第101話 この国に起きていること
茶屋の暖簾をくぐると、香ばしい茶の香りが鼻をくすぐった。
店主らしき老人が「いらっしゃい」と穏やかな声をかけてきたが、エミルたちは軽く会釈だけを返し、一番奥の目立たない席へと陣取る。
「よし、整理するぞ」
周囲に客がいないことを確認してから、バルディアが重い口を開いた。
「あの女の人が言ってた症状、覚えてるよな? 体の硬化、理性の喪失、そして魔物化。全部、師匠から聞いた『蒼海石』ってやつの症状と一致してやがる」
「その石のせいで滅びた国があるって、言っていたわよね」
「ああ。しかもそいつは一朝一夕で起きるもんじゃねえ。何世代にも渡って、ゆっくりと蝕んでいくんだ」
出された茶をすすりながら、バルディアは続けた。
「今になってその症状が出始めているってことは、この国じゃもう何世代も前から蒼海石を使ってたってことになる。たまたまこの国で豊富に取れた魔石が、国を豊かにしていた。そう考えるのが自然だろうな」
「鎖国をしていても豊かな国……その資源の正体が」
「ああ、人を魔物に変える石だったってわけだ」
エミルは奥歯を噛み締めた。
バルディアが茶碗を置き、声のトーンを落とす。
「それにな、何故かは知らねえが、アタシのような獣人には影響がねえらしい。だが、人族や人に近い遺伝子を持つエルフやドワーフには、その影響が出ちまう」
「エルフも……」
サラが顔を曇らせる。
「まあ、この国には魚人とオーガと人しかいねえんだ。影響を一番受けるのは人族で、魚人とオーガは関係ねえ。それがこの国の歪な構成にも繋がってんだろうな」
「オーガが魔物化した人族を守る……か。なんだかそれにも裏がありそうだよな」
「それにアヤメちゃんのお父様……ネリス王が倒れた原因も、この石の影響と見て間違いないわね」
「……ああ。辻褄が合いすぎる」
国主であるネリスが、その石と無関係であるはずがない。むしろ、国の発展のために、誰よりもその石の魔力に触れていた可能性が高い。
不意に、エミルの脳裏に最悪の事実がよぎる。
——『必ず魔石を持ち帰って、バエルと一緒に父を治してみせます』
シオン国に到着し、希望に満ちた顔で紫色の魔石を抱きしめていたアヤメの姿。あの笑顔が今、胸に突き刺さる。
「おい、バルディア。確認だ」
エミルは努めて冷静な声を出した。感情に任せて叫び出しそうになるのを、必死で抑え込む。
「魔物に変わるともう『元に戻す方法はない』って言ったよな?」
「……ああ」
「ってことは、アヤメがグロムハルトまで行って手に入れたあの石は……」
「……なんの意味もねえよ」
バルディアが顔を歪めた。
「こいつは病気なんかじゃねえ。魔力が魂と肉体を侵食して作り変えちまうんだ。他の魔石で中和なんてできるレベルじゃねえんだよ」
ドンッ、とテーブルが揺れた。
エミルが拳を叩きつけていた。茶碗が跳ね、冷たい茶がこぼれ落ちる。
「なんでもっと早く言わなかったんだ! 石に詳しいお前なら、気付く機会はいくらでもあっただろ!」
激情のままに叫んでしまう。
八つ当たりだとわかっている。わかっているのに、止められない。
「……すまねえ」
「ちょ、ちょっとエミル君……! バルディアちゃんを責めるのは違うわよ」
サラが慌てて声をかける。
エミルはハッとして、うなだれるバルディアを見た。狐の耳がぺたりと伏せられている。
「そう、だよな……ごめん、バルディア。おれが悪かった」
「いや、いいんだ。アタシが気付いていればよかった話だ。アヤメの父ちゃんの症状を、もっと詳しく聞いておけば……」
バルディアの声にも、自責の色が滲んでいた。
「エミル君、責める相手を見誤っちゃダメよ。いるでしょ? アヤメちゃんをグロムハルトに向かわせた張本人が」
「……そうか、そうだよな。アヤメは……騙されてたってことだ」
——アヤメは言っていた。父を看病している友人が、この石なら治せるかもしれないと教えてくれたと。
その友人の名は——バエル。アヤメが全幅の信頼を寄せ、この国から脱出するための転移石さえ渡してくれた人物。
「その、バエルって野郎……」
バルディアの瞳に、怒りの炎が宿る。
「蒼海石のことを知っててアヤメを外に行かせたのか? だとしたら、目的は何だ? 治せないと知っていて、偽の希望を持たせた理由は……」
「……遠ざけるため、かもしれないわね」
サラが冷静に分析する。
「この国で何かが起きている。あるいは、これから起こそうとしている。その時、正義感の強い彼女がいては邪魔だった……。だから、体のいい理由をつけて国外へ追いやった。そんなところかしら」
アヤメの純粋な想いを。父を救いたいという必死な願いを。そいつは利用したというのか。
——『バエルと言って、わたしの古くからの友人なんです。小さい頃から、とてもお世話になっていて』
アヤメの信頼しきった笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
彼女は今、その“友人”のもとへ、何の疑いもなく一人で向かってしまった。偽物の希望を抱えて。
「これじゃあ手紙に書いてあった『父の容態が急変』ってやつもどこまで本当かわからないぞ!」
エミルは弾かれたように立ち上がった。
「アヤメが危ない」
「ああ、これはアタシの責任でもある……バエルだか何だか知らねえが、ぶん殴ってやらねえと気が済まねえ!」
「……そのバエルが黒幕だとは限らないけど、状況は最悪ね。今ならまだ、城に入る前に追いつけるかもしれない」
サラもバルディアも立ち上がる。
迷っている時間はない。一刻も早くアヤメに真実を伝え、彼女を守らなければならない。
エミルたちは茶代をテーブルに叩きつけるように置くと、店を飛び出した。
「アヤメはこっちの方へ向かってたよな」
記憶を頼りに、大通りを駆け抜けようとした、その時。
「——おっと。そこまでだ」
ぬらりと、三つの影がエミルたちの行く手を塞いだ。
先頭に立つのは、鮫を思わせる凶悪な顔立ちの男だった。身の丈を超える長柄の銛を片手に、ギザギザの歯を覗かせてニタリと笑っている。
その後ろに控えるのは、小太りで愛嬌のある顔立ちの男と、無口そうな大男。いずれも全身から放つ魔力の質が、そんじょそこらのゴロツキとは違っていた。
「……どいてくれ」
エミルは足を止め、低い声で警告した。
だが、三人の魚人は動かない。
「お前ら、カルフール城へ向かってるんだろ? 通すわけにはいかねえな」
先頭の鮫男——ニーベルが、銛の柄で地面を叩いた。ゴン、と重い音が響く。
「ああん? 何モンだテメェら。なんでアタシらの行き先を知ってやがる」
バルディアが即座に反応し、炎のガントレットを構える。チリチリと熱気が漏れ出し、一触即発の空気が張り詰めた。
それでも、ニーベルは余裕の笑みを崩さない。
「さあ……どうしてだろうなあ?」
「お前ら急になんなんだ。おれたちは急いでるんだ」
エミルが一歩踏み出す。
アヤメの身に危険が迫っているかもしれないのだ。一分一秒が惜しいこの状況で、こんな訳のわからない連中に構っている暇などなかった。
「お前ら、何も知らずに城へ飛び込む気か? 『蒼海石』のこと、何も知らねえくせにな」
——蒼海石。
その単語が出た瞬間、エミルの足が止まった。
「……お前ら、何を知っている?」
「へっ、食いついたな」
ニーベルは口角を吊り上げ、挑発するように手招きをした。
「そりゃあ、お前らが想像してる以上のことさ。知りたきゃ……実力で聞き出してみな」




