第010話 黒根団
「あん? なんだぁ、テメェ。客人が来る予定でもあったか?」
宴の中心にいた大男が、ギロリとこちらを睨みつけてくる。
熊と見紛うほどの巨躯に、おびただしい数の古傷が走る首。その形相は知性のかけらもなく、人を殺すことに何の躊躇も持たない、獰猛な獣そのものだ。
男の周りには、十人ほどの手下らしき者たちが思い思いに酒を飲み、略奪した食料を貪っている。引き裂かれた袋、踏みにじられた野菜、村人たちの蓄えだっただろう保存食の残骸。
「俺様はこの辺を取り仕切っている黒根団の頭領・デュバル様だ。お前は誰だ? まさか商人でもあるまいし、こんな夜中に迷い込んできたってわけじゃねえだろうな」
「……冒険者だ。クエスト帰りで宿を探していたんだが」
「はっ、冒険者ねえ。どうせこの辺のダンジョンでも漁りに来たクチか?」
ダンジョン。その単語に、エミルの心臓が跳ねた。
——やはり、この近くにあるのか。
情報を引き出すためにも、こいつをなんとかしないといけない。
「まあどうでもいいか。俺様たちは今、ちょっとした余興を楽しんでるところでな。邪魔するってんなら容赦しねえが、どうする?」
デュバルの合図で、手下たちがじわじわと包囲網を狭めてくる。
「おいおい、逃げようだなんて思うなよ?」
「せっかく来た客人を、そう簡単に帰すわけにはいかねえんだ」
ニタニタと笑う手下たち。一触即発の空気が張り詰めた、その時だった。
「やめて……! 離してッ!」
聞き覚えのある、少女の声。
「へへへ、こいつは上玉だぜ、お頭!」
「おうよ。そいつは今夜、俺様がじっくり可愛がってやるんだ。手ぇ出すんじゃねえぞ」
奥から引きずり出されてきたのは、見覚えのある着物風の服を着た少女だった。髪は乱れ、服は土に汚れ、翡翠色の瞳が絶望に染まっている。
「……アヤメか?」
絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
ほんの数日前の光景が、脳裏に蘇る。
巨大な魔物を一刀両断した、あの圧倒的な強さ。絶望の淵にいた自分を救った、凛とした立ち姿。
——なぜ。なぜあの子が、こんな連中に……?
ありえない。あんな強い子が、こんな奴らに遅れを取るはずがない。
だとしたら、こいつらはそれほどの……。
頭の中で、冷たい声が囁く。
——関わるな。
お前には目的があるだろう。元の世界に帰って、母の仇を討つ。そのために、この森のダンジョンにあるという「扉」を探さなければならない。下手に首を突っ込めば、命を危険に晒すことにもなる。見捨てろ。今ならまだ、隙を見て逃げられる。
——『大丈夫ですか? うなされていましたよ』
自分を救ってくれた少女の声が蘇る。
恩人だ。でも、所詮は異世界の赤の他人。自分の命と天秤にかけるような義理は——。
——『どうか……生きて……幸せに……』
不意に、別の記憶が蘇った。
血の海に沈みながら、最後まで自分を案じてくれた母の顔。守りたかったのに、守れなかった。襲われる瞬間に、居合わせることすらできなかった。
あの日から、胸の奥で燻り続ける灼熱の後悔。それは、時間が経つほどに重く、苦しく、自分を責め立てる枷となっていた。
——また、同じことを繰り返すのか?
目の前で誰かが蹂躙されるのを「自分のため」という言い訳で見過ごすのか? 復讐のため? 扉を探すため?
そんな言い訳を並べて、この少女を見捨てて——その先に待つ復讐に、一体何の意味がある。母さんは、そんな息子の姿を望むだろうか。
「……ああ、くそ」
答えなんて、最初から決まっていた。
ふう、と長い息を吐く。覚悟を決め、山賊たちの方へ向き直った。
「おいてめえ、何ブツブツ言ってやがる!」
手下の一人が怒鳴り声を上げた。だが、その声には先程までの余裕はない。エミルから立ち上る、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。
エミルはただ真っ直ぐに、アヤメの髪を掴んでいる男を、そしてその奥で下卑た笑みを浮かべるデュバルを見据えていた。
その視線に、絶望の淵にいたアヤメが気づく。虚ろだった翡翠の瞳に、光が戻る。信じられないものを見るような驚きと、縋るような微かな希望。
「……エミル、様……?」
か細い声が、彼の名を呼んだ。その響きが、エミルの腹の底に火をつける。
「その子から、手を離せ」
静かだが、腹の底から絞り出した声が、夜の広場に響いた。
山賊たちの嬌声が止まる。誰もが、ろくな装備も持たない男から発せられた異様な気配に息を呑んだ。
沈黙を破ったのは、デュバルの品のない哄笑だった。
「かーっかっかっか! なんだあ、てめえ。その小娘の連れか? それとも、正義の味方ごっこでもしてるつもりか、ああ?」
デュバルが顎でしゃくると、近くにいた二人の手下がニヤつきながら剣を抜いた。
「舐めた口ききやがって」
「死にたいらしいな、小僧!」
左右からの挟み撃ち。手慣れた動きだ。
右手の男が大上段から剣を振り下ろし、左手の男ががら空きになった胴を狙って横薙ぎに刃を滑らせる。
だが遅い。遅すぎる。
スキル【俊敏強化】によって、思考と認識が極限まで加速する。エミルの目には、二人の動きがまるでコマ送りの映像のように見えていた。
ガンッ!
右の男の剣が地面を叩く。エミルはその一撃を余裕で躱し、懐へ潜り込んだ。がら空きの鳩尾に、容赦なく拳を叩き込む。
「ぐっ……ぉえっ!」
蛙が潰れたような悲鳴を上げ、男が崩れ落ちる。
休む間もなく身を翻した。左から迫っていた刃を躱し、その勢いのまま男の脇腹へ回し蹴りを叩き込む。
「がはっ!?」
肋骨が砕ける嫌な感触。男はコマのようにもんどり打って吹き飛び、焚き火の傍まで転がっていった。
たった数秒。二人の手下が、瞬きする間もなく沈められた。
「な……なんだ今の」
「おい、あの二人が……一撃で……?」
動揺が、波紋のように広がっていく。山賊たちは、信じられないものを見たという顔で、呆然と立ち尽くしている。
「……ほう」
デュバルが、初めて興味深そうな声を漏らした。その血走った目が、値踏みするようにエミルを舐め回す。
「てめえ、見た顔じゃねえがどこの冒険者だ……?」
「……ラグネシアの冒険者だよ、等級は『E級』だけどな」
一瞬、酒場が静まり返った。
「E級だあ? ぶはっ、はーっはっはっは! E級だとよ! おい聞いたか、E級だってよ!」
腹を抱えて笑い出した。堪えきれないとばかりに、涙まで浮かべている。それにつられて、手下たちの緊張も一気に解けた。
「E級ってことは最底辺じゃねえか!」
「薬草採りしかできねえゴミだろ!?」
「あの二人、そんな雑魚にやられたのかよ? あいつら油断しすぎだ!」
「なんか魔法でも使ったんだろうよ、種がわかりゃなんてことねえさ!」
嘲笑がその場に充満する。さっきまでの恐怖は消え失せ、侮蔑だけが残っていた。
「E級の雑魚がなあ、随分と笑わせてくれる。まあいい、ここで大事な事実は三つ。一つ目は楽しい宴の邪魔をしてくれたこと、二つ目は俺様の大切な子分を倒したこと、そして……」
デュバルは傍らの巨大な戦斧を、片手で軽々と持ち上げた。
「最後の一つは、このデュバル様に楯突いたことだ」
ゴッ、と空気が震えた。




