第013話 取引をしませんか
「じゃあ母さん、行ってくるよ」
あの日の朝、久しぶりに外に出た。
三十五歳、無職、引きこもり。
そんな情けない息子が、ようやく就職活動を始めた日だった。
「ええ、頑張ってね。あんたなら大丈夫よ」
送り出してくれた母さんは、いつものように笑っていた。
父親を早くに亡くして、母さんは女手ひとつでおれを育ててくれた。恩返しがしたかった。楽をさせてやりたかった。ずっと、そう思っていた。
なのに、気づけば三十を過ぎていた。周りは結婚して、子どもを作って、当たり前のように人生を進めていく。おれだけが止まったままだった。
母子家庭だというだけでいじめられた小学生の頃。友達なんて一人もできなかった。それでも母さんをがっかりさせたくなくて、勉強だけは死ぬ気で頑張った。
地元の国立大学に受かった時、母さんは泣いて喜んでくれた。
——これでようやく、報われる。
そう思った。馬鹿みたいに、本気でそう思っていた。
でも社会は、成績優秀なだけの人間に居場所をくれなかった。
ようやく内定をもらった小さな会社も、たった三年で逃げるように辞めた。
それから十年、おれは部屋に閉じこもった。
そんなおれを、母さんは一度も責めなかった。その優しさが、罪悪感となっておれの心を締め付けた。
「あんたなら大丈夫よ」
あの時の母さんの笑顔が、声が、脳裏に焼き付いて離れない。
あれが最期の会話になるなんて、一体誰が想像できただろうか。
◆◇◆◇◆◇◆
「……だから、帰らないといけないんだ。あの男をこの手で捕まえて、そして……。それが、おれが生きる理由だ」
吐き出すように告げて、視線を床に落とした。
声に出してみると、余計にみじめだった。
——何やってんだ、おれは。
一回り以上も年下の少女に、こんな重い自分語りをして。
三十五歳が十七歳の身体に押し込められて、マザコン丸出しで復讐を誓ってる。
客観的に見たら痛いなんてもんじゃない。
キモいと思われたか。重いと引かれたか。
覚悟していたはずの沈黙が、やけに長く感じられた。
「そう……だったのですね」
返ってきたのは、予想とは違う静かな相槌だった。
ただ、自分の告白のすべてを受け止めてくれていた。
「……わたしも以前、大切な人を守れなかったことがあります。エミル様の気持ちは、痛いほどわかります」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
——この子も、同じなのか。
凛とした強さで剣を振るうこの少女も、取り返しのつかない傷を抱えているのか。
そう理解した瞬間、たまらなく込み上げてくるものがあった。
まだはっきりとは言語化できない、この気持ち。
——いや、感傷に浸っている場合じゃない。
奥歯を噛み締め、湧き上がる感傷を無理やり押し込めた。
——おれには優先すべきことがある。
あの酔っ払いの男が言っていた「扉」。それがこの森のダンジョンにあるなら、一刻も早く見つけなければ。
「……あの」
アヤメが静かに呼びかけた。
その声には、何かを決意したような響きがあった。
「エミル様。わたしと、取引をしませんか?」
「え、取引?」
「はい。あなたの探すダンジョンに、わたしも同行させてほしいのです」
「……え?」
予想外の言葉に、思わず間の抜けた声が出た。
「いや、君は先を急いでいるんだろ?」
「はい。ですが、デュバルたちに捕まったせいで、随分と消耗させられました。今の装備で、このままグロムハルトまでの長旅は……」
「だったら、なおさらダンジョンなんて危険だろ?」
「いえ、逆です。ダンジョンには魔物がいます。魔物を狩り、素材を換金すれば、まとまったお金になります」
「その金で装備を整えると?」
「そうです。それに、この世界のダンジョンは初めてでしょう? 魔物の知識も地理も勝手がわからないはず。背中を任せられる相手がいて、困ることはないと思います」
アヤメは真っ直ぐにエミルを見据えて言った。
「エミル様が『扉』を見つけて元の世界に帰った後、わたしは一人で換金して旅を続けます。……互いに利がある、合理的な取引だと思いませんか?」
——筋は通っている、か。
エミルは小さく息を吐いた。
「助けてもらったから手伝いたい」と言えば、意固地になって断るのを見透かしているのだろう。
だから、あえて「自分のためだ」と言い張って、「取引」という形にしてきたのだ。
「一人でダンジョンから帰るつもりか?」
「行きで魔物を掃討しておけば、帰り道くらいなんとかなりますよ」
「……」
——むしろ、この装備で一人旅をさせる方がよっぽど危険か。
そう思ってしまう自分がいた。
デュバルのような輩にまた襲われたら、今度は誰も助けに来ないかもしれない。
でも、それを口にするのは憚られた。
自分は扉を見つけたら帰るのだ。彼女のことを心配する資格なんて、本当はないのかもしれない。
「……わかった。好きにしろ」
結局、口をついて出たのはそんな言葉だった。
「ありがとうございます!」
アヤメの顔がぱっと明るくなる。
その笑顔を見て、また胸が痛んだ。
「勘違いするなよ。おれは目的のために利用するだけだ。危なくなったら、お前を置いて逃げるかもしれないぞ」
「ふふ、その時はわたしも全力で逃げますから、お構いなく」
悪戯っぽく微笑むと、アヤメは颯爽と立ち上がった。
「では、準備をしましょう。村の方に、ダンジョンの場所を聞いてみます」
「あ、ああ……頼む」
軽やかな足取りで部屋を出て行く背中を、呆然と見送る。
一人になった部屋に、朝日が差し込んでいた。
——扉を見つけて、帰るんだ。
拳をぎゅっと握りしめる。
——母さんの仇を討つ。それがおれの目的だ。
この少女のことは……。
考えかけて、首を振った。
今はダンジョンだ。余計なことを考えている暇はない。
そう自分に言い聞かせて、エミルはベッドから立ち上がった。




