第107話 カルフール城にて
ヒュゥ……ヒュゥ……。
乾いた呼吸音だけが、薄暗い部屋に響いている。
カルフール城の最奥、国主の私室。障子越しの西日が、病床をぼんやりと照らしていた。
横たわっているのは、シオン国の王、ネリス・カルフール。
かつて国最強と謳われた剣士も、今は見る影もなく痩せ細り、肌の一部は青黒く硬質化している。蒼海石の毒が、確実にこの国の主を蝕んでいた。
その枕元に、一人の青年が座っていた。
ギース・カルフール。
次期国主として城内を取り仕切る彼は、仕立ての良い着流しを崩すこともなく、正座して動かない。だが、その切れ長の瞳には、重い影が落ちていた。
「……父上」
呼びかけに応えはない。ひと月以上、この沈黙が続いている。
ギースは父の顔を見つめたまま、吐露するように言葉をこぼした。
「国内の魔物化現象は止まりません。オーガたちの動きも、不穏さを増しています。私は……どうすれば良いのでしょうか。鎖国を解き外に応援を求めるべきか、それともこのまま耐え忍ぶべきか。……父上なら、どうなさいますか」
答えは返ってこない。ただ、苦しげな呼吸音が続くだけだ。
ギースは拳を握りしめ、唇を噛んだ。自分の無力さが、胸を焼き焦がすようだ。
その時、静寂を切り裂くように扉が叩かれた。
「ギース様、ガルドです。入っても?」
低く、重厚な声。四天翠隊長、ガルド・サンザだ。
ギースは瞬時に憂いの表情を消し去り、冷静な「次期国主」の仮面を被り直した。
「……入れ」
許可と共に襖が開き、巨漢が入室してくる。
額に一本の角を持つ、オーガ族の戦士。身長は二メートルを超え、部屋が狭く感じられるほどの圧迫感がある。しかし、その表情は種族特有の獰猛さとは無縁の、堅実で真面目なものだった。
「報告いたします。アヤメ様の一行が、国内に入ったとの連絡が入りました」
その瞬間、被り直したギースの仮面がひび割れた。
「なっ……! アヤメが戻っただと!?」
ダンッと畳を踏み鳴らす勢いで立ち上がる。切れ長の目は見開かれ、頬が紅潮する。
「無事なのか!? 怪我は!? 痩せていないか!? やつれたりしていないだろうな!?」
「お、落ち着いてくださいギース様。詳細はまだ……」
「落ち着いていられるか! あの子はまだ十五だぞ! 外の世界など、魔物と詐欺師の巣窟だ。そんな所に一人で……!」
ギースは部屋の中を落ち着きなく歩き回り始めた。
先ほどまでの威厳ある次期国主の姿はどこへやら、完全に妹を溺愛する兄の顔になっている。
「ああ、アヤメ……私の可愛いアヤメよ。無事ならすぐに顔を見せに来ればいいものを! まさか、どこかで倒れているのではあるまいな!?」
「その……伝令によれば、目的の魔石を入手し、急ぎこちらへ向かっているとのことです」
「魔石を……そうか、あの子は成し遂げたか」
ふう、と大きく息を吐き、乱れた座布団を直して座り込む。
だが、すぐにギースの表情が険しくなった。
「……待て。アヤメは一人なのか? さっき“一行”と言ったな?」
「は、はい。詳細は不明ですが……どうやら、数名の冒険者が同行しているようです」
「ほう……冒険者か」
「男一人に、女が二人……とのことです」
ピクリとギースの眉が跳ね上がった。
「……男、だと?」
室温が、数度下がった気がした。ガルドは冷や汗を流しながら、直立不動の姿勢をとった。
「は、はい。どうやら護衛として……」
「……どこの馬の骨とも知れぬ男が、アヤメの側にいるということか」
ギースの手元で、湯呑みがミシミシと音を立ててヒビ割れた。
「……テストが必要だな」
「は?」
「アヤメに近づく男として相応しいか、この兄が直々に“テスト”をしてやる必要があると言っているのだ。……もしアヤメに指一本でも触れていようものなら、刀の錆にしてくれる」
殺気立つ兄の背中を見ながら、ガルドは心の中で深く溜息をついた。
——かわいそうに。
その冒険者とやら、命があるといいが……。
国の危機よりも深刻かもしれないギースの暴走を前に、四天翠隊長は天を仰いだ。




