応してないってことは、まだ猶予はあるはずだ。明日にでもクエストを出して、様子を見てもらうことにするかな」
「頼んだよ。じゃあね、ブラドさん。新しい女性職員が入ったら教えてよ」
「誰がお前なんかに教えるか。さっさと行け」
ノアベックは肩をすくめ、来たときと同じように窓枠に手をかけた。
「また寄るよ、元気でね」
軽やかに身を翻し、闇へと消えていく。パタン、と窓が閉まる音だけが残った。
ブラドは一人残された執務室で、窓の外を見やった。
「タルマの森といや、あの新人が向かってたな」
ブラドの脳裏に、最近ギルドに登録した青年の顔が浮かんだ。無属性のE級。普通なら見向きもしない底辺ランクだが、妙に印象に残っている。
「大丈夫だよな。無茶はしてくれるなよ……」
らしくない心配が胸をよぎる。ブラドは頭を振って、再び書類の山へと向き直った。
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夜のラグネシアを、ノアベックは静かに歩いていた。
運河沿いの石畳。星火の灯りが水面に反射し、街を淡く照らしている。
「シオン国、タルマの森のダンジョン……か。おっと、グロムハルトのことも言い忘れたな。……まあ、いっか。しっかし、何が起きてるんだろうね——このタイミングで」
その呟きは、誰に向けたものでもない。ノアベックの瞳は、遠い夜空の彼方を見据えていた。




