第012話 女剣士との再会
パチッ、と爆ぜる薪の音で、意識が浮上した。
重たい瞼をこじ開けると、木の天井がぼやけて見えた。鼻をつく薬草の匂いと、オイルランプのゆらめく灯り。
——知らない天井だ。
身体が鉛のように重い。まるで何日も寝込んでいたような感覚だった。
「気がつきましたか!」
声のした方へ顔を向けると、ベッドの脇にアヤメが座っていた。翡翠色の瞳が、心配そうにこちらを見据えている。
「ここは……」
「村の宿屋です。お身体の具合はいかがですか?」
「ああ……悪くない。君こそ、無事だったか」
「はい、おかげさまで」
「そっか……。まだそんなに時間は経ってないんだな」
「いえ、エミル様。もう丸一日以上、眠っていたんですよ」
「丸一日……?」
辺りを見回す。テーブルの脇には、何度も取り替えたらしい濡れタオルが積み重なっていた。他にも、水差しや薬草を煎じた跡。使いかけの軟膏もある。
「……まさか、ずっと?」
「いえ、わたしも休みは取っていましたので」
アヤメは慌てて否定している。だが、その声には張り詰めていた緊張が解けたような安堵と、隠しきれない疲労が混じっていた。
「……悪い。助けたはずなのに、逆に世話をかけた」
「エミル様は謝らないでください。命を救っていただいたのですから、これくらい当然です」
——当然、か。
ズキリと胸の奥が痛んだ。
誰かが自分のために何かをしてくれる——母親以外で、こんな感情を向けられるのはいつぶりだろう。いや、そもそもそんな資格、自分にあるのだろうか。
「これ、宿の方が用意してくれたんです。一緒に食べませんか?」
沈黙を破るように、アヤメが籠を取り出した。中には硬そうな黒パンと干し肉。質素な食事だ。
「半分こにしましょう」
「……いただきます」
アヤメからパンを受け取った瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
誰かと一緒に食事をする。たったそれだけのことが、ひどく落ち着かない。どこに視線を向ければいいのか、どんな顔をすればいいのか、わからない。
「そうだ。あの山賊どもは……」
「デュバルは村の人たちが捕縛しました。明日、セルディス王国からオラクルズが来て引き渡す手筈です」
「おらくる……ず?」
「オラクルズ。アストレア教団直属の騎士団です。国の治安維持を担っています」
「騎士団……。警察みたいなもんか」
「けい……さつ?」
今度はアヤメが首を傾げた。その純粋な疑問の表情に、ここが自分の世界じゃないことを改めて思い知らされる。
「いや、なんでもない。……それより、どうして捕まってたんだ? 君ならあんな連中、すぐに蹴散らせただろうに」
話題を変えると、アヤメは決まり悪そうに俯いた。
「お恥ずかしい話なんですが……体力の限界で。シオン国からここまで、ほとんど休みなく旅を続けていましたから。それに……」
彼女は、壁に立てかけてあった刀に目をやる。その刀身は、柄の近くで折れてしまっていた。
「わたしの刀も、魔物との戦いで折れてしまって。村で休もうとしたところを囲まれてしまって……」
「悪い、おれを助けるために使った刀なんだよな……」
「いえ、それはいいのです。わたしが勝手にやったことですから」
「そうか……」
その真っ直ぐさが、眩しかった。
『これくらい当然』、『勝手にやったこと』
この少女にとっては、本当にただそれだけのことなんだ。自分の行動に一片の損得も考えていない。
いつから自分は、損得でしか物事を考えられなくなっていたのだろう。人を助ければ何が返ってくるか。優しくすれば何を得られるか。そんな計算ばかりが、頭の中を巡るようになっていた。
「エミル様」
「ん?」
「わたし……急がなければならないんです」
その声は、先ほどまでとは違う、切実な響きを帯びていた。
「わたしは、病に倒れた父を救うために旅をしています。故郷であるシオン国では、原因不明の奇病が流行っていて……。父に許された時間は、あとふた月ほどしかありません」
「ふた月……」
その言葉の重みに息を呑んだ。大切な人を失うかもしれない恐怖。その痛みが、まるで自分のことのように胸に突き刺さった。
「それで病に効くと噂の魔石が眠る場所、ドワーフの国『グロムハルト』へ向かう途中だったのです。あなたの助けがなければ、わたしは今頃……だから、本当にありがとうございます」
「……いや、礼を言うのはこっちだ。あの時君がいなければ、とっくに魔物の餌になってた」
「前回は前回、今回は今回です。先程も言いましたが、わたしが勝手にやったことなのですよ」
ボロボロの刀、限界の身体。それでも前に進まなければいけない。覚悟に突き動かされているのは、何も自分だけではない。
「ちょっと待ってくれ」
ベッドからゆっくり身体を起こす。壁に立てかけてあった短剣——ラグネシアで買ったばかりの安物を手に取った。
「これ、使ってくれ」
「えっ? ですが、これはエミル様の……」
「おれにはもう必要ない。この拳があるからな」
握った拳に目線を落とす。あの黒いモヤの正体は未だ不明だが、武器がなくても戦えることは証明済みだ。
「でも……」
「いいから受け取ってくれ」
差し出したまま、アヤメの目を見た。
「武器もなしにうろついて、また捕まりでもしたら大変だろ。それに……看病してもらった、礼のつもりだ」
本当は「心配だ」と言いたかった。でも、そんな素直な言葉は、喉の奥でつかえて出てこない。
アヤメはしばらくこちらの顔をじっと見つめていた。やがて、小さく微笑む。
「大切に使わせていただきますね。このご恩は、必ず」
「……ああ」
その瞳に見つめられ、居心地の悪さから咄嗟に顔を背ける。
「ふふっ、照れ屋さんなんですね」
「照れてない。大体、看病の礼がこの安物の剣じゃ、貸し借りもチャラにできてない」
「貸し借り?」
「そうだ。前回と今回、そして看病とその剣だ」
「うーん……なかなか手強い方ですね」
窓の外が、少しずつ白み始めていた。夜明けが近い。
「ああ、悪い。引き止めてしまった。もう行くんだったな」
「はい」
アヤメは立ち上がり、短剣を腰に差した。だが、ドアノブに手をかけたところで足を止める。
「そうだ、エミル様」
「なんだ?」
「もしかしてエミル様は……この世界の方ではありませんね?」
確信に満ちた問いかけだった。
エミルは深呼吸をして、彼女の目を見つめた。
「……ああ。おれは、この世界の人間じゃない」
「やはり……。わたしも旅の目的を話したのです。よければ、エミル様のお話も教えてくれませんか?」
「……急ぐんじゃなかったのか」
「わたしは話したんですよ? 貸し借りはチャラにしたいのでしょう?」
聞いてもいないのに勝手に話したんだろうが、と言いたい気持ちを抑えた。
「……おれは違う世界から……『日本』って場所から、ここに飛ばされてきたんだ。誰が、何のためにおれを飛ばしたのかはわからない」
それから、自分の身に起きた変化を話した。魔物から獲得できるスキルのこと。拳を包む黒いモヤのこと。ダンジョンにあるという扉のこと。
アヤメは真剣な表情で耳を傾けていたが、やがて力なく首を横に振った。
「エミル様のような事例は初めて聞きました……。それに、あの力が無属性ということも到底信じられません」
「そうか……。あのポーションを飲んだ時から、身体の調子がおかしいんだ」
「あのポーションが……? ポーションは傷を癒すためのもの。それに、その『スキル』というのも、何のことだか……」
混乱の色が滲む。口元に手を当て、真剣に考え込んでいるようだった。
「ま、今考えても仕方ないしな。この力は謎が多いけど、おれの目的のためには欠かせない。上手く活用していくさ」
「目的……。エミル様は、元の世界に帰るために、ダンジョンへ?」
「ああ。……やらなくちゃいけないことがあるんだ」
拳を握りしめると、爪が掌に食い込んだ。脳裏に焼き付いて離れない、あの赤黒い光景。
「やらなくちゃいけないこと……?」
アヤメの問いかけは、押し付けがましくない。ただ、聞く準備ができているという、静かな促しだった。
——なぜだろう。この少女になら、話せる気がした。父を救うために必死で旅をしている。大切な人のために、ボロボロになっても前に進もうとしている。そんな彼女なら——受け入れてくれるかもしれない。
受け入れてほしい、と思っている自分がいることに気づいて、少し驚いた。
十年間、誰にも話さなかった。話せなかった。話したところで、何になる。同情されるのは嫌だ。哀れまれるのも嫌だ。だから、全部一人で抱え込んできた。
なのに——。
「……母のことなんだ」
気づけば、口が動いていた。一度堰を切ったら、言葉はもう止まらなかった。
誰にも言えなかった、魂の告白。




